「癌」になって、考えたこと、感じたこと(4)

 今回は、癌に罹り、進行することで見えて来た、物、仕事、人間関係などの必要・不必要について書く。論理の筋立ては見えていて、一つには時間的な制約、もう一つには体調・体力的な制約によって、主にそれまで抱え込んでいたものの中で不要になったものがどんどん見えて来たということだ。
 ところで、この原稿を書くにあって、こちらの事情で遠ざけた仕事や人間関係の当人や関係者が読者の中に混じっている可能性について考えなければならない。これは、率直に言ってかなり気の引ける事情だ。
 この点については、以下のように考えてみて貰えないだろうか。
 仕事や人間関係は、その時のタイミングや縁によって、価値が大いに変化する。ある時には、貴重な仕事の縁であったり、重要で興味深い貴重な人間関係だったものが、条件の変化によって相対的な優先度が変わる。筆者は、決して、仕事、まして人間の絶対的な価値を判断できているのではない。
 今回は、この前提条件で事実を率直に書かせて貰うことにする。それでも残っている非礼に対しては、平にご容赦を乞う。

<「真面目な癌患者」を目指したステージⅢ時代>

 さて、筆者の療養過程を簡単に振り返る。2022年の8月24日にステージⅢの食道癌と診断された日をスタートとしよう。治療方針は、抗癌剤(3剤)を2クール投与後に、手術または放射線で病巣を取って、再発しない根治を目指す。入院はそれぞれ2週間見当で、それぞれの入院の間には2週間程度の休みの期間が入る。
 大きな選択肢は、根治を目指す方法として手術と放射線のどちらを選ぶかかだった。主治医の教授は自身が外科医でもあり、手術を勧めた。筆者は、手術により話が不自由になるリスクについて相談したが、癌が気管などに近く放射線で叩きにくいかも知れないこと、声帯を司る神経についてはこれに触らずに上手く手術が出来ることを説明された。信頼できる数人の参考意見を聞くと、手術が出来るならその方が根治率は高いだろうと意見が一致した。 
 抗がん剤3剤を事前投与する治療法は割合新しく、筆者は、この方法の下での手術と放射線の成績を比較したデータを見つけることが出来なかったが、ドクター達の印象としては手術の方が成績が良いということらしかった。
「手術でお願いします」と言うと、頭の良い無駄なことを言わない主治医の教授が嬉しそうな顔をして「頑張りましょう!」とこの人らしくないことを言った。外科医は手術が嬉しいものらしい。
 この頃の筆者の頭の中にあったキャッチフレーズは「真面目な癌患者になろう」だった。食道の手術後は、以前よりは食事が不自由になるはずだが、慣れによる改善も見込めるし、仕事は以前とそう変わらずにできるようになる。先ずは、その状態を目指そう。
 但し、食道癌は転移や再発が多く、半分くらいが2年以内に再発する。ここをクリアできるかどうかが大きな分岐だ。
 これが、治療前期の筆者にとっての大まかな与件である。
 この頃は、まだ体力が十分残っていた。スポーツで鍛えていた訳でもないし、生活は不規則・不健康だったのだが、同年代よりも体力があった。
 仕事が大いに気になっていたし、その関係で、抗癌剤による脱毛の可能性をずいぶん気にした覚えがある。

<わが物欲生活>

【収入】

 物・仕事・人間関係の、物から振り返ってみよう。
 大まかに言うと、筆者は、普通の人よりも物欲が旺盛で、浪費家に属したと思う。ただ、自分で設定したつもりの生活レベルはそう高くない。
 2回結婚し、それぞれの結婚で一男一女の子供を授かったが、それぞれの家族を養い(生活費の支払いが二重になった時期が相当期間ある)、残りのお金は自分の裁量で使った。家計の管理は、妻に一定の生活費を渡して、残りを自分で使うスタイルだった。自分のお金の貯蓄や投資について、関心を持ったことはほぼない。
 一般論として、夫婦はお金の問題をオープンに話し合い、適性がある方が主にお金の管理するといい、などと対外的には言っていたが、自分には当てはめていなかった。
 「投資」は仕事の対象であり、課題として考える際の「お金」はゲームのチップのような物だった。これに関わることと自分のお金の処理には距離をおきたかったし、そもそも自分のお金について考えることが好きではないのだろう。なぜか請求書を書くという作業が大嫌いだった。それは今でもだ。請求書を書くのが面倒で、原稿料を100万円以上受け取らずに貯めていたことが、40代の頃に二度ある。
 転職を重ねているうちに、30代の半ばの外資系証券会社勤務の時に年収が3千万円前後に達した。その後、多少のアップ・ダウンはあるが、癌に罹るまでの30年間、税引き前の年収に換算すると3千万円くらいの収入だったと思って頂いていい。収入の内訳は、その時々で大きく入れ替わることがあるのだが、合計はこれくらいだった。30年の後半は、小さな会社を作って社長だったので、飲食やパソコンなどの買い物にはそれなりの経費が使えたから、実質的にもう少し豊かだったかも知れない。
 楽天証券の社員としての収入が相対的に大きかったかも知れないが、同社も含めて、特定の先からの収入が半分を超えないような構成で働いていた。
 読者は「意外に稼いでいないな」と思うかも知れないし、「好きなことを言って、まあまあ稼いでいる幸運な奴だ」と思うかも知れない。
 これは、どちらでもいい。本人は、自分が豊かだとも、貧しいとも思っていなかった。

