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純粋個性批判

 モリー・ガールをご存知だろうか? もちろん知っているでしょう。時代の寵児であり、単なる色モノであり、本物の本物であるMolly Girl。大昔のあやふやな概念でしかない「森ガール」なんて言葉をもじって自分の名前にしようとする変な奴だし、そもそも森が好きではないし、盛りは多めだし、銛で人を突き殺すくらいのことはしでかしそうな、あのモリー・ガールだ。私と彼女の思想はとてもよく似ている。というより、ほんとうは私がモリーだったのかもしれない。私が先にモリーになっていたら、今ごろはモリーのほうが私だったのだ。

 ■ ■ ■ ■

 たとえば、生きていることを実感するとき、なぜか落ち着かない気分になる人たちがいる。ハッピーな空気に居心地の悪さを感じてしまう悲しい種族。
 何を隠そう私がそうだ。
 私が十代の頃に仲の良かったメンバーも、全員がそうだったはず。クラスでもとくに地味な部類に属する闇の軍団だった。揃いも揃って見た目がぱっとしなかったし、性格も廃墟のように暗かった。

 しかし当時の私には、この苔の固まりみたいな集団の中心人物が、他ならぬ私であるという強い自負もあったのだ。
 湿ったビスケットみたいなこの集団を率いているのは私だ。リモコンの1度も押されないボタンみたいなこの集団で最もカリスマ性があるのは私。郵便受けに勝手に放り込まれた水道屋のマグネット広告みたいなこの集団の進路を決めるのは私なのだ。GAPの服に貼り付けてある透明のシールみたいなこの集団の……もういいか。

 といっても、私はお山の大将を気取ってグループを運営していたわけではない。そういうのとは明確に違っていた。なぜなら私を含めたメンバーの全員が、派手で、際立った、流星群のようにきらきらしたクラスのトップ集団を、全員薄っぺらい人間だと断定し、陰で小馬鹿にし、本気で軽蔑しながら、内心では自分自身のことも、同じくらいの強度で罵倒し続けていたのだから。私たちは皮膚の内側と外側の両面にトゲを持つ、シュールなハリネズミみたいな生き物だったのだ。

 ■ ■ ■ ■

 ところで、私たちは5人だった。元始からそうであったかのように。実際には高校に入ってすぐのオリエンテーションの時間に出会った。というより、ただ単に近くにいた。箱の中に無造作に放りこまれたビーズのうち、汚れたり破損したりして使えなくなったものが偶然に集まっている場所があって、その使えないビーズというのが私たちだったのだ。
 高校でもまたこんな感じか……と思わされるような、冴えない風貌の面々。もちろん、私たちの全員がそう感じていたはず。5人ともハムカツのように分厚いメガネをかけていた。だけどそのレンズ越しにではなく、私たちだけに備わった同類を感知する器官によって、私たちはそれぞれの存在を認識していた。

 なんとなく集まった私たちは、なんとなく固まって教師の説明を聞いていた。校則について。行事について。希望に満ちた高校生活について。
 私の目には、ティーンの少女にふさわしい生き生きとした輝きというものが一切ない。それは中学の3年間で失われてしまった。いじめられていたわけではない。けれど私は誰にとっても価値の低い人間だった。友達は少しいたけど、いつだって私は誰かのいちばんの友達ではなかった。常に3番手か4番手。あるいは17番手とか36番手とか。機械を使って正確に測定すれば、98番手とか604番手だったかもしれない。
 誰かの親友になりたいくせに、周囲のすべての人間を軽蔑していたせいだ。
 尊敬すべき人物は、ネットや芸能や文学やアートや架空の世界にしか存在しなかった。心臓が一拍打つたびに、私の体内を、血液と皮肉と冷笑が駆け巡る。そんな薄気味悪い、典型的な日陰の人間だったのだ。

