創作エッセイ(62)少女マンガの思い出

 私が初めて少女マンガ誌の作品を読んだの1974年、高校二年の時だった。
当時から物語を作るのが好きだった私は、その物語る手段としてマンガを選んだところだった。
 父が高校の国語教師(旧帝大の国文卒)ということもあり、「~も読んだことのないお前が」と常々小ばかにされていた私は、父と同じ土俵での勝負は忌避していたのだ。
 同じクラスにマンガを書こうとする仲間が三人いて、彼らとリレー形式で原稿を描き始めたのだった。
 彼らの一人に妹さんがいて、彼女の買った「リボン」を毎号回し読みし始めたのがきっかけであった。
 友人は陸奥A子さんの「たそがれ時に見つけたの」が大好きで、私も影響受けた。日常の中の心の動きや悲喜こもごもなど、少年マンガは絶対に描いてくれなかったからだ。
 少年マンガでそんなことが描かれるようになるのは、あだち充さんの作品からだろうか。
 毎回、学校で新聞紙に包んだ少女マンガ誌を、「今月のブツです」と言って机の下で交換する、まるで違法薬物のような極秘扱いであった。本屋で買う際も、カウンターには週刊プレイボーイと平凡パンチの間に挟んで出すという具合。
 しかし、一条ゆかりさんや萩尾望都さんなどの作品や、池田理代子さんの「ベルサイユのばら」(1972-73)の影響で、急速に男子のファンが増えていたおかげで、「マンガ少年」(1976-84)誌など少女漫画や少年漫画の垣根を超えるような雑誌も出てきた。
 何より面白かったのがラブコメというジャンル。実は中学の頃、テレビ放送の劇場中継でシェークスピアの「十二夜」を観て、立て続けにシェークスピアの喜劇を読みまくっていた。
 少女漫画のラブコメを読んで、「これってシェイクスピア喜劇の味やん」と思ったのだ。(例「からさわぎ」とか」)
 その後、「うる星やつら」などで少年マンガにもラブコメはやってくる。
 当時の作品で萩尾望都さんの「ポーの一族」は実に衝撃的で、恐怖やエロスが中心だったヴァンパイア物語に、「永遠の命だからこそ訪れる、愛する人との別れ」など、それまでなかった暗喩が散りばめられていて、十代の私は大きな影響を受けたのだった。
 今執筆中の「不死の宴」のインスパイア元の一つが「ポーの一族」なのだ。







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