【地位財について】

 経済学者ロバート・フランクの本で知ったのだが、経済学に「地位財」と呼ばれる概念がある。自分の経済的な力・地位を対外的にアピールできる財のことで、不動産、高級自動車、衣装、アクセサリーなどが典型的に該当する。近年では、子供教育などもそうかも知れない。
 地位財は、その効用が相対的に決定し、他人との競争がエスカレートしやすい。その結果、地位財への支出はしばしば、非地位財への支出を圧迫し、生活の幸福度を下げる原因になる。
 非地位財の典型は「余暇の時間」だ。例えば、競争に巻き込まれて分不相応な不動産を購入してしまって、ローンの返済のためにストレスの多い職場で長時間働かなければいけなくなるよう状況で、幸福度が下がる
 人は、何らかの地位財について、意図的に競争から降りると、家計が楽になって生活の幸福度が改善する事が多い。これは、読者の役に立つ可能性がある一般論だと思うので覚えておいて欲しい。
 筆者は、半ば意図的に、不動産と自動車から「降りた」。不動産は、北海道から大学生として東京に出て以来ずっと賃貸生活で、家族には申しわけなかったかも知れないが、収入よりは質素な物件に住んだ。その代わり、頻繁に引っ越した。今や数えることすら面倒だが、上京後の引っ越し回数は15回を超える。主に転職に伴う職住接近を求めた時間と利便性への投資として引っ越したが、子供の健康の都合や、学級が荒れた小学校から逃れるための引っ越しなど、家族が原因の引っ越しもあった。
 自分としては、おかげでより自由に暮らせたつもりなので、賃貸生活が合っていたと感じている。
 これが、収入が増えた外資系証券マン時代に、「節税のためのマンション投資」のようなものに巻き込まれていたら、事情が違ったのかも知れないが、自分のお金に興味が持てなかったし、利殖に熱心な同僚を尊敬よりは軽蔑していたので、距離を置いた。「お金にがめつくない外資系金融マン」とは、全く職業適性を欠いている。ビジネスマンとしての私は間違いなくB級以下だ。
 自動車は、一度妻のためにコンパクトな外車(ゴルフ)を買ったことがあるが、自分では一度もハンドルを握ったことがない。私は生涯完全ペーパー・ドライバーで一生を終えそうだ。仕事を考えると、事故を起こすことが怖かった。もともと背中が暖かくなって15分黙っていると眠くなるように出来ているので、これで良かったような気がする。
 ファッションセンスに自信がないので、衣類に熱心だったという自覚はないが、そちら方面の地位財競争からは降り切れていない。時計もそうだが、不必要に高い革靴(何れもジョン・ロブ)を数足持っていたりする。「エルメスを着た豚よりも、ユニクロを着たカモシカの方が魅力的だ」(注;どちらも好きなブランドで、特にエルメスは好きなのだが)などと書くことはあったのだが、センスに自信がない一方、容姿にも自信がなかったので、エルメス的な物から自由にはなれていなかった。
 多分、持ち物は平均的な同年代よりもかなり多く持っていた。そして、片付けは得意ではない。頻繁な引っ越しがかろうじて、物を整理するきっかけになっていた。
 尚、不動産と高級自動車から「降りた」ことの効果についてだが、仮に筆者がこれらに熱心だったら、自分はそのためにもっと稼ぐための努力をしたのではないかとも思われる。いいことばかりだった、と言い切る自信はない。

【持ち物たち】

 筆者の物欲は、アップル製品のようなガジェット類、高級時計、カメラ、鞄などが主な対象だった。
 癌に罹る前の時点では、百万円を超える数本の高級時計くらいが一存で決める買い物の上限だったが、カメラは一時ライカ、キヤノン、ニコンの3つのラインを交換レンズなども含めて持っていたし、パソコンやタブレットの類を年に2、3台買うので常時十数台所有していた。
 衣服は、夏物・冬物のスーツ数着と、方針をまとめきれないカジュアルウェアが大きめのクローゼット一杯に入っていたし、鞄の類も多かった。 これらが、家族と住んでいた池袋の家の自分の部屋と、飯田橋に借りていたやや広い事務所に分散されて置かれていた。
 加えて、仕事柄、書籍や論文のコピーなどの資料がある。書籍はなるべく買わないつもりでいても、少しずつ増えていく。
 もっとも、物の所有がこの位で済んでいたのは、筆者が、飲食に熱心な大酒飲みだったからだろう。食べ物も、飲み物も、それほど高級なものを食べ続け、飲み続けていた訳ではないが、特にお酒は、過去10年間で飲まない日が3日あっただろうか、というくらい飲んでいた。一人でも飲んだし、多人数でも飲んだし、大した額ではないとしても友人や後輩に奢るのが好きで、割り勘払いを軽蔑していた。大凡、可処分所得の3割くらいを飲んでいたのではないだろうか。

