「癌」になって、考えたこと、感じたこと(1)

 〜発病の経緯と検査について考えたこと〜

<癌発見の経緯>

 2022年の6月くらいから、喉の調子が今一つだと感じていた。不調だと感じた部位は喉の少し奥と、耳の下のリンパ腺の辺りだった。細菌が感染しているような感覚だったので、近所の内科医院を受診した。コロナが問題の頃であったせいだろう。医師は、一切私に触ろうとせず、おそるおそるライトで私の喉を数秒照らしただけで、「抗炎症剤を出しておきますので、様子を見てください」と言った。
 10日くらい経って、悪くもならないけれども改善が見られない。次には、耳鼻科を受診して、内視鏡で喉を見て貰った。鼻から細い管を入れる耳鼻科の内視鏡は楽な検査だった。画像を見せても貰ったが全く異常はなかった。
耳鼻科の医師は「念のため、食道も見て貰った方がいいのではないかと言って、近くの胃腸専門の病院を教えてくれた。
 ベッドが2、30床くらいの胃腸専門の病院だったが、内視鏡の検査を受けた時には、8月になっていた。内視鏡の検査は気が進まなかったが、今回は調べてみた方がいいような気がした。
 内視鏡を鼻から入れてしばらく経ったら、内視鏡を操作している医師が妙に情熱的に写真を撮り始めた。
 診療室で別の医師に画像を見せて貰いながら説明を受けた。食道に癌が疑われるものが見つかったという。なるほど。しかし、問題の部位は食道の入り口付近ではなくて、ほぼ真ん中あたりだという。喉からは遠い。画面には、感じの良くない腫れ物が映っていた。
 「食道癌は当院では手に負えないので、大学病院に行って下さい。どこがいいですか?」と訊かれたので、自分のオフィスの近くで何となく印象がいいと思った大学病院名を挙げたら、あっさり紹介状を書いてくれた。検査の画像が焼き付けられたCD−ROMが入っている封書を渡された。
 大学病院は、その日の午後も外来患者を受け付けていたので、急いで向かうことにした。当日病院で対応してくれた消化器内科のドクターに「正式な診断は検査してからですが、癌であることは覚悟して下さい」と言われた。
その後、検査を経て正式な診断が下ったのは8月24日だった。不調を感じてから、2か月と少しが経っていた。
 この間に、友人で医者をやっている人物2名に話を聞いたところ、私が選んだのはたまたま食道癌の治療に定評があり、手術の症例が多い大学病院だった。「手術できる状態なら、手術が一番完治の可能性が高い」とのことで、友人から知人を介して手を回して貰い、丁寧な手術に定評のある食道・胃外科の教授に主治医になって貰うことが出来た。
 メガネを掛けた主治医は、「ステージⅢの食道癌です。今日から禁酒して下さい」と静かに言った。
 禁酒か。是非もない。前日に飲み納めは済ませてあったので、当日から禁酒することにして、「真面目な癌患者になろう」と決意した。
 私の食道癌発見の大凡の経緯は以上のようなものだ。これまで、「癌はどのように見つかったのですか」と質問してくる人が予想以上に多いのだが、これは、自分が癌ではないかと気にしている人がかなり多いということなのだろう。

<日頃の検査の得失>

 食道癌だとの診断を聞いて、大変厄介なことになったとは思ったのだが、大きな精神的ショックは無かった。癌についてはずっと意識下で心配していて、準備が出来ていたのかもしれない。ショックなど受けても意味がない、と反射的に思った。
 年齢や日頃の生活態度その他から見て、私が食道癌に罹ることは「十分ありそうなことだ」と思っていた。また、職業上、意思決定では「サンクコスト」(既に生じてしまって後から取り返しのつかない損失のこと)を無視して、今後に変えられることに意識を集中するような習慣付けがあったので、「これから、どうするかに集中するしかない」という気持ちになっていた。
 告知されたその日のうちに、仕事の仲間や家族に病状を報告して、療養生活が始まった。

 さて、日頃から、癌検診を受けていなかったのか。人間ドックに入ったり、会社の健康診断は受けていなかったのか。
 50代以降の私は、健康診断や会社が紹介する人間ドックに不信感があり、特に、胃の内視鏡検査に忌避感があった。健康診断は多忙を理由に受診しない年もあった。
 検査の身体的負担が嫌だからという理由もあったのだが、詳しい検査を受けなくてもいいと考えていた理由の一つは、故近藤誠医師の癌に関する一連の著作の幾つかを過去に読んで、自分に都合のいい部分に共感していたことだ。

