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アディショナル・タイム①

「死にたい……」

 この言葉を呟くのは、もう何回目になるだろうか……。ふと、そんなことを考えた。素朴な疑問だったが、これまでの人生で何枚パンを食べたか? という問いと同じことだと思い至り、彼はそこで考えるのをやめた。
 社会人になって、五年目の春。新谷刹那(あらやせつな)の精神は限界を迎えていた。
 彼は大きな過ちを犯した。情報漏洩。重大なインシデントだ。彼は昨日、自宅に帰ってから仕事をするため、USBメモリに資料のデータを入れて持ち帰った。当然、社内では禁止されている行為だ。新谷は、バレなければ大丈夫だろうと甘く考えていた。そして見事にそのUSBを紛失し、今に至る。

 不幸中の幸いだったか、顧客の個人情報は入っていなかったし、入れていた資料も外部に漏れたところで被害はほとんど見込まれないような内容だった。しかし、禁じられていることをしてしまったことは事実で、データがデータなら会社に与えた被害は計り知れない。上司に報告すると、激怒された。ミスを犯してしまったのは当然、自身の責任だ。だが、上司の指摘を甘んじて受け入れようにも、その言葉が全て、自らを否定するように聞こえてしまう。考えるほどに、悪い方向にばかり考えてしまう。抜け出せない底なし沼のような場所にズブズブとゆっくり沈んでいく、そんな感覚だ。
 新谷は自分のことを責め続けた。そして後悔し続けた。なぜこんなことをしてしまったんだ……と。一度落ちていくと、心は無限に落下し続ける。陥っていく負の螺旋。今回のことだけでなく、これまでの人生で自らが犯してきた、数々の失敗を思いだす。
 失敗を指折り数えていくごとに自尊心がザクザクと音を立てて削り取られていく。そんな感覚に、新谷はひとり悶えていた。上司は、説教を叱咤の言葉で締めた。こんな状況でも応援してくれているのだ、頭ではそう前向きに捉えようと努めていても、身体は拒絶反応を示す。

「馬鹿にしてんだろ? 俺のこと笑ってんだろ?」

 何者かの声が、どこかから聞こえてきたような気がした。

 すると、途端に動悸が止まらなくなった。嫌な汗が背中を伝う。喉が、乾く。肩が鉛のように重い。上司は、新谷に何か伝えようとしていたが、彼には届くはずもなかった。

§§

 やっと、長い、長い一日が終わった。退勤できたというのに、新谷は思うように歩みを進められないでいた。

「俺、これからどうなっちゃうんだろうな」

 今回の件で、どういった処分が下るのか、そのことを新谷は考えていた。減給? 出向? 懲戒解雇? 様々な可能性を考えてみたが、もう考えるのも嫌になっていた。
 重い足取りで彼が向かったのは、会社最寄りの駅ではなく、繁華街の一角にある廃ビル。その建物は彼が外回りで偶然見つけた場所であり、絶好のさぼりポイントとして、ここの屋上を使っていたのだった。
 新谷は初めて夜にこのビルへと足を踏み入れた。これまで気にしていなかったが、堂々と不法侵入していることに一抹の不安を覚える。管理会社に見つかりでもしたらおしまいだ。しかし、今の自分にはどうでもいいことだと、捕まったら捕まったで、その時考えればいいと、去来した不安を強引に振り払う。
 スマートフォンのライトで足元を照らしながら、一歩、また一歩と階段を上っていく。新谷はこのビルの屋上を目指していた。
階段を上りきり、屋上へと続く扉の前に着いた。ふうっと息を吐き、呼吸を整えてからドアノブを握る。掌に冷えた金属の冷たさを感じながら、ドアを押し開けると、ギィ……と蝶番から金属が軋む音が聞こえた。同時に、じめっとした陰鬱な夜風が彼を迎え入れてくれた。
 その感触が、いまの新谷にとっては心地よく、少し気持ちが落ち着いたように思った。そしていつもの定位置である、屋上のフェンス際まで歩いていき、少し身を乗り出して真下を覗き込む。
 この廃墟の屋上から見下ろすと、ちょうど大通りに行き交う人々の流れが俯瞰できるのだ。新谷はここから見る景色が好きだった。
外界から隔絶された空間。ここは彼が精神的に落ち着ける、唯一の場所だからだ。
 ふとスマートフォンの画面に目をやると、時刻は二十三時を回っている。
平素であれば、既に帰宅し、就寝の準備に取り掛かっているころであろうか。普段のルーティンから逸脱し、破戒的な行為を行なっているという背徳感に、新谷は、にわかに昂った。

 今から、全てを終焉(おわ)らせる。

 衝動に駆られるがまま、ここまで来た。だが、一切の後悔はない。
 二十数年間、何もなし得なかった人間が、いまここで初めて、自らの意思で何かを成し遂げようとしていた。

 それは──

 己の未来を、投げ出すこと。

 端的に言えば、彼は自らの命をここで断とうとしているのだった。

 新谷は恐る恐る柵を乗り越え、屋上の床面ギリギリに立った。十階建ビルの屋上でも、こうして見るとかなりの高さだ。いやでも足が竦む。新谷は、これまでの人生を走馬灯のように思い出していた。辛く苦しい、嫌な記憶が蘇ってくる。
 唯一思い残すことがあるとすれば、大好きだった小説の結末が分からずじまいになることくらいか……。新谷は自嘲気味に笑った。なんて無価値な人生。そんなふうに考えたら、足の震えも止まった。
 新谷は懐から、一通の手紙を取り出した。こんな時のために、事前にしたためておいた「遺書」だった。それを足元に置き、もう一度下界を見下ろす。目に映るのは、これからそこに一人の人間が飛び込むことなど知らずに、それぞれの人生を歩む人々たち。その中の誰でもいい。別人の人生を歩めたのなら、いまよりもっと幸せだったのだろうか――と、新谷は逡巡する。その眼に涙を溢れさせて。
 涙を溢さないようにと、彼は天を仰いだ。一言、何かをつぶやき、