【第一期引っ越し】

 筆者は、癌に罹ってから2回引っ越しているが、一回目は、2022年の9月、抗癌剤治療の1クール目と2クール目の間に飯田橋の事務所に近い場所にワンルームマンションを借りて自分の生活拠点を移すことにした。もともと、池袋と飯田橋の行き来が負担だったことと、通っている大学病院への通院の利便性を考えた引っ越しだ。
 この引っ越しは、息子が大学に合格したので大学の近くに一人で下宿させ、妻と娘は娘が高校に通いやすい沿線に住み、筆者が池袋の部屋を引き払う2023年3月の池袋撤去で完成することになる。この間、2022年の10月29日に手術を受け、13日後に退院した。
 この際に、主に減らした物は、衣類と書籍類、鞄類だった。
 ガジェットの類はオフィスに移動して置いておくことが出来たが、衣服はクローゼットのサイズが半分になる。また、書籍はオフィスにも置き場所を増やす余地がなかった。

【衣類の整理】

 前述の通り、筆者は、自分のファッションセンスにも容姿にも自信がないのだが、人生のファッションポリシーを駆け足で振り返ってみよう。 札幌の地元の私服OKの自由な校風の公立高校に合格して、発表を見た山崎少年が帰宅して直ぐに行ったことは、中学校の制服を焼却炉で燃やすことだった。中学時代は人生のボトムの一つだったし、これからは自由に着るものを選ぶのだと思った。
 今一つ垢抜けない大学生時代を経て就職したのは三菱商事だった。もちろん、仕事は100%スーツだ。スーツ類は同期の友人が教えてくれたポールスチュワートのみで既製品を買うことにした。店の範囲を拡げない方が選択が楽だからである。
 スーツの色柄はほぼ紺の無地一色、ワイシャツを白に決め、ネクタイだけを選ぶ仕事着が20年以上続いた。ネクタイだけポールスチュワート以外のものも選んだ。ブランドはエルメスが好きだった。40歳代半ばから評論家の仕事でテレビ出演の機会なども増えて、個性的な服を着る選択肢もあったのだが、このポリシーが楽で、その後も続いた。
 こうしているうちに、自分で服を選ぶ能力がどんどん萎縮していった。この点については、少々後悔があるのだが、「楽」が勝った。
 普段着については、主に気楽に着られることを意識した、まとまりのないジャケットなどのあれこれがクローゼットに溜まっていた。
 さて、癌である。
 手術から戻ってみると、流石に体重が数キロ減っていた。食道癌の手術は食道と胃部の上五分の一くらいを切除して、残った胃を元の食道の位置につなぐ形で行われるので、必然的に食が細くなる。やがて新しい消化器に慣れるとまあまあ食べられるようになるらしいが、一、二年は掛かりそうだ。一方、この時点では、仕事にはフルに復帰するつもりでいる。
 問題は、自分が痩せることによってオーバーサイズになった夏冬それぞれ数着あるスーツ群をどうするかだった。結論は、「夏冬一着ずつ残して、残りは全部捨てる」だった。一着ずつ残すところが減点の80点くらいの答えだったと思うが、概ね正解だった。この病気の場合、体重が簡単には戻らない。また、スーツは何よりもサイズがぴったり合っていることが重要だから、また同じようなものを着たいと思った場合には、新しいものを買うことが圧倒的に正しい。
 もう一点、アドバイスをくれたのは妹なのだが、白髪頭になってそれなりに歳を取った自分には、紺のスーツも、スッキリと白いワイシャツも微妙に合わなくなっている。若くて元気な頃なら勢いがあって着られたコントラストの高い原色の服には着負けする。これからは、ピンクなり水色なりの中間色のシャツにグレーのジャケットでネクタイをしない爺さんになろうと決めた。
 こうした方針に従うと、カジュアルウェアやコートなどでも不要なものが見えて来た。本当に似合う服という物は、驚くほど少ないもののようだ。削減はまだまだ不十分だったが、ざっと衣服の半分が減った。不安と言うよりは、ホッとしたことを覚えている。
 ついでに、各種のデイパック、ビジネス鞄、その類似品などの鞄類も半分以上捨てた。人間は、どうしてこんなに多くのバッグを買う生き物なのだろうか。

