「しらけ世代」の私の男女平等感覚を反省してみる

 街には、美人が一人もいない。もちろん、ブスもいない。多様な個性がキラキラと輝いているだけだ。目を開けて歩くと、眩しくて目が潰れそうになる。

 上記は、諦めに近い心境を皮肉交じりに書いてみた「遊び」だが、これが、noteでぐらいならぎりぎり許されると思っているのは、私が公的に高い立場にいないからだ。「女らしさ」について語るのも今や地雷原を歩くに等しい。現在、女性を容姿で評価することは厳に慎まねばならない。
 男性に関しては、イケメンなどという言葉はまだ流通している。だが、「男らしい」という言葉は、文脈によってはもう使えない。確かに、男らしいという概念に精神的に苦しんだことがある人が少なくないことは容易に想像できる。
 昨年、株式投資の本を作っている時に、有名な「ケインズの美人投票」の比喩について、出版社の校正者から、「これを本当に使ってもいいのか検討せよ」との指摘を受けた。有名な喩えなのでそのまま使うと押し切ったが、次の機会には別の比喩を用意しなければならないかも知れない。
 犬や猫のコンテストでも考えるか。

 表現には自由と多様性があってもいいのではないか。言葉を制限して、表現が痩せてしまうのは文化的損失だ。そもそも、もっと他人に寛容なのがいい世の中ではないか、といった意見表明は状況によっては可能だ。
 しかし、表現が含意する性別の不平等や、「その表現で傷つく人」についての指摘を受けるようなら、無条件で総退却するしかない。そうならないためには、危ない言葉や態度に気をつけることだ。世間の趨勢には逆らい難い。そして、その流れにも十分な理由がある。
 今は、これでいいのではないか。
 私自身は、こうした状況を比較的素直に受け入れていると自認している。この「自認」が曲者であることをこれから論じるが、そんな積もりだ。

 別の例を考える。取締役や部長など社内のポジション争いにあって、いわゆる「女性枠」あるいは「女性優先の原則」とでも呼ぶべき原則で敗れた男性は、そのことをどう思うか。組織人にとって、地位は価値観の最上位に近い位置にあるから、本人には人生の痛恨事に近いさぞ無念な思いがあるだろう。
 だが、社会のありかたを考えると、女性には元々の不利な条件がある。これは是正されなければならない。社会的な文脈まで考えると、女性を優先する原則には十分な根拠がある。そこまで考えるのが、今は組織にはとってこれが「最適」なのだ。
 さて、恥を忍んで私の本音を言ってみる。
「役職は公平な能力評価で決められるべきだ。そうしないと組織にとっての最適から外れる。根本は、男女を区別して考えること自体が不適切なのだ」と言いたくなる。「私は男女の権利に対してフェアだ」。そもそも、人事に公平などない、という現実的な反論を脇に置くと、これが正論のように感じられる。

 しかし、私の男女平等感覚は、時代に対してズレている。このズレには、多分、私の世代が少々影響している。
 私は、1958年、昭和33年生まれだ。世代分類的には、「団塊の世代」と「バブル世代」の間に漂う「しらけ世代」だとされている。冴えない命名だが仕方がない。スポーツ選手だと巨人軍の原辰徳選手が同年生まれだ。
 東大の安田講堂陥落は小学校5年生だったが、少年の私は「革命に不真面目な学生達の愚かな反抗期」だと評価していた。大人になってからも前の世代のような熱気には乏しかった。また、バブル世代やその先頭集団で「新人類」と呼ばれた一群よりも少し前なので、個人主義と物欲が開放された勢いもない。どちらでもないから、確かに「しらけている」。だが、バランスは取れてと思っていた。
 価値観の形成には、小中学生時代まで遡る必要がある。戦前の日本はおしなべて悪く、新憲法が男女を含む国民の平等を掲げる日本が正しく、それが歴史の進歩であり、自分たちはその価値観を持っていると感じていた。自分たちは、戦前に連なる親世代の価値観を克服していると誇らしくもあった。  
 男性の家長が威張っているような古い家の運営は悪い。男女は自由な恋愛に基づき、個人と個人として家族を作るべきだ。学校でも、会社でも、男女はあくまでも「個人」として平等に扱われるべきだ。これらを当然だと思い、そう思っている自分が少なくとも、原則としての男女平等論者でないことなどあり得ないと思っていた。
 本論からは逸れるが、わが世代は「恋愛至上主義」的な価値観に染まりやすかった世代でもあったと思う。ただし、この認識には、自己正当化が少々入っているかも知れない。
 ともかく、価値観の「自認」としては、自分がフェアな男女同権論者であることに疑いがなかった。