 近藤氏の主張を一言でまとめるのは難しいが、私の理解をまとめると、以下のようなものだ。(1)早期発見を目的とした癌検診が死亡率を下げているという信頼できるエビデンスはない。検査には、放射線被曝、内視鏡による消化管の傷の可能性などマイナス面もあるし、検査の目的自体が商業的で不純である。
(2)癌には、転移して害をなすような基本的に治らない「本物の癌」と、転移せずに治療で治せる「癌もどき」とがあり、前者は早期発見しても治らないし、後者は症状が出てから対処しても間に合う。本物の癌が早期発見で治らないという理由は、転移の細胞分裂のスピードを考えると、原発病巣を発見して治療した段階では、まだ見えないものの既に転移が行われていると考えざるを得ないからだ。(「癌と癌もどきの理論」)
(3)以上から、癌は積極的に検診で見つけるのではなく、不調の症状を感知してから対処すればいい。

 実際的な問題として、どのくらいの不調に対して、病院に行って対処しなければならないかが自分にとって曖昧である、という問題があったが、ともかく上記のような考え方から、健康診断による内視鏡検査などの癌検診に私は消極的だった。
 近藤氏の考えが正しいのか否かは、私の中では、今も結論が出ていない。特に(2)の部分に関しては、医師の友人達なども含めて、論理的に有効だと思える反論を聞いたことがない。多くの医師達は、近藤氏に対して、「一部の事例を一般化してセンセーショナルに伝えて、患者の利益を損なっているのではないか」等の批判を浴びせるのだが、「癌に、本物の癌と、癌もどきがあるとした場合にどうなのか」について納得の行く説明をしてくれたことがない。そして、直ぐには見分けられないが、「たちの悪い癌」と「そうでもない癌」があることに関してはリアリティーがある。
 また、他のビジネスとの比較で考えて、もちろん全てがではないとしても、医療ビジネスが、患者の幸せよりも、自分自身の収益を作ることに重きを置いている可能性は排除できない。癌の検査にあっても、治療にあっても、商業主義の悪影響は排除し切れていないだろう。
 近藤医師ご本人にはお目に掛かったことがないのだが、人間関係の濃い医学の世界にあって、業界全体を敵に回すような仮説を問い続けた同氏は立派な人だと思っている。残念ながら2022年の8月に亡くなられてしまったが、ご冥福をお祈りする。

 では、あらためて検査の得失を考えてみるとしよう。
 「癌と癌もどき仮説」の当否は、筆者には分からない。だが、仮に見つかったのが「癌もどき」であったとしても、治療は行うことになるだろう。筆者の場合も、そのまま治療せずにいたら食道をものが一切通らなくなる直前の状態だった。何もしないわけには行かなかった。
 この場合、内視鏡の検査で症状が出る前のステージⅠや放射線治療が有力な選択肢になるステージⅡの段階で発見できていれば、内視鏡の簡単な手術で治療が済んだかも知れないし、放射線治療などで胃を元のまま温存できて手術療法の後に現在私が感じているような食事の不都合はなかったかも知れない。
 見つかった癌が「本物の癌」であった場合には、その後に転移した病巣が問題を起こすことになりそうだが、当面の医療費と1、2年分の生活の質には大きな差が生じそうだ。
 何回か後に書こうと思っているが、ステージⅢの食道癌とはいえ、直接に且つどうしても必要な医療費の額は健康保険(筆者の場合証券業健康保険組合)に加入していたら大した支出にはならない。しかし、抗がん剤治療で2回、手術で1回の3回入院し、合計で約40日を病院にいたことのコストは小さくない。自分で選んだ贅沢とはいえ個室の代金もあったし、40日間外で活動できないことの機会費用や、その後のQOL(生活の質)の低下などを考えると、これで完治が確実だとの仮定を置いたとしても、費用に換算して少なくとも数百万円、計算の仕方によっては1千万円を超えるコストが掛かっているように思われる。私よりも所得の多い人なら、もっと大きな額のコストを計算に入れなくてはなるまい。
 一年に一度程度の内視鏡検査の不愉快は、癌が見つかる段階での「コストの差」を考えただけでも正当化できるような気がする。仮に早期で発見しても既に見えない転移があって助からないような「本物の癌」であったとしても、初期の治療とその後しばらくの生活の差を考えると、「早く見つけた方が良かった」と言えるのではないかと思われる。
 後述のように、私には食道癌を心配するに十分なだけの飲酒習慣があった訳だから、複数の友人の忠告に従って、内視鏡検査を受けておくべきだったのだろう。
 癌になる前の元気な時には、「早期発見できたとしても、助かるか、助からないかは変わらないとすると、早期発見のために検査を受けるのは気が進まない」と「助かる・助からないのレベル」で観念的に考えていた。しかし、現実に即して経済計算してみると、損得勘定だけでも「検査受けるべし」が正解に近かった。
 食道癌の場合、症状が出てから、不都合が生じてから、の発見・治療だと、癌が進行している場合が多くなりそうだ。自覚症状の現れ方は、癌の種類が違うと異なるだろうが、一般に「発見時の進行度合いの差による経済的コストの差」は考えてみる価値があるのではないだろうか。
 仮に、私がこれからずっと長年元気だとしても、手術をしたことによる食事の不自由の累積コストは、金銭換算すると小さくないように思われる。