【蔵書管理】

 評論家商売をしている者として、筆者の蔵書管理はやや特殊かも知れない。 先ず、大きな方針として、筆者は自分の論考に当たって、先人の著作の引用や、データによるエビデンスに、「なるべく頼りたくない」。自分のアウトプットの価値は、自分の「考え」にあり、学者のような積み重ねによる証明にはないと考えている。学者のような確実な積み重ねや、ジャーナリストのような一次情報へのアクセスがないことを以て、評論家を批判しようとする人が時々いるが、これはお門違いだ。それぞれ、別の職業である。学者や学問は大切だと思うし、尊敬する。ジャーナリストに対しても(本物に対しては)同様だ。知識の集積を利用させても貰う。しかし、評論家は学者のペースで考えてアウトプットしていたのでは、使い物にならない。
 従って、筆者は、物としての本に対する拘りが相対的に希薄である。
 しかし、そうは言っても本は増えるし、本を買うことを躊躇すべきではないと考えている。本を読むことの最大のコストは何と言っても時間の機会費用であり、書籍本体の価格は大したものではない。 このような考えの下で、筆者は数年を掛けて蔵書のデジタル化、PDF化を進めてきた。自分でスキャンした物もあるし、スキャン業者に発注した物もあって、たぶん4千冊近くの本がPDF化されている。必要があれば、ブックリーダーとしてiPadを使って読むことにしている。
 さて、手術入院から帰って来た筆者は蔵書に対してどうしたか。
 仕事には完全復帰するつもりでいる訳だが、自分に期待できる持ち時間が短くなったことは否めない。「半分の確率で2年以内に再発して、その場合には先が長くない」という与件を当てはめると、将来有効に使える時間の期待値は2、3年くらいだと見積もっておくことが正しいように思われた。
 すると、リアルにそこにある本も、PDF化された本も、読む時間はそれほどないことに気が付いた。リアル本のPDF化は一層スピードアップしたのだが、Kindleで入手可能な本、今後どうしても必要になれば再入手が可能そうな本については、思い切って単純に捨てることを併用する事にしたら、オフィスの本棚が大いに片付いた。蔵書としての見栄えは悪くなったのだが、他人に見せるためのものではないと割り切った。段ボールで数箱分の本を捨てた。
 もう一つの問題は、長年持ち歩いてきて、過去の筆者の専門的なスキルを支えていた論文とそのコピーをどうするかだった。副業的にも、多くの価値を生んでくれた論文があったし、心の支えでもあった。これが、本棚に3段分くらいある。これらについては、一緒に仕事に活用してきたかつての同僚と相談して、どうしても必要と思われる物をスキャンして残し、思い切って捨てることにした。
 これから利用する可能性があるのは、頭に残っている知識だけだ、自然に割り切ることが出来たのは、癌によって「持ち時間」制限を意識したおかげだろう。2022年の年末に掛けて、論文に懐かしく目を通しては、その大半を捨てる作業に取り組んだ。
 蔵書、論文に関してこのように処理してみた感想は、「癌にならなくても、もっと早く、更に徹底的にこうすべきだった」ということに尽きる。価値があるのは頭の中に残った知識であり、再調達が可能だったり、Kindle化されている本については、現物を保有する必要はない。幸い、筆者は学者や書籍のコレクターではない。
 ところで、4千冊のPDF化された蔵書だが、読み返す機会は驚くほど少ない。「読む時間」を考えると当然なのだが、本当に少ない。時々見返すことがあるのは特定の30から50冊くらいにすぎない。本への拘りは、もっと捨てても構わないのだろうし、それが合理的だろう。
 一方、惜しかったと思うのは、かつて自分が書き込みを入れながら読んだ基本書的なテキストなどだ。こうした本は、リアルな現物を残しておいた方がよかったと思う。「あのページの、あの辺りにあった言葉を知りたい」と思うことが時々あるし、本を開くと昔の思考が戻ってくることがある。

【癌再発から第二期引っ越しへ】

 さて、しばらくまあまあ平穏な日々が続いた。息子が第一志望の大学に合格するなど、嬉しいイベントもあった。
 しかし、2023年の3月の終わりから4月の初旬に掛けて、いきなり声が出なくなった。
 本noteは医療情報の提供を目的としていないが、癌患者側の実感として、病状の進行は均質なスピードで進むのではなく、急にスピードアップすることがあるという認識が必要であるように思う。
 2023年の5月初旬に掛けて、みるみる体調が悪化して、体重と体力が落ちて、妹によると話の内容も時々覚束ないような状態に陥った。彼女は、下手をするとこれから2、3カ月でお終いかも知れないと思ったらしいし、本人もそれは十分あり得ると思った。
 複数の転移が、骨や胸膜、胸腔内にあって文句なしのステージⅣだ。PET−CTの画像を見ている主治医に尋ねた。「これから活動できるのは、せいぜい半年とか、一年とかでしょうか?」。
 主治医は「いや。山崎さんの場合進行が早いので、半年は保証できません」とやや興奮気味に答えた。「持ち時間」の前提が急速に縮んだ瞬間だった。筆者は、「2年以内に半分再発」のクジの外れの方を引いたらしい。
 治療薬の組み合わせを変えてみることにしたが、奏効率のデータは「2割程度の人にはよく効くことがある」というくらいの印象で、大いに希望を持てるものではなかった。事実病状は進行した。
 だが、一時的な体調の落ち込みからは、周囲のサポートや本人の気力と体力のおかげか、かなりの程度回復することが出来た。何が回復の原因だったのかは分からないが、ある程度持ち直した。2月の体力を100とすると、5月初旬には30くらいに落ち込み、その後夏に60くらいまで回復して、再悪化して11月には40くらいまで落ち込んだ、というイメージだろうか。
 ともあれ、余命ベースで期待値を向こう半年くらいに設定する、精神的に少々ハードな作業が始まった。
 声は前々から気にしていたポイントだが、転移でやられたのだから仕方がない。サンクコストである。その後、引っ込んだ声帯にコラーゲンの注射をして膨らませて、声帯に息が引っ掛かって声が出るようにするというなかなかハードな治療を行って、現在ある程度の声が出ているが、本格的に喋る仕事は出来そうにないし、不安定で先が読めない。
 その後、飯田橋のオフィスとワンルームを維持する積もりだったが、オフィスを維持する必要性が低下したことに加えて、仕事が減ることが分かったので、両方を撤去して、病院に近い場所に事務所兼住居のニュアンスでマンションを借りることにして8月に引っ越した。副社長と2人で長年続けてきた会社を閉鎖するのは寂しかったが、合理的な選択だと思った。