 そして、次の瞬間──

 絶望を抱えたまま──翔んだ。

§§

 見渡す限りの闇。己の視界が黒く塗りつぶされ、自分がいま立っているのか、それとも浮いているのか、それすらも分からない。何も無い空間に一人、新谷は佇んでいた。
(あれから俺はどうなった? 誰か教えてくれ。ここは何処だ? 俺は、俺は──)
「……やっとお目覚め?」
 声が聴こえた。それは音として知覚されたものではなく、脳内に直接響く、そんな不思議な感覚で聴こえてきた。聴き覚えのない声。誰かは分からない。しかし、その声の主に、新谷は半ば本能的に問いかけた。まるで、それが自然なことのように。
「俺は──死ねたのか?」
「ああ、君は死んだよ」
 何者かによる死亡宣告。その声には何の感情も込められていなかった。だが、新谷は動じない。
 何故なら彼にとってそれは必然であり、願いの結果だったからだ。
 死という結果を齎した自身の行動を、新谷は思い出した。生前の記憶は、はっきりと残っていた。
 彼は自ら命を絶ったのだ。その結果、ここ──深淵とも形容できそうな空間──闇の中にいる。
 先ほどの声が静寂を破った。
「いきなりだけど君、二度目の人生に興味ないかい?」
「二度目の人生?」
「そう。あ、ちなみに私は人間たちで言うところの、所謂神さまってやつでさ、私の力で死んだ人間に新しい役割を与えられるんだよね。私に選ばれた君は運がいいよ!」
 新谷は突然の提案に当惑した。
(神様? 二度目の人生? 俺は死んだはずじゃないのか……?)
 しかし、新谷はこの展開に見覚えがあった。見覚えといっても、実際に目にしたわけではないのだが。
 異世界転生。彼が生前、好きだった小説のジャンルである。現実世界で死んだ主人公が、さまざまな理由で異世界に転生し、二度目の人生を謳歌する、そんな作品群だった。まさか、それと同じことが、この身に起きようとしているのか? 新谷は一つの仮説を立てて、神様と名乗る存在に問いかけた。
「それで――俺にどんな力を与えてくれるんだ? 神様」
「えっ? 特には……」
「いやいやいやいやいや……そんなはずないでしょ! この流れは俺が最強のチート能力を手に入れて異世界で無双する流れでしょ!」
「いやちょっと何言ってるかわかんないんだけど……。まあ君の痛い妄想はあとでゆっくり聞くことにするから、まずは色々説明させてくれないかな?」
「……わかった。俺もまだ自分の置かれた状況をわかってないしな……」

 そう言った瞬間──世界が反転した。

 一面の黒は白に。そのあまりの眩しさに、彼は目を顰める。数秒後に、視界が徐々にはっきりとしてくる。同時に、目の前に立つ少女の姿を認識する。それは、中学生くらいの少女の姿だった。腰くらいまで伸びた金色の髪に、深紅の瞳はこの世のものとは思えないくらい神々しかった。
「そうと決まれば、先ずは自己紹介だ! 私はアト。君たちの世界の神様をやっている。君の名前はセツナ、新谷刹那だな。二十七歳。彼女ナシ。ビルの屋上から飛び降りて自殺。何も死ぬことはないだろうに」
「余計なお世話だ! それに……もう俺は死んじまってるんだろ。もうどうでもいいじゃないか。彼女がいないとか……」
「本当にそう思っているのか? 後悔してない? 何かやり残したこととか、未練とかさぁ。私はそういうものに興味があるんだけどなー」
「……………」
 嗜虐的な目線で新谷に詰め寄るアト。たじろぐ新谷は、返答に困った。後悔していないといえば嘘になるからだ。
「まあとにかくだ、セツナ。私が君の前にいるのは意味がある。君のことは私が拾ったんだからな。感謝してくれたまえよ。」
「拾った?」
「そう。本来なら、死後の君の魂は、そのまま冥界のゴミ捨て場に直行だった。自ら命を絶った人間の魂は、そりゃあ雑な扱いになるのさ。そこを私が直前に拾い上げて、この現世と冥界の間の世界に留めたんだ」
 色々と突っ込みを入れたい気分だったが、ぐっとこらえて、新谷は素朴な疑問を投げかけた。
「どうして…………俺なんだ…………?」
「どうしてって、そりゃ面白――」
 アトはごほんと咳払いをして続けた。
「もとい、かわいそうだったからなぁ。まあ……神様の気まぐれとでも思ってくれたまえ」
「おい! いま面白そうって言おうとしたよな!?」
「いやいや聞き間違いだって……」
 そう言って、アトは軽く指を鳴らした。すると、目の前に巨大な古めかしいブラウン管のテレビが、どこからともなく現れた。

「なんでもアリかよ、神サマ……」
「とにかく! これからセツナには、ある映像を見てもらいます。君の短絡的な行動がどんな影響を与えたのか……それを、しっかりと受け止めてもらう」
 新谷は訝しみながら、画面の映像を見やる。彼の目に飛び込んできたのは、モノクロの写真。遺影だった。

 そう、自分自身(アラヤセツナ)の。

 

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