創作エッセイ(42)言葉を尽くせば尽くすほど

今回はコミュニケーション系の考察。
世間には「言葉を尽くして語れば必ず通じる」という考えがある。だが実際にそうだろうか。

言葉を尽くせば尽くすほど、相手の気持ちは離れる

 私がメーカーのコールセンターで苦情電話の初期受信をしていたときに学んだことである。販売会社の説明に納得いかないという相手の、思い込みの間違いを、懇切丁寧に説明している相談員がいたのだが、結局相手の気持ちは変わらず炎上した。
 彼は、相手の「気持ち」ではなく、「苦情内容の正誤」に最後までこだわり続けたのだ。逆に別の相談員は相手の「気持ち」に忖度しすぎてしてはならない譲歩をしそうになった。
 同じケースで優秀な相談員は、苦情内容と客の気持ちすべてを聞いた上で、「直接拝見していないので断言は出来ませんが似たような事例は以下のようなものです」と言って、類似事例を上げていく。それも、客の思い込みに近いものから。
 すると、その例の中に販売店がしたのと同じ内容が出てくる。そこまで来ると、客は、「はっ、自分が間違ってたみたい」と気づく。ここが重要なのだ。
 言ってる内容は同じなのに結果は正反対。
 ここで学んだ金言が「説得するな気づかせろ」である。人は上から目線での説得には反発するが、自分の気づきは100%受け入れるものだ。

「説得するな気づかせろ」

 小説家なら気づいているだろうが、キャラクターの焦りや、うろたえを表現する際に、その様子や表情を描写するのが通例だが、その中には、妙に多言になったり饒舌になったりする様子もある。「嘘ほど多弁に語る」という言葉があるほど。
 これは言葉だけでなく、物語の構成やテーマの描き方にも通じる。

言葉少ない事実の列挙でも心は動く

 ドキュメンタリー映画の傑作や名作といわれるものは、大声の主張や、嘆きや怒号とは無縁である。淡々と事実を列挙し、その上で、観客や視聴者に「あなたはどう思いますか?」という問いかけで終わる。やはり「気づきを促す」のだ。
 それに比較してドキュメンタリーを装った低レベルの政治宣伝(プロパガンダ)では、主張は大声で叫ぶ。競争相手には罵詈雑言まがいの悪口。といった具合で、観ていて不快になる。これは政治的な左右を問わない

優れた広告ほど、説得しない

 私は28年間、広告会社に勤務して営業からディレクターまで体験している。その中で学んだのは、良い広告や効く広告とは、観た人間に共感を抱かせるものであるということ。共感や好感が購買への第一歩だからだ。
 そして、その際の表現は、「説得ではなく、気づきの促し」なのである。
 退社後に、コールセンター業務で「説得するな気づかせろ」を体感したとき、
「おお、これ広告表現と同じやん!」と感動したのだった。

言葉を尽くしすぎると、相手は

 人間が饒舌になるときは以下のようなケースである。
・相手を煙に巻いて騙そうとするとき
・その場の沈黙が絶えられないとき
・思いがいっこうに相手に伝わらないとき

 だからこそ、多言であったり饒舌であったりすると人は「白々しさ」を感じるのである。

(追記)
 小説でも、饒舌すぎる語りの地の文は、うっとうしさに繋がりやすい。小説の歴史で、地の文は明瞭簡潔で余計な描写もそぎ落とすのが近代の流れだった(例、アーネスト・ヘミングウェイとか)
 しかし、例外もある。
 それは地の文が、キャラクターのモノローグなど、その饒舌さ自体がキャラの個性だったり、物語の魅力になる場合。古くは夏目漱石の「我が輩は猫である」(猫のくせに老成してる)や「坊っちゃん」(べらんめい口調)など。
 近年では、奥泉光さんの饒舌な地の文が、読んでいて気持ちいい。エンタメと文学の境界を軽々と越えている奥泉作品は平成時代の収穫の一つだろうなあ。

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