 前方のステージでは、先輩たちによる簡単な部活紹介のコーナーがはじまっている。私の目は依然として死に続けていた。サッカー部、テニス部、水泳部……。ゴムみたいに体を自在に伸ばしたり縮めたりできる元気な人間たちの、楽しげなプレゼンテーション。
 バレー部が登場すると、ひときわ大きな歓声が上がった。3年生に、日本代表候補にもなったスター選手がいるのだ。
 生徒たちの期待が渦巻く中、手足の長い美しい男女が、コント仕立ての掛け合いでバレー部の楽しさをアピールしはじめた。私たちの年代では知らぬ者とてない、超のつく大人気ファンタジー漫画『ミリオンバベル』のわかりやすいパロディコントで、さっきまで、どこか緊張が解けずにいた新入生たちから、爆笑につぐ爆笑をさらっている。

『ミリオンバベル』は累計8000万部の売り上げを誇り、あらゆるメディアミックスを成功させ、海外にも多くのファンを持つモンスターコミックだ。
 漫画好きはもちろん、普段は漫画など読まないような層からも絶大な支持を得ていたし、文学・音楽・演劇など、各方面のカリスマ的な人物からのお墨付きも多数獲得している。
 私のお気に入りのミュージシャンや、尊敬する作家が、ミリオンバベルのファンだと公言するのも何度か目にしたことがある。
 引用元としての『ミリオンバベル』は、もはや教養と呼んで差し支えないレベルに達していて、これを知らない奴はダサすぎるし、読んだことがない奴もダサすぎるし、読んだけどおもしろくないとか抜かす奴は純然たる差別の対象となってしまう恐れすらあるという、現代のポップカルチャーにおける最高の作品だった。
 私は大嫌いだったけど。
 なぜあんな、何の工夫もない、お涙頂戴のストーリーが受けているのだろう。凡庸な構図に、気の利いた会話もなく、ユーモアのセンスはカビだらけ。おまけに、薄っぺらい人生哲学とかお説教なんかが、いかにも得意げに連発されるという、最悪の最悪、うんざりするほどの駄作だった。
 それがなぜ、こんなにも熱狂的なブームを巻き起こすのだろう?
 私が間違ってるのか?
 世界がおかしいのか?
 自分の周囲でも、自分と関係ない場所でも、『ミリオンバベル』が話題に上るたびに、私の孤独は鎖のちぎれた錨のように深まった。

 不意に、今日一番の爆笑が巻き起こって、私の鼓膜を無作法に痛めつけた。壇上でバレー部のスター選手が、『ミリオンバベル』の決めゼリフを改変したギャグを披露したのだ。
 気の狂ったような笑い声が台風みたいに吹き荒れている。というかこっちの気が狂いそうになる。
 私は自分の足元を睨んで舌打ちをした。しかし次の瞬間には、驚きに目を見開いていた。
 私のすぐ隣から、私よりも鋭い舌打ちが、私と寸分違わぬタイミングで発せられたからだ。
 正確に言うと、私は舌打ちをしただけ。隣から聞こえてきたのは、舌打ちと、「ミリバベなんてクソだろ」という呪詛に満ちたつぶやき声だった。
 私は顔を上げて隣を見る。いかにも劇的な言い方で気恥ずかしいが、そこにいたのが、私の人生を大きく揺さぶることになる、園田ユカリだった。私を含めた冴えない5人組のひとりだ。
 爆笑の渦の中で、ユカリも私の舌打ちを聞いたのだろう。私たちは驚きの顔を見合わせていた。まるで似ていないのに、鏡を見ているようだった。ユカリの髪はぼさぼさで、メガネのレンズも少し汚れていたけれど、彼女の容姿に対する私の第一印象は「清潔だ」というものだった。
 私は遅れを取り戻すように「ミリバベ嫌い、私も」と小さな声で告白した。ユカリは少しだけ口もとを歪め、「アニメのほうは観てたけどね」と漏らし、視線を床に落とした。
「私も。なんだったらリアルタイムで観てた」「ムカつきすぎて観ちゃうんだよね」「ほんとそれ」「クソだね」「クソだよ」
 私はすっかり嬉しくなってしまった。

