短編 「Sphenoidの話」

人の頭の骨に、蝶形骨というのが有るのだという。外から眺めたのでは一寸判らないが、頭の真ん中に埋まっているそうである。

「それは本当に蝶のような形をしているの。ええ、モンシロ蝶みたいな可愛らしいのでなくって、アゲハ蝶の様な堂々とした美しい蝶よ。貴方、御覧になったことがあって?」

疲れを滲ませた華奢な肢体をソファに投げ出したままの彼女が、恍惚として言う。彼女は有能な研究者であり、殊に人骨を専門としていた。

「一般人の僕が、人の骨なんか見たことある訳無いじゃないか……まあでも、その様な美しい骨ならば、お目にかかってみたいものだね。」
「貴方は蝶がお好きですものね。あんなに沢山標本を集めて…」
「蝶に焦がれるのは少年の性なのだから仕方ない。」
まあ、少年なんてお歳じゃ無いのに…と彼女がくすくすと笑う。

「では骨に焦がれるのが少女の性かしら?」
そう言うとおもむろに私の手をとり、指の付け根の関節を、ひとつずつ確かめる様に撫でてゆく。痩せて骨の浮いた私の身体にその細い指を沿わせながら、彼女はしばしば人骨の講義をした。

尺骨《ulna》、肩甲骨《scapula》、鎖骨《clavicle》…彼女の流暢な発音で紡がれる骨の名をボンヤリと聞いていると、なんだか自分が彼女の研究室にある標本になったような心持になってくる。

その様だったから、私は標本としては優秀でも、生徒としては落第であったろうと思う。いくら聞いても呪文の様な単語は頭の中を通り抜けてしまい、只しなやかな指の感触ばかりをいつまでも覚えていた。…

しかしその日彼女が口にした、蝶の形をしているという骨については、興味をそそられたのである。初めて骨に関心を示した私に、彼女はどことなく嬉しそうであった。

「此処に有ると、触って教えて差し上げられたら良いのだけれど。一寸お待ちになってね…」

彼女はソファから起き上がり、書棚から分厚い解剖学の本を取り出した。彼女の父親が使っていたという、時代がかった重厚な書である。テーブルに拡げたページを指差して、彼女は私の方を見た。

「ほら、此処に有るのが蝶形骨《sphenoid》。どうかしら、お気に召しまして?」

ページを覗き込むと、古書独特の甘い匂いに酔いそうになり、パチパチと瞬きする。

「ほう、確かに蝶の形だ。後翅の突起なんてまるで立派だ、此れはきっと、君の言う様にアゲハ蝶であろうね。」
「ええ、そうでしょう。実に美しい形をしていると思いますわ。」
精緻に描かれたその蝶は私の標本にも劣らないものだったが、其処にはやはり、生命が欠けていた。

彼女が見たというのも死人から取り出した、枯れた骨に過ぎない。生きた人間の蝶形骨を取り出してみせたならば、それはまるで本物の蝶が如く、いやそれよりも遥かに優雅に、虚空を羽搏いてみせるのでは無いか…

私はふと浮かんだこの考えを、戯れに彼女に告げてみた。お得意の、夢のような空想ですわね…と一蹴されると思ったが、彼女は私の言葉に、はっと目を見開いた。黒々と濡れた瞳に、私の顔が歪めて映しだされる。
「それは素晴らしい考えだわ。妾、今までこんなに骨を研究していながら、そんなこと思いつきもしなかったの。」

私だって、生きた人間から骨など抜いたら死んでしまうことは解る。それなのに何故、聡明な私の恋人は、こうも無邪気に喜んでいるのか?
私は恐怖を押し隠して、誤魔化すように笑う。

