創作エッセイ(58)箱書きのもう一つの役割



 執筆が始まると箱書きは本文で上書きされていくのだが、長編小説を長期間にわたって書いていると、それだけでは済まなくなってきた。今回はそんな気づき。

書きながらの変更点

 長編小説では概略の箱書きにそって書いていくのだが、書きながらエピソードやシーンの追加変更は避けられないし、そういった化学反応こそが物語を面白くする。だが、群像劇の場合に特有の問題がある。
 それは、前段で描いたこと忘れてしまうこと。
「このキャラ・Aとキャラ・Bは、面識あったかな?」「この情報、Bはもう知っていたっけ」など、ストーリーの進行に直結する細かな部分を覚えきれないのだ。これは私が高齢になったからと言うこともあるのだが、体力と集中力のなさ故に、一日に原稿用紙数枚程度しか書けないということがある。ましてや長編群像劇で原稿用紙換算で370枚を超えていると、本文をたどって確認するのは実に面倒だ。そこで活躍するのが箱書きだ。

防備録としての箱書き

 本文で上書きしていく箱書きのオリジナルデータを残しておいて、その章が完成した後、そのデータを最新のストーリーに沿って直していく。だいたい、シーンの追加キャラ情報の深掘り、伏線情報の追加などを箱書きに反映させる。
 この最終箱書きを手元に置いておくことで、執筆しながら「この情報、もうAは共有してたかな?」と迷ったときに見返して、「ああ、第四章でCから耳打ちされてるな」と気づけるわけだ。

 実は今書いている「不死の宴 第三部 本土復帰編」(仮題)が正にこれで、執筆開始から三年経ってしまった(苦笑)。先日、第一章から第七章までの防備録としての箱書きを新たに起こしたところなのだ。まったく、気づくことが多くて面白いよ。

知っているからこその難しさ

 この第三部は1972年の日本を舞台にしているが、この時代、私は中学三年ですでに新聞やニュースを見聞きしている時代。終戦時を舞台にした第一部や、1956年の北米東海岸を舞台にした第二部も難しかったが、この「知っている時代背景」もまた難しい事を痛感している。
 当時と現在の日本社会のメンタリティの違いなどを実感する。これを上手く作品の背景に忍ばせたい。それこそが「不老不死」のキャラクターの目で近現代史を俯瞰する醍醐味だと思うからだ。
 まずは今夏のリリース目指して執筆がんばろう、と。

この記事のネタ元はこちら。
不死の宴 第一部終戦編
不死の宴 第二部北米編

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