 それから私たちのひそひそ声の悪口は1秒も止まらなかった。
 お互いの顔は見ず、下を向き、床に向かって言葉を落とし続ける。
 轟音の笑い声の中で、私たちのささやくような言葉は、なぜか文字データのように正確に送受信できた。
 悪口の標的は、私たちが感知しうる森羅万象のすべてに及び、ミリオンバベルの話題など、別の銀河の果ての果てに置き去りにされたようだった。
 私たちは映画や音楽といったものから、世間の風潮、他人の言動、SNS上での所作に至るまで、ありとあらゆる【嫌いなもの】が似ていた。

 ■ ■ ■ ■

 学校というのは、未成熟の個体を、ぶち壊された叙事詩で煮込んだ大鍋のことだ。
 そんな場所で正気を保つためには、塔を建てて自分の立場を見せつけるか、壁を築いて自分と周囲を隔てるか、そのどちらかしかない。融和したが最後、一緒くたに煮えてしまう。ローリエと絡まりながら。

 なんとなく5人になった私たちは、なんとなく5人で過ごすしかなかった。一瞬で周囲との壁ができてしまったから。他の生徒たちの目には、【打ちひしがれた5人】というタイトルの絵画にでも見えていたかもしれない。
 それは半分当たっていて、半分は外れていた。
 私たちは「5人」ではなく、「最大で5人」という言い方のほうがふさわしかったからだ。本当に連帯しているのは私と園田ユカリのふたりだけだった。高校を卒業して10年近くが経った今、他の3人のことを思い出そうとしても、顔も名前もおぼろげで、うまく像を結ばない。
 あんなに一緒にいたのに。
 彼女たち3人は、私とユカリが入っている箱の、無駄な空間を埋めるための詰め物にすぎなかったのかもしれない。ひどい言いぐさだけど。

 私とユカリは、世間のありようや、最新の流行に敏感で、そのほとんどすべてを憎悪していた。
 とくに、クラスメイトたちが絶賛しているものを目にすると、プラスティックのおもちゃをむりやり飲み込まされているような拒絶反応が出た。
 一度ユカリが本当に吐いているのを見たことがある。道で。体調が悪いのではなく、「思い出し吐き気だよ」と、デパートのトイレで口をゆすいだあと、けろっとした顔で言っていた。
 私たちは馬鹿な奴も嫌いだったし、露悪的な奴も死ねば良いと思っていたけど、かといって人道的に啓蒙されたような、知識人たちの振る舞いも気に入らなかった。味のない健康食品みたいで。私たちは思想的に恐ろしく偏食だった。学校ではおとなしくしているくせに、敷地を一歩でも出れば、発する言葉の98%くらいは誰かの悪口か、何かの批判。尖ったユーモアを織り交ぜた絶品のコメントの数々。皮肉の銃弾。あの頃の私たちの感覚は極限まで研ぎ澄まされていたと思う。私とユカリの目には、視界に入るすべての事象の〈ここを刺せば殺せる〉というポイントが明確に見えていた。その自信だけはあった。その錯覚のおかげで、何もない人生でも、
「たしかに私たちは性格が悪い。見た目も。で?」
 って感じで生きていられたのだ。

 たとえば安いカフェの片隅や、公園のベンチや、放課後の視聴覚室なんかで、私たちが怒濤のように語り合うとき、そこには宇宙誕生の瞬間にも似た爆発的な批判の熱があった。私とユカリが生み出した炎だ。この星の全体を残らず焼き尽くすような快感があった。他の3人は、ぽかんと口を開けたり、所在なく微笑んだりしていることが多かった。彼女たちを置き去りにして、どこまでも上昇していくような感覚も楽しかった。

 ユカリとなら、言葉を使わずに意思を疎通することだってできた。
「クソだね」「クソだ」「これも」「こっちも」「クソ」「クソ」「クソ」「クソ」「どれも」「これも」クソ、クソ、クソ、クソ。
 私たちの短い通信は、まばたきの速さで送受信された。何万回も、何億回も。自分の正確なかたちを、お互いに知らせているみたいに。