「僕は無知だから、こんな突拍子も無いことを考えるのだ。だって、君、これは只の妄想だと、一番解っているのは君だろう?」

「いいえ、いいえ、常識に囚われていては科学は発展しませんわ、そうじゃなくって?」

なおもきらきらと瞳を輝かせながら、数々の骸を弄んで来た罪深い手が、私の身体に数々の記憶を刻みつけてきた愛しい手が、私の頭を包む様にかざされる。

自然と私は、目を閉じていた。

その瞬間、彼女の指は私の頭の中に在った。骨の継ぎ目をゆっくりと剥がし取り、血管の網目をかいくぐって、その指は私の蝶形骨《sphenoid》に触れる。

「目を開けてくださいまし、ほら、なんて美しいのでしょう。」

目を開けると、目の前を何かがひらひらと飛翔していた。薄っすらと燐光を帯びた、大きな、純白の蝶…

「あれが、僕の頭の中の蝶なのか。」
「ええ、そうよ。とっても綺麗な形ですわ。妾、生きたままの骨がこんなに綺麗だなんて知らなくってよ…。」

頭の中の一部が欠けているというのはやはりどこか妙な心持がする。こんな奇妙な状況に疑問が持てないのも、思考が鈍っている証拠であろうか。
私は意識が遠のきそうになるのを堪えて、今一度、灯に惹かれてクルクルと飛び回る蝶に目を凝らした。骨というのは硬質な物の筈だが、その動きはまるでしなやかで、目で追っているうちに別な世界へ誘われる様な気がする。

「あら、あんまり頭を動かしてはいけませんわ。宙吊りの神経と血管とが、絡まってしまいましてよ…。」

焦点の定まらない目に、愉快そうに笑う彼女は気まぐれな古代の女神の様に映った。

「ねえ貴方、他の骨も取り出してしまいましょうよ。妾、きっと上手に出来る気がしますわ…。」

彼女の幸福そうな笑み。
私はもう、特に嫌だとも、恐ろしいとも思わなかった。

「良いよ、君の好きなようにやり給え。」
「嬉しいわ。さあ、じっとして居て下さいましね。」

彼女は素晴らしい手際で次々と私の身体から骨を抜き取ってゆく。支えを無くしてずるずると倒れ込みながら、はて、私の意識はどこまで保つものか知らん…と考え始めた。脳味噌や心臓はこちらに在るにせよ、萎んだゴム風船の様な抜け殻に意識が宿るというのも、なんだか理屈に反している様な気がした。

…いよいよ頭蓋骨まで取り出されてしまった。もう視線を固定しておくのも難儀である。眼窩から溢れそうな私の目に、今しがた取り出された私自身の頭蓋骨を抱えて、さも愛おしそうに口づけをする彼女の姿が映った。

その時、私は胸の奥である感情がムラムラと湧き起こるのを感じたのである。
それは、紛う事なき嫉妬の感情であった。可笑しな事であるが、私は自分の骨格に嫉妬していたのだ。
最後には、この無様な抜け殻など捨てられてしまうに違いない…その恐ろしい考えは私を苛んだ。そして又、それを口に出すことも最早叶わなかったのである。

「貴方、これで最後の一本ですわ…ほうら、なんて綺麗でしょう…」
解剖台の様なテーブルに全部の骨を並べ終えた彼女が、満足げに言う。

するとその時、その声に応えるが如く、綺麗に並べられた骨がカタカタと震えだした。そしてそれだけに留まらず、驚くべきことに、その身を持ち上げたのだ!

私は絶望した。意識はまだこちらに在るのに、骨だけに意識が生まれてしまった!真白の君は、悔しいが彼女の恋人たるにふさわしいように思えた。彼女も驚きつつ、その瞳は「彼」に釘付けだった。

彼女はもう私の方を見ない。私は、自分自身に、恋人を奪われてしまったのだ。なんて滑稽な話だろう?

私はもう何も見たくなかった。緩んだ筋肉を無理に動かして目を閉じようとしたがそれも上手くいかない。

誰か、この地獄から救ってくれ…

ごろりと転がって視線を向けた先に、全ての元凶である蝶形骨《sphenoid》が、相変わらず忌まわしい程美しく、ひらひらと舞っていた…

「……なた、貴方、お目覚めになって?」
目を開けると、目の前に彼女の顔があった。はっとして自分の身体を見ると、何も変わったところはなかった。平常の私の身体である。夢だったのか…果たして何処までが現実であったろう?

「蝶形骨の夢を見ていたんだ。」
私の言葉に彼女は驚いた様だった。
「あら、そんな珍しい骨の名前をご存知でしたの。」
「君が教えてくれたのでは無いの?」
「いいえ、妾、頭部の骨の話はしていませんから……」
「僕が君以外から骨の名前など知り得ないと思うのだがなあ。」
「きっと本でお読みになったのですわ。」
「そうかな。」

私がそんな本を読んだはずは無い。周りにだって、骨に詳しい友人などいないのである。だとすれば、彼女は何故隠すのだろう?

「それじゃあ、今日は頭の骨の話をしましょうね…」

彼女の指が私のこめかみに触れ、彼女と目が合う。何かを期待する様な妖しい微笑みが、脳裏に焼き付いていた。…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?