 一方、長じて社会に出てみると、男女の条件には大きな差があった。
 就職してみると、男性社員に女性社員がアシスタントとして付く形がオフィスでは一般的だったし、どの社会でも地位的に偉い人は殆ど男性だったから、男性同士が集まり、その中から次の偉い人が決まるのが普通だった。一般に信用されるのは、「できるやつ」よりも「知っているやつ」の方だ。
 家庭は、夫が稼ぎ、専業主婦の妻がいる子供2人が「標準家庭」だった。
 男性社員と女性社員では、会社が想定するキャリア・パスや人材としての育成過程もことなるのが普通だった。女性は結婚や出産で仕事を離れる確率が大きいから、会社は人的資本の投資対象として優先度を下げた。当時の会社にとっては経済合理的な行動に見えた。
 私を含めて同世代の男性会社員は、こうした不平等がやがては修正されることが好ましいと一方で思いながらも、家庭でもオフィスでも男女の分業は効率的であり、「たまたま」男性が働き妻が家にいるような家庭に何の問題があるわけでもないと感じていた。
 ただし、それは、「個別に個人と個人とが合意しているのなら何の問題もない。そう思っている自分はフェアな男女同権論者だ」という自分に都合のいい個人主義のフィルターを通した思い込みなので、タチが悪い。そして、そこに至るまでの男女の条件差の効果については視野の外にある。
 こうした感覚が、昨今の「女性優先枠」的な考え方に対する、表には出さないかも知れないけれども反感の背後にあることが否めない。感覚なので、内容の当否はともかく、そこにあることは否定できない。
 反省は自分が一人でするべきものであり、同世代を巻き込んでするのは卑怯かも知れないが、こうした感じ方の一群が世の中には存在しているように思う。たぶん、世間に迷惑を及ぼしている。

 もっと強い反省を示して拙文を終えてもいいのだが、男女平等の問題を振り返って思うのは、自分が形成した価値観だと思っているものの殆どが、「他人によって作られた価値観」だということだ。
 自分の内心の自由な意思の能力によってイチから組み立てられたものなどでは全くない。外から与えられた価値観なのだ。
 頼りにしているはずの「私の自由」は、せいぜい既にあるものの一部を選んでいるにすぎない。そこにある価値観は、無数の他人が半ば無意識的・集合的に作ったものもあれば、少数の他人が意識的に作ってものもあるのだろう。
 自分の自由を諦めているわけではさらさらないけれども、私は、ほぼ100%他人の価値観を生きているにすぎないと思い至る。何となれば、この「自由」も他人が作った概念ではないか。

 男女平等の問題に戻ると、現在のわれわれの価値観は、たぶん将来変化し得るものなのだろう。「男らしく」、「女らしく」が強調される時代がやって来ることがあるかも知れない。あるいは、男女の差はそもそも存在しないと考えるようになるのかも知れない。今の方向性が、世界が必然的に辿り着くべき唯一の正解なのだと断言できる根拠は、私には見つけられない。
 ただし、今の趨勢に反対はしていない。
 ただ、これから世の価値観にどのような変化があるかに関しては、眩しくても目を開けて見ていたいと思っている。

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