 そんな風だったから、私とユカリ以外の3人には居心地の悪い瞬間も多かったと思う。
 だけど彼女たちは、おそらく学校以外の場所や、ネット上では、それぞれに趣味や気晴らしのための強固なコミュニティに所属していたはずだ。そっちが彼女たちの人生の本筋なのだ。学校では、なんとなく私たちと一緒にいるしかなかっただけだと思う。
 本当に孤独なのは私とユカリだ。
 私とユカリは「自分の好きなもの」について語ることがほとんどなかった。
 なんとなく、あれは好きだろうな、とか、あの辺を参照しているんだろうな、といった気配を感じることはあったけど、悪魔に知られてはいけない真の名前のように、私たちは自分のコアな部分をひた隠しにしていた。自分たちの攻撃力を知っていたからだ。もしお互いの好みが少しでもズレて、お互いを攻撃しあったりしたら、軽く傷つく程度では済まない。
 私とユカリの関係は、「ふたりで花壇を育てていこうね」といった温かい感じのものではなくて、自分たちを取り囲む敵兵を全て射殺するときに必要とされる類のものだった。それだけ得がたい存在だったとも言える。戦場で背中を預けられる相手なんて、そうそう見つかりはしない。友情と言ってしまうには、何かが大きく違いすぎたと思うけど。

 ■ ■ ■ ■

 私とユカリは同じ予備校に通っていたから、そこでは思う存分、全力で、純度の高い悪口を言いあうことができた。
 自習室の隅っこで、並んで床に座り、全世界でユーザー数25億人を誇る巨大なSNS、ラウリオン(Lavrion)を眺めながら、目についた投稿に、さまざまな角度から、容赦ない斬撃を浴びせる、というのが私たちのよくやる簡易的な遊び方だった。キャッチボールみたいなものだ。

 いつものように自習室で、肩を寄せ合って、私たちにしか聞こえない声で、テレパシーみたいにささやきあっていると、不意にユカリが意地悪そうに微笑んだ。
「三木谷亜矢の裏アカ見つけたよ、そういえば」
 三木谷亜矢。
 私たちの通う高校で、最も高い塔に君臨する女だ。
 アルバイト禁止の進学校で大っぴらに読者モデルなんてやっていて、なぜか咎められることもない。テレビの深夜番組に一度出たことがあって、ラウリオンの「表」では、フォロワー数5桁を誇っている。自分以外のすべての人類が、自分と握手するために、自分の列に並んでいる、と思い込んでいるタイプの人間だ。
「裏アカ? うそ。どうやって?」
「親指だけハロウィンのネイルにしたんだよ~、って言ってたじゃん? あいつ今日」ユカリは三木谷亜矢の口調を真似しながら言う。「それが命取りだったね」

 今日の昼休みのことを思い出す。ある男子生徒が、私たちのことを目で指し示しながら、「あの5人組がさ」と揶揄するのが微かに聞こえた。5人組。さざ波のように小さな笑いが広がり、やがてそれは教室中を満たした。
 私たちは日常、表だったいじめは受けていなかったけど、このようなことはよくあった。いつものようにユカリは窓の外を見ていて、他の3人はうつむいていて、私は完全なる無の表情で対応した。
 あのとき、三木谷亜矢は嘲笑の輪に加わらず、というよりそんな些細な事件は感知すらしておらず、周囲の女の子たちに左手の爪を見せていた。「親指だけハロウィンのネイルにしたんだよ~」