【ガジェットたち】

 さて、第一期の引っ越しでオフィスに集まった、パソコン、タブレットなどの各種ガジェットやカメラなどはどうなったか。
 パソコン、タブレットの類はデータを責任を持って廃棄してくれる業者に依頼して不要なもの全てを捨てた。当時、漢字の「うんこドリル」などという本が流行っていたので、「小渕事務所の、優子ドリル」などというデータ消去の本を出すと面白いだろうなどと妙な考えが湧いたが、業者を信頼して任せることにした。
 何れもまだまだ使えるものばかりだったので惜しかったが、捨ててみてホッとしたというのが正直な感想だ。
 カメラやレンズの多くは他人に譲渡したが、RICOHのGRデジタルが2台、キヤノンのEOS6Dとレンズが3本、それに学生時代に父親に買って貰ったライカと標準レンズが捨てきれずに残っている。
 現在、ゼロから道具を揃えるなら、iPhone15proとMacBookAirの15インチのモデルだけで仕事をするのが必要十分でスマートだと思っている。iPadは余計かも知れないが、主にブックリーダーとしてM2チップが入った11インチのproが一枚ある。写真は、長らく趣味だったが、体力の落ちた今撮り歩く元気はないし、iPhone15pro以上の画質のものを必要とするとは思えない。また、15インチのMacBookAirは信じられないほどバッテリーが保つし、作業スペースで13インチとの差が見た目以上に大きい。これらで全てを賄うのがスマートだ。
 但し、仕事の道具なので、iPhoneもMacBookAirも調子が悪い時に直ちに使えるバックアップが必要だ。iPhoneは12miniが1台あり、MacBookは初期のM1チップが入ったMacBookAirが通常はデスクトップ機として、アップルのスタジオディスプレイという27インチディスプレイにつながれて現在机上にある。
 処理に出して廃棄した何れの道具も、買う時にはそれなりの用途を見つけて買ったはずなのだが、後で気づいてみるに、買った時の刺激が嬉しくて買ったのだと思わざるを得ない。
 一気に物が整理が出来て、肩の荷が下りたように気分が楽になったのが、情けないが正直な感想である。

【体力と時間と仕事】

 さて、物に続いて、仕事の説明をしよう。
 手術入院を終えて2022年の11月に退院して、オフィス近くに借りた1Kのマンションでの独り暮らしとなった。寝ている時に食事が逆流すると困るので、頭の位置を上げられるように電動ベッドを用意した外に特別なことはない。
 食事は咀嚼して飲み込みにくい固形物以外は食べられるのだが、一回の分量が一人前はとても食べられないし、むせてしばらく食べられなくなったりすることがあるので、基本は自炊だ。
 特別に凝った物を作る訳ではないが、料理は出来る。スキルには問題ない。しかし、パスタや蕎麦など乾麺から茹でる麺類なら一回30gから40gと食事の単位が小さい。一日5食くらいに分けて食べるといいと言われても、なかなか面倒だった。当面通院は一月に一度で、再発防止のための薬剤を点滴投与する。
 この時点で、「持ち時間」と「仕事」についてどう考えたか。
 先ず、持ち時間の判断の与件だ。(1)向こう2年で再発する確率は概ね50%、(2)再発したら余命はたぶん1年くらい、(3)再発しない場合5年くらい大丈夫で先も考える必要がある、という位に考えた。
 全てが「仕事」とは限らないが、積極的に活動できる期間の期待値は、堅めに見積もるとして2年から、3年くらいだろう。その先がありそうなら、その時に考えたらいい。これが大まかな「持ち時間」の想定となった。
 もう一つの考慮要素が、体力だ。今後回復が見込めるとはいえ、健康だった頃よりは体力が落ちている。
 評論家仕事にとってもともと最も効率良く儲かるのはリアルの講演会だ。まあまあの仕事だと一回で30万円から50万円くらいになる訳だが、私の場合、証券会社、銀行、生命保険会社、あるいはこれらの会社から広告を欲しがるメディアなどの有力後援スポンサーに嫌われているので、いわゆる「マネタイズ」の段階で失敗している評論家だ。
 そうは言っても、講演依頼は時々あって大事なのだが、あちらこちらに移動しながら講演仕事をこなすのは、体力的には厳しくなりそうだ。例えば、YouTubeは既に競争上レッドオーシャンだが動画で発信する仕事の手段はないか。この頃は、声は問題なく使えるとの前提で考えている。或いは、noteという新しい稼ぎ方があるようだが自分に向くか、AIと自分の運用知識のストックを使って何か出来ないか、などと狭い部屋で頻繁にキッチンに立ちながら考えた。
 過去の経験上、働き方・稼ぎ方は、10年に一度程度リニューアルしないと古びて効率が落ちてくるということもあるので、今後の働き方を真剣に考え直さなければならない頃合いだとの感覚もあった。
 加えて、過去10年くらいの生活を振り返って、趣味に使う時間が貧しくなっていることに対する反省があった。筆者の趣味は、将棋、囲碁(何れもアマ4段くらい)、競馬、スポーツ観戦はボクシング、などといったはっきり言ってオヤジ趣味であるが、何れにも殆ど時間を使えていなかった。これは、精神的に貧しいし、修正の必要がある。
 実は将棋を指したいとはあまり思わず、妙に碁が打ちたかった。幸い、市ヶ谷の日本棋院は飯田橋から近い。ボクシングの試合も見たいのだが、こちらも聖地・後楽園ホールが徒歩圏内だ。
 年齢(当時64歳)に伴う仕事のスピード調整もしたかったのだ。

