論難に答える 第2回

因果律

そもそも因果律とは何か、と疑問に思う人がいるかもしれない。昔からヨーロッパでは因果律を否定する議論が人気を博しており、これについては詳しい説明が必要だと思う。

仏の言葉によれば、因果律とは

これあればこれあり、これなければこれなし
これ生じればこれ生ず、これ滅すればこれ滅す

である。Aという事象が起きたときにBという事象が起き、かつ、Aという事象が起きなかったときにBという事象が起きない場合、AとBの間には因果関係が認められる。

ここで、「これあればこれあり」と「これ生じればこれ生ず」の違いは、be動詞と一般動詞の違いに相当すると考えられる。意味を明確にするために二つの表現を併用したのだろう。

例を挙げて考えよう。たとえば、私が投げたボールが窓ガラスに当たり、割れてしまったとしよう。このとき、私がボールを投げなければ、ガラスは割れなかったはずである。したがって、私がボールを投げたことが原因となって、ガラスが割れるという結果が生じたと言える。この場合、原因と結果の関係は明瞭であり、疑問はないだろう。

歩行

次に、歩行について考える。歩行という現象は、重心を体の前に傾ける動作と、足を前に出すという二つの動作の組み合わせで実現されていると考えられる。たとえば、体の重心を後ろに置いたままで足を前に出しても、歩行はできない。また、重心を前に傾けながら、足を前に出さなければ、そのまま倒れてしまう。ゆえに、この二つの行為の組み合わせで、歩行という現象が起きていると言える。

足を前に出すことで、歩行が起きる。足を前に出さなければ、歩行は起きない。よって、足を前に出すことは歩行の原因である。しかしながら、この二つの事象は同時に生じている。したがって、因果関係は必ずしも時間的な継起を意味しないと言える。ただし、これは未解決事項であり、より詳しい考察が必要である。

一因一果

「これあればこれあり、これなければこれなし」が意味することは他にもある。これは、他の条件が同じならば、同一の原因から同一の結果が生じる、ということを意味している。つまり、原因と結果の間には一対一の対応関係が存在する。仏教ではこれを一因一果と言う。

このことに注意すると、ニュートンの運動法則は因果律の表現になっていることが分かる。私は以前、運動法則は因果律の必要条件かもしれない、と提案したが、作用反作用の法則を除いては、これは証明できていない。

刹那滅

因果律を否定する議論としては、ヒュームの心理的習慣が有名である。彼に限らず、ヨーロッパの学者が因果律を考察する場合、原因と結果という二つの出来事の間にどんな関係があるか、という疑問を提示することが多い。

彼らは、原因と結果という二つの事象が独立に存在すると仮定し、それらの間の内的な関係性を立証しようとする。それに失敗すると、因果関係は存在しない、と決めつける。このような哲学的非難に対し、我々はどんな回答を与えられるだろうか。

我々はここで、存在に関する仏教徒の議論に深入りする必要がある。仏教徒は、何かが存在する、とは極力言わない。彼らは、存在する、と言うよりも、生じる、という言い方を好む。彼らの考えでは、あらゆる物事は瞬間ごとに生成消滅を繰り返している。

たとえば、私の目の前にリンゴがあったとしよう。いま私が見たリンゴと、その一瞬後に私が見たリンゴは、同一のものではない。なぜならば、その二つの瞬間の間に、リンゴ自体が変化しているからである。リンゴは様々な化学物質によって構成されているが、空気中の酸素と反応したり、微生物によって分解されたりして、その組成は時々刻々と変化している。また、我々がリンゴを見ることによっても、リンゴは変化する。なぜならば、我々がリンゴを見るためには光が必要であり、リンゴの表面で光が反射することによって、リンゴ自体に変化が加えられるからである。

ゆえに、異なる瞬間に存在するものは互いに異なると言える。その意味で、あらゆる事物は瞬間ごとに生成消滅を繰り返していると考えることができ、これを仏教では刹那滅という。
 

この刹那滅の立場によれば、二つの事象の内的関連は問題にならない。それは、何によって変化が引き起こされたのか、という問題に置き換えられるからである。事物が変化することは当然であり、我々にできることは、変化の程度を決める条件を求めることだけである。

原因と結果の内的関係を求めようとする西洋哲学の方法は、原因と結果という二つの事象がそれぞれ別々に存在する、という仮定を置いている。しかし刹那滅の立場によれば、何かが存在するということがそもそもありえない。あらゆるものは変化しつつあり、変化の相だけがある。

これは因果関係を前提とした世界観であり、ここでは因果律が存在するかどうかは問題にならない。そして、この刹那滅という世界観には客観的な根拠が存在するので、西洋的な存在に基づく世界観よりも妥当性が高いと言える。というのも、先にリンゴの例で述べたように、事物が常に変化しつつあることは、実際の経験に基づいて確かめることができるからである。

西洋哲学の特徴は存在という観念にある。それは自明のものではなく、特殊な哲学的仮定である。それは事物が変化しないことを前提とした考え方であり、経験に反する不合理な仮定である。

もうひとつ注意しなければならないのは、我々がAという事象を認識することと、Aという事象が生じることは、同じではないということである。つまり認識論の問題がある。これについては、ここでは議論しない。いずれ気が向いたら書こうと思う。

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