創作エッセイ(54)アウトサイダー(物語の部外者)の視点

 私の書いている「不死の宴」シリーズは、太平洋戦争時から始まりゼロ年代まで続く、現代史の「裏側」を不老不死であるヴァンパイアのキャラたちの目線で描いていくエンターテイメント小説で、カテゴリ的にはSF伝奇になろうと思う。

仮想戦記ではない

 第一部をリリースした2017年には、「仮想戦記」と誤解されていたようだが、実際の戦史とは矛盾しないし、むしろその裏側に忍ばせるように書いている。
 そうすると、自分の中で、この物語の外の実際の歴史では「この事件はどう扱われていたのか?」という記述が不可欠になってきた。そこで、採用したのがアウトサイダーの視点である。
 この手法は、スティーブン・キングの諸作品と荒俣宏さんの「帝都物語」シリーズで学んだものである。では実際の例で説明する。

アウトサイダーの視点

例)「不死の宴 第一部終戦編 第四章 鬼神、覚醒!」
 青木医院を出たときにはすっかり日が落ちていた。春の遅い上諏訪でも四月に入って空気から肌を刺すような冷たさは消えていた。
 懐かしさに話がつきず時間の過ぎるのさえ忘れていたのである。青木医院には以前結核治療で世話になったのだった。三年間、八ヶ岳山麓の療養所と上諏訪町の医院とで療養を続けたが、戦争の前に東京に戻っていた。戦局の悪化で物資も不足がちなため、療養もかねて再び疎開を検討していたのだ。
(中略)
 小説家の視点で現場を描写している。
 そして、

  二人と入れ違いに、矢崎が入ってきた。博文館の頃からの知り合いで、毎朝新聞の学芸部の記者だった。
 「先生、遅いからこの店だろうと思ってやって来たら案の定飲んでますね」と言って笑った。
 「たった今、面白いものを見たよ」
 「何ですか」
 「喧嘩だ。それにしても見事だったなあ」と顛末を聞かせた。

という具合に、部外者の目線で描く。ちなみにこの作家は、横溝正史らしいと匂わせてある。オマージュである。

例)「不死の宴 第二部 北米編」 
 アイルズベリー福音教会に着いたのは午前十一時を過ぎた頃だった。
 石造りの基礎の上に建つ質素な教会だが、その建物の簡素さと旧さが歴史の長さを語っている。
「ここをすませたらランチにしようぜ」と言ってチャーリーがパトカーを教会のロータリーに停めた。
「僕は待ってます」
 デビッドの弱々しい声に、
「だろうな」と皮肉に笑うと、パトカーを降りた。
 ロータリーにダニエル・ホーク牧師が立っていた。
「先生、礼拝は終わったのですか」
「今は、証の時間で信者が話しています。私は次の聖書のお言葉でまた演台にあがります」
「もうお聞き及びとは思いますが」以下略。

 ここでは、舞台となるアイルズベリー市の警察官を部外者として入れている。起きている事件が、社会ではどう扱われて消えていったかを彼らの目線で描くのだ。

部外者のキャラとは

 私の書いている伝奇SFというカテゴリでは、アウトサイダー(部外者)キャラには、社会の中ではこの事件はどう扱われたて消えたのかを描写するという役割がある。
 第一部ではそれを「通りすがりの人気作家」と、社会主義運動家に関与して左遷されて学芸部にいる「元・社会部の新聞記者」などが担っている。
 第二部では、「その町のパトカー警官」と、地方新聞アイルズベリー・スター紙の「女性記者」(時代的にロイス・レインを意識してます)が担っている。
 こういったキャラクター、群像劇の中でおなじみの敵方・味方という濃厚なキャラ群の中に、適時登場させることで物語が一本調子になることを防いでくれる。
 文章の上で一本調子を防ぐのは、会話だけとか説明だけとか擬音だけ、というような表現上の技術になる。同様に作劇上での一本調子の回避は、この適時アウトサイダーの視点を入れることなのである。
 ま、あくまで自分流ではありますけどね。
(追記)
くどいかもしれないけど、参考にしたのは下記作品。
執筆にあたって、それぞれ、「帝都物語」(荒又宏)と「呪われた街」(S・キング)を意識した。
不死の宴 第一部終戦編
不死の宴 第二部北米編


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