 三木谷亜矢の裏アカウント名は「aaaaayaaaa3333」にパンダの絵文字を4つくっつけたものだった。
 そこには、慰めてもらう気まんまんの薄い弱音と、「やべー」とか、「やってもた」とか、「わたしのキオクたち、甘いあじだなあ、ぜんぶ……」などのクソ文字列と、わざとピンぼけして奇妙な構図で撮った自撮りと、膝と、スタバ店員の落書きに自分で可愛いクマの絵を描き加えたものと、親指だけハロウィン仕様の爪と、クラスメイトがバカみたいな振り付けで踊っている5秒くらいのクソしょうもないクソ動画なんかが並んでいた。
「つまんねーな。表とあんま変わんないじゃん。もっと致命的なこと書いてろよ」と私はユカリのiPhoneをのぞき込みながら言った。
 するとユカリは、いきなり私の頭を両手でつかみ、鼻をくっつけ、私の髪の匂いをかぎはじめた。
「は? なに?」と私は慌てた。
 ユカリは私から顔を離して言う。
「いち髪使ってるでしょ、シャンプー」
「……かな? あんまわかんないけど」
 私は自宅のシャンプーの銘柄が何かなんて、今まで一度も気にしたことがなかった。
「いち髪だね。前の前の親が、いち髪買ってたからわかるわ。今の親は、なんか変な人から変なシャンプーを直接買ってるけど」
 ユカリが自分の家庭のことを話してくれたのは、このときが初めてだった。というか、この1回きりだった。「前の前の親」とか言ってるあたり、いろいろありそうだったけど、私の中には、そこに言及したら負けだ、という謎の感情が生まれていた。
 複雑な家庭なんてべつに普通のことだろ、って気持ちと、なんだよお前いろいろあるタイプの特別な奴だったのかよ、という、ふたつの相反する、幼稚な、情に欠けた反感が私の中に感知された。
「どんな匂い?」と私はシャンプーのことだけを聞いた。
「こんな匂い」とユカリは私の前に頭を突き出した。
 ぼさぼさなのに、いつだって清潔な印象のユカリの髪。鼻を近づけると、おばあちゃんの家の古いオルガンを開いたときの匂いがした。
「どう?」とユカリが聞く。
「わかんない。鼻悪いかも私」と私は言った。

 ■ ■ ■ ■

 私たちの悪口の俎上にあがるものを整理すると、

・薄っぺらい奴
・こざかしい奴
・過大評価されてる奴
・調子のってる奴
・弱者の味方ぶって自分のポイントを上げたいだけの奴
・すべてをポジティブに捉えれば、ポジティブがポジティブを呼び、世界にはポジティブが溢れ、何もかもがポジティブに回帰するとかいうアホな大嘘を、台風みたいに撒き散らす詐欺師みたいな奴
・詐欺師
・鬼
・虫
・私たちを見くだす奴

 ということになる。
 しかし、何かを批判するということは、「自分ならもっとうまくやれる」という意識が心のどこかにあるということだ。
 私たちは自然と創作の世界に足を踏み入れることになる。というより、私は幼い頃から、コソコソと何かを書き溜めたりはしていた。おそらくユカリも。
 私たちは短い話し合いの末に、自作の小説や評論を集めた同人誌を製作することに決めた。
 といっても、どこかに発表するためではない。私たちふたりだけしか読まない、世界中に2部ずつしか存在しない小冊子を、定期的につくることにしたのだ。

 純粋個性批判

 というのがその小冊子のタイトルだった。
 そこに収められた文章は、どれも恐ろしいほどの悪意とユーモアにまみれていた。
 この世に存在するありとあらゆるものが、私たちの批判と嘲りの対象となった。「熱量を持って」「好きなものについて」「愛の深さを」語る、というような、死ぬほどみっともない行為とは、私たちは永遠に無縁だった。私たちは嫌いなものについて語りあう。それがどれほど嫌いかを確認しあう。標的と定めた獲物に対しては、いくらでも、底なしの、二度と立ち直れないほどの、えげつない攻撃をしかけることができる。
 私たちが自分の文章を外部に発信しなかったのは、この本が、「世間」という呪詛すべき対象に致命傷を与えることを恐れていたからだ。
 私たちは、自分たちの攻撃が、世間に「まともに当たる」と、真面目に信じていたのだ。