 実際には大きな変化を生み出した訳ではなく、主に連載の仕事をルーティンワーク的にこなす日常だったのだが、仕事について以下のように考えた。
 先ず、先の体調が読めないことと、体力が低下していることから、講演・セミナー講師のような仕事は全て断ることにした。かつての基準で考えると、ずいぶん筋のいい(依頼者の意図が純粋な)、さらに条件もいい案件を多数断った。数百万円分の収入がへこむが、これは何れ埋め合わせる手段を考えるといい。
 さて、取りあえず活動期間が2年あるとすると、先ず、自分の仕事のまとめと再構築が必要だ。近年、初心者向けの資産運用入門的な本にアウトプットが偏りすぎていた。自分が長年取り組んできた資産運用について、知識を体系化した本をシリーズで作りたい。楽天証券の「トウシル」だけで400本以上の過去原稿があるので、素材は十分すぎるくらいあり、しかも、自分以外にこれを本にまとめる構成案を作ることは出来そうにない。
 今後も資産運用関連の情報提供で食っていくとすると、技術・知識のレベルを対外的にも分かるように積み上げる時間と努力の「投資」が必要だ。私は、書く仕事は苦痛ではないし、結果が後に残るので満足感がある。どうしても、どんな本を作るかを中心に自分の仕事を考える傾向がある。
 もちろん、資産運用入門的な本のオーダーは常時複数提案があるので、これも並行して書いていくつもりではある。
 ついでに、ウィスキーの本はこれを書けるところまで達しなかったが、雑誌「優駿」に連載していた競馬のコラムは、これを使いつつ加筆するとそろそろ本に出来そうだとも思った。趣味の本もアウトプットとして残せると満足だ。
 一方、単行本はよほど当たるのでなければ、効率のいい稼ぎにはならない。何らかのサブスク的な収入源はないか、動画発信がビジネスになる仕組みを作れないか、AIを使った運用知識のビジネス化は出来ないか、などを考えた。
 実際には、考えているだけで、大きな動き出しはなかった。せいぜい、noteを書き始めた程度だった。こちらは、ある程度コンテンツを溜めてからサブスクにするかどうかを考えるつもりだった。noteの担当者から比較的早くに有料化しないかとの誘いがあって、有り難いとは思ったのだが、有料化は何となく気が引けて今日に至っている。

 そして、動くに至らなかった理由は、はっきりしている。2023年の3月末から4月初旬にかけて体調に変調を来して、残念ながら癌が再発したことが分かったからだ。
 手術後3ヶ月目に受けた2月のCT検査では「何もなし。大丈夫」という結果で安心していた。3月には息子が東大に合格して、「少しはいい風が吹いてきたか」と思っていた矢先だった。いきなり声が出なくなったのだ。声帯に息が引っ掛からないので、ヒソヒソ話しか出来ない状態に陥った。
 私は半分が当たり、半分がハズレのクジのハズレを引いたということだった。しかも、クジの結果があまりに早くに出た。
 反回神経という声帯を司る神経の右側を転移病巣にやられていて、右の声帯が引っ込んでしまった状態だった。加えて、胸腔内に複数の転移があり、離れた場所の骨にも転移がある。遠隔転移ありのステージⅣだ。常識的に完治はもう望みにくい。
 主治医に訊いた。「率直に言って、元気に活動できるのは、半年とか、一年といった時間でしょうか?」。
 主治医は「いや、山崎さんの場合は進行が早いので、半年は保証できません」と早口で言った。余命の、仕事の、「持ち時間」の前提が急に縮んだ瞬間だった。
 主治医の配下のチームの医師によると、主治医は具体的な数字についてはあまり口にしない人らしい。珍しいですね、と言われた。
 もっとも、大学病院はおそらく訴訟のリスクに対応してコンプライアンス的に敏感な組織なので、ドクターたちは「○カ月は大丈夫です」といった保証と受け取られかねないような発言をしないように意識しているようだ。
 因みに、私の「〜カ月はだいじょうぶですか?」という質問は、ダメな投資家が「山崎さん、20年の長期投資なら絶対に損はしないですよね?」と同意を求めてくる質問と同じ構造になっている。保証なんて出来るはずがない。リスクが消えないからこそ、リターンがあるのだ。投資するかしないかは、自分で決めろ。少しは頭を使え。と私は思う訳だが、これと同質の質問を癌患者としての私は医師にしていることになる。ここは、少し馬鹿にして笑ってくれてもいい。
 4月に抗癌剤を投与する入院を行い、放射線を部分的に当てて、免疫を強化する系統の薬で治療する方針が決まった。しかし、体力が落ちていることもあってか今回の入院は生活のリズムが合わないことなどが辛く、目に見えて調子が悪くなったので、途中で退院させて貰うことにして中止した。「この治療は中断して、直ちに退院したい」と言ったら、本当に即日退院の許可が出たことに驚いた。これは、むしろ患者の側に最終決定権と自己責任とがあることに気づかずにいたことに驚くのが正しいようなのだが、病院を逃げ出して、小さな部屋に戻った。
 再発に至ったことに関して、それまでの治療方針や検査などの選択を検討し後悔するような気持ちは一切起きなかった。ここまでに至った諸々は、「サンクコスト」である。大事なのは、これから何をするかだけだ。原因は、「そういう癌だった」と整理しておくのがよかろう。天国の近藤誠氏も「そうだ」と言うにちがいない。
 気持ちの切り替えには何の問題も無かったが、体調はどんどん悪化した。5月初旬には、あと3カ月でもおかしくないな、という調子と気分になっていた。この時点が、発病以来現時点に至るまでの体調のボトムである。
 本稿は医療情報の提供を目的としないので、どのように回復したかは書かないが、最悪の体調で後ろ向きの意識になりがちな中で3つやりたいことが頭に浮かんだ。