<飲酒と食道癌>

 私は、長年にわたってお酒を飲んできたし、お酒を楽しんできた。主に飲んでいたのがウィスキーとワインであり、特にウィスキーは食道癌の発症に対して影響があったのではないかと思われる。
 ウィスキー、特にシングル・モルト・ウィスキーは香りを楽しむお酒なので、愛好者の間では、ストレートで楽しむことが良いとされる。
 少しだけ寄り道を許して貰うと、氷でウィスキーを冷やして飲む「オン・ザ・ロック」という飲み方は、ウィスキーが濃い状態で飲むので通人の飲み方であるかのように思う人が少なくない。しかし、冷やすことによってウィスキーの香りを殺す飲み方なので、ウィスキー好きの客やバーテンダーは、高いウィスキーをロックで飲む客のことを密かに軽蔑していると知られたい。
 では、度数の高いウィスキーが苦手な人(ウィスキーのプロにもいる)、度数の高くない状態でウィスキーを飲みたい人はどうしたらいいかというと、香りを正確に味わうためには、常温の水で割って飲むといい。
 もう一つ付け加えると、氷が溶けた水というものは決して美味いものではない。これは、試して貰うのが分かりやすいと思う。
 私は、ウィスキーを炭酸で割って飲むいわゆるハイボールが好きで、ハイボールが長年ビールも代わりだったが、いいモルト・ウィスキーは主にストレートで飲んでいた。
 だが、ウィスキーをストレートで飲み続けると、それなりに食道癌のリスクは高まる。私は、頻繁且つ十分な量のチェイサーの水を飲むことを心掛けていたが、親しい友人に「山崎さん、後からチェイサーを飲むと胃では水割りだろうけど、食道ではストレートだよね」と言われたことがあって、なるほどその通りであった。
 ウィスキーは、長年それなりに熱心に飲んでいて、そろそろ趣味の一つに加えてもいいかと思っていた頃合いだった。あと3年くらい自由に飲むことが出来ていたら、本の一冊も書けたかも知れないと思うのだが、ドクター・ストップとあっては仕方がなかった。
 一つだけ大いに驚いたのは、禁酒が簡単だったことだった。それまでに、過去10年のうちに飲んでいない日は多分3日以内だろうというくらい毎日お酒を飲んでいたのだが、食道癌との診断が確定した2022年8月24日のその日から容易に禁酒が出来て、手が震えたり、落ち着きがなくなったりするような症状は全く出なかった。あれだけ飲んでいて、アルコールへに依存性が全くなかったのは自分でも不思議だった。

 元々の予定では、ここで飲酒のコストとベネフィットについて論じるつもりだったのだが、止めることにする。健康上のコストを考えて、生まれ変わったらお酒を飲まないだろうと計算してみせるのも空々しい。「癌ごときを恐れて飲まない人間はツマラナイ!」と力むのも、癌になってふうふう言っている今となっては見苦しい。
 私は、生まれ変わっても、きっとお酒を飲むだろう。たぶん、飲む。ただ、次の人生の機会があれば、飲み方は少し変えるかも知れない。

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