 権威に対する鮮やかなカウンターでのし上がった人物は、それが成功した瞬間に、今度は自分が「倒される側」に回ってしまう。身も心もヘルシーになり、批判を恐れるようになる。この世界では、身も心もヘルシーな奴から順番に死ぬようにできている。それを理解せず、自分が「倒される側」にスライドしたことにすら気づかず、シロアリみたいな群衆に少しずつ殺されていく。そんな奴を何人も見てきた。いちばんダサい奴ら。私たちはそういった思想的なダサさにとくに敏感だった。自分たちの殺傷能力を最高の状態で維持するには、武器を磨き、ふたりだけの世界で敵を殺し、殺しに殺して、自分たちだけでその鋭利さを確認しあう、という方法しかなかった。

 局部をモロに見せつけるタイプのポルノだって、存在してはいけないわけではない。誰の目からも隠されていれば良いだけ。私たちはそうしていたというだけのことだ。

 純粋個性批判の記念すべき第1号は、コピー用紙をホッチキスで留めただけの簡素なものだった。文字以外のものは一切印刷されていない。2号目からは印刷会社に入稿し、多少の装飾をつけたりもしたけど、第5号からは、結局またホッチキスに戻った。そのほうが私たちの心情に寄り添っているように思えたからだ。15号くらいまでは作った記憶がある。今ではほとんどが散逸してしまったけれど。

 ユカリは1冊ごとにペンネームを変えた。
 穂谷カル(ボタニカル)
 とか、
 柄田サライ(ガラタサライ)
 とか、
 古谷井スピアーズ(ブリトニー・スピアーズ??)
 みたいなアホっぽい名前が多かった。意外と、微妙に古い単語のダジャレみたいなのが好きなんだな、と思った。
 私は一貫してダキア(Dacia)というペンネームを使っていた。世界史の用語集から適当に拾った言葉だった。

 純粋個性批判の最後のページには、いつも必ず、ふざけて「作者プロフィール」の欄を設けた。ユカリはころころペンネームを変えるくせに、プロフィール欄には毎回「趣味・サーフィンする犬の動画を観ること」と書いていた。「なんだよそれ」ってふたりで大笑いしたことを思い出す。そんなおもしろいことを書かれたら、もう私はプロフィール欄に何も書けないよ、と思ったことも。

 奇跡的に手もとに残っている純粋個性批判・第9号の内容を紹介しよう。目次は以下のようなものだ。このときのユカリは、「夢野ワイファイ」と名乗っている。

・序文(ダキア)
・文脈を読め(夢野ワイファイ / 評論)
・文脈を読むな(夢野ワイファイ / 評論)
・温室育ちの毒蛇(夢野ワイファイ / 詩)
・原作通りだからってなんだ(ダキア / 評論)
・遺影を撮りに行く(夢野ワイファイ / 小説)
・この建物に2階はない(夢野ワイファイ / 小説)
・殺人事件(ダキア / 小説)
・作者プロフィール

 私が3本、ユカリが5本。
 だけど私の『序文』は2行ほどの短いものだし、『原作通りだからってなんだ』は、800字くらいで内容も薄い。ユーモアも弱い。ほとんどタイトルで全てを言い尽くしている感もある。『殺人事件』だけは、今読み直すと、くだらなすぎてちょっと笑ったけど……(いかにも殺人事件が起こりそうな雰囲気の、ド定番の冒頭を書いたあとに、何も起こらないクソ平凡な日常が描かれて、そのまま終わるというもの)。