 1つは、息子に語りかける想定で、他の子供たちや読者に語りかける、稼ぎ方とお金の扱い方の本はメッセージとして一冊作りたい。
 もう1つは、これまで拙著の中で一番よく売れて、著述商売にあってはいくらか世界を変えてくれた「むずかしいことは分かりませんが、お金の増やし方を教えて下さい」(大橋弘祐氏と共著。文響社)の改訂版を出したい。これは、12月6日付けで出版される予定だ。旧版の読者にも楽しんで貰える大幅な改定で、まずまず満足の出来映えである。
 三つ目に、コロナの前から会っていない母親に数年ぶりに会って、一言挨拶を述べたい。母親は、札幌の高齢者施設にいて彼女自身の体調も優れないのだが、どうやらこちらの方が早そうだ。産み育ててくれたことへの礼の一つくらいは言うべきだろう。
 これらを実現して、まだ余力がありそうなら、その時に次を考えよう。ボトムで考えられるのは、ここまでだった。本当にやりたいことが、ここまでクリアに見えてくるものなのか。
 先日母親に会ったことで、3つの願いは実現の目処が立った。ゲームで言うと「一画面クリア」という感じだろうか。今再び悪化しているが、幸い体調がしばらく持ち直したのだ。
 もう一点、明らかに割りの悪そうな仕事なのだが、「まんがで読破 資本論」(学研)の解説を引き受けた。30ページを超える長文の解説になった。近年、斉藤幸平さんや、白井聡さんなど、資本論を好意的に読む人たちの本が売れていて、資本主義論が盛んだ。因みに、筆者は白井聡氏のファンだ。彼の書くものは本当に面白い。ただ、各種の資本主義論を見て、幾つかの誤りが見えて来たし、資本主義の仕組みが今までとちがった形で分かって来た実感があった。時間の制約が生じて、仕事の選択に対して、「面白い」という価値観が相対的に大きく浮上した。

 ここであらためて驚くのは、この間も、連載の原稿を一本も落とさずに書き続けていることだ。
 「ダイヤモンドオンライン」、「東洋経済オンライン」、「夕刊フジ」、「優駿」、それに楽天証券の「トウシル」というラインナップで、体力的には一本一本の執筆が少しずつ大変になって来ているのだが、「締め切り」というものには人を動かす偉大な力がある。これこそが、人類最大の発明だと思うが、アインシュタインに訊いてみたい。また、人とのつながりを持った発信の機会があって、良くも悪くも自分が評価されることが、自分にとって日頃意識している以上に大事なことなのだろう。
 仕事を減らしてばかりでは、元気が出ない。その後、11月から「週刊現代」でテーマ自由のエッセイを連載する仕事を増やすことにした。筆者が癌の深刻な病状にあることは了解済みでのオファーがあったので、ありがたく受けることにした。編集者は「書けるところまで、書いて下さい」と言う。
 生きていると、時々いいことがある。

【整理される人間関係】

 自分の財産の一つだと思っているが、私には「山崎となら飲みに行ってもいい」、「山崎の話が聞きたい」と思ってくれる人との人間関係が多い。癌にならなければ、毎週、2、3人の違う人を呼び続けて、30人から50人くらい付き合ってくれる人物がいると思う。
 私が面白くて、話す価値のある人間だからか? そのようなな自信は全く無い。事実とも異なるだろう。
 最大の理由は、これまでに楽しく飲んできたお酒のおかげだ。だから、飲み方に少々気をつけた方がいいのだとは思うが、お酒を飲むなとは、身内にも他人にも、一言も言うつもりはない。
 とはいえ、「持ち時間」と「体力」の制約が現実の物となり、さらに「持ち時間」が不連続に縮んだ時に、人間関係はどうあるべきなのか。誰に対して時間を使うべきなのか。

 結論から言うと、自分から頼んで時間を貰い、意見なり情報なりが欲しいと思う相手を、自分が選んで時間を使う、ということに集約される。それ以外にない。
 そうでない相手に時間を使うのは、癌でない平時であっても、本来は時間の無駄だと考えるべきなのだ。
 ただし、仮に直接会うとして、こちら側は癌患者なので、オフィスなり自宅なりに来て貰うようなわがままが通った場合でも、自分自身が相手にとって興味深い意見や情報を提供する用意があることが、本来必要な礼儀だろう。もちろん、用件は事前に相手に伝えるべきだし、出来る範囲でもてなす用意が必要だし、何よりも相手の時間を無駄にしない気遣いが大切だ。

 困る相手のカテゴリーその一は、こちらにやって来て対面の時間を取って、自分の話を聞いて欲しがる人物だ。こちらが欲しい情報や意見でない話に、時間とエネルギーを取られることになる。実は世の中にこの種の行動様式を持つ人物は少なくない。例えば、「情報交換会」、「○人の会」などと名目を作っては、時間を取るのだが、結局自分の話したいことを話しに来るだけだ。
 押しかけてまで来ないけれども、似たような困った相手に、こちら側からの返信が大変なメールを気楽に送ってくるような人物もいる。自分の話題が、相手にとってどのような価値があるのかが見えていない。
 困る相手のカテゴリーその二は、「詳しい話は会ってからしましょう」という態度の人物だ。カテゴリー一に属する人物・話なのかを事前に判断させてくれない。本人としては直接話す方が気楽で、効率がいいのだろう。しかし、相手にとっての効率が良くないことが全く見えていない。はっきり言って、勿体ぶりすぎだし、相手に迷惑だ。元証券マン、不動産営業マン、加えてマスコミの人間に案外多く居て、既に現代に適応できていないのだが、自分の都合で勝手に電話して、好きなことを喋るコミュニケーションが習慣になってしまった人たちだ。かつて、電話で話すことが華やかなコミュニケーションであり、活発な仕事ぶりを意味する時代に人生の旬があった人たちだ。容易に想像頂けるかと思うが、仕事柄筆者の知り合いには少なくない。
 こうした人とのコミュニケーションも、時間と体力に余裕があれば受け入れる余地があるし、そうした縁から生まれるアイデアや仕事がない訳ではないのだが、効率が悪いことは否めない。そして、我々は、この種の非効率を新型コロナの流行によって普及したオンラインのコミュニケーションの世界のおかげで、強く意識しするようになったのだろう。コロナには、時代の進行を何年も加速させる効果があった。
 困る相手のカテゴリーその三は、「お時間を下さい」と直接のコミュニケーションを求めてくる相手だ。直接会って話をすることが礼儀正しいのだという間違った教育を上司から受けた営業マンなどにありがちな行動だし、本当に、時間を潰すことだけが目的だったりする場合もある。癌でない平時でも、全力で避けるべき相手だ。
 ところで、私には性格上大きな弱点がある。懐いてくる相手を無下に振り切れないのだ。幼少の頃、11歳まで一人っ子で、友達が帰るのが寂しかった感覚に未だに支配されているのかも知れない。
 病状が深刻になる再発前のことだが、全く知らない若者が連絡を取ってきて、相次いで2人事務所に押しかけてきた。下働きでも何でもするので、一定期間事務所で使って欲しいという、弟子入りが願いだった。共に爽やかな青年が、カートを引いて事務所に現れた。1人は無給でもいいというし、1人は最低賃金でいいと言った。条件まで考えて来たのか。
 しかし、弟子を取る気はないし、2人とも、私の弟子が務まりそうな資質の若者たちではなかった。「ごめん。弟子は取らないことにしている」。
 長いこと生きていると、時々面白いことがある。あれは何だったのだろうか。こちらは、多く食べられないし、お酒も飲めないのだが、近所の美味い和食屋に案内して、大いにご馳走して帰って貰った。 このような次第なので、人間関係の最適化が、ここで言うほどスッキリと出来ている訳ではない。
 しかし、特に「持ち時間」が縮むと、必要な人間関係とそうではない人間関係が、驚くほどクリアに見えてくるのは本当だ。

 さて、では私はどのような人に会いたいのか。「サンクコストにこだわるな、機会費用を見落とすな」を長年意思決定の習慣としている私としては、昔話をしたがる人物には現在全く会いたいという気が起きない。
 現在を理解したり、時間が短いとは言えこれから何かをしたりする参考になるアイデアを持った人物に会いたい。この点には、私の偏向があるかも知れない。古い友人などには冷たい奴だと思われているかも知れない。
 ところで、このように時間が貴重になってくると、オンラインでのミーティングが大変効率的であることが分かって来た。一日に、一時間くらい誰かとzoomで話したいという気分もある。
 しかし、なかなか上手い声掛けのアレンジが出来ていない。都合のいい時間に、気楽に話しに付き合ってくれる相手にどう声掛けしたらいいのだろうか。これが、目下の悩みである。いい方法はないものだろうか?


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