 対するユカリは、私の20倍くらいの文章量を提供している。
『文脈を読め』『文脈を読むな』の2本は、どちらも当時売れに売れまくっていた人気作家・三坂真一郎に対する手厳しい批判の文章だ。
 タイトル通り真逆のアプローチの2本で、しかしどちらの文章でも、三坂真一郎の実力を完全否定している。
 きちんと論理だった批判の中に、嫌味ったらしい致死量のユーモアが、偏執的な細かさで織り込まれていて、今読んでも笑いと感動が止まらない。
 老若男女に読まれ、一般の読者からも、評論家筋からも絶賛一色だった三坂真一郎は、ユカリの文章に書かれていた通りの弱点を露呈し、ほんの数年で完全に勢いを失った。どう低く見積もっても、この作家について書かれたすべての文章の中で、最も傑出した評論のひとつだと思う。もちろん、この文章は私とユカリのふたりしか目にしていない。

『温室育ちの毒蛇』『遺影を撮りに行く』『この建物に2階はない』といった創作も本当に素晴らしい。当時は、それがどれほどの傑作なのか、理解し切れていなかった部分もある。
 とくに『温室育ちの毒蛇』という言葉は、おそらく、というより、明らかに、私たち自身を皮肉ったものだ。あるいは私ひとりだけを。私はそんなことにすら気づいていなかった。温室育ちの毒蛇。今になってようやく痛みだす、本物の牙のあと。

 ご覧いただいた通り、私は純粋個性批判の後半の号では、すっかり当初の意欲を失っていた。
 書きたいものも、とっくに枯れ果てていた。
 というより、最初からなかった。
 私の「批判」なんて、目に映るものをモグラ叩きみたいに反射的に潰していただけのことだったのだ。
 ユカリの文章を見るのも怖かった。「私より圧倒的に上なんじゃないか?」という疑念から目を背けることが、だんだんと難しくなっていった。
 私は自分のことを、ユカリを含めた5人のリーダー的な存在だと自負していたけれど、その根拠は、単に学校の成績がずば抜けている、という部分に頼り切っていたのではないか?
 学校が嫌いなくせに、学校の成績を基にして、自分の価値を決めていたんじゃないだろうか?
 自分の中から湧き出る、そんなすべての恐怖から逃げ出したかった。
 純粋個性批判の号数が進むたびに、ユカリの成績もぐんぐん私に迫ってきていた。私はそれにすら気づかないふりをしていた。

 ■ ■ ■ ■

 そして決定的な事件が起こる。
 結局完成することのなかった純粋個性批判の、幻の最終号(15号だったか16号だったか)のために書いた文章を、お互いに交換し、放課後の教室でそれぞれにチェックしていたときのことだ。
 ユカリの文章に、私はとうてい看過しえない一文を発見した。
 本筋ではないにしろ、アニメ『マーブルガールズ』のことが、明確にくさしてあったのだ。

 ユカリと出会う遥か以前、私たちが9歳だった頃、毎週日曜日の朝に放送されていた『マーブルガールズ』。
 私はこのアニメの大ファンだった。
 とくに第21話。第21話を私は宝物のように大事にしていた。
 それはいわば、新展開の前の箸休め的な内容の回で、全39話のうち、唯一、戦闘シーンがない回でもあった。
 主人公の女の子たちは、マーブルガールズに変身していないときは、別々の学校に通っていて、とくに交流もないのだが、この第21話でだけ、制服を着て、みんなで放課後のショッピングを楽しんでいるのだ。

「これ冗談だよね?」と私は聞いた。
「どれが?」私の文章をチェックしていたユカリが顔を上げる。
「マブガdisってるとこ」
「マブガdisるでしょ普通」
 ユカリは無表情だった。
 私のはらわたが、グツッ、と軽く煮えた。
「私はマブガから得た多大なインスピレーション、その推進力だけでローティーンの時代を乗り切ったようなところがあるんだけど」
「はあ~~~?? それこそ冗談でしょ」ユカリは悠々とした動作で頬杖をついた。「観てて馬鹿馬鹿しいと思わなかった? 第1話で提示されたルールが、そのあとの回では完全に無視されてるんだよ? そもそも、作品全体を貫く思想が前時代的で耐えられないしさ」
「子供の頃は、そんなの気にならないよ。物語の持つパワーだけが大事じゃん」
「私はそんな典型的な子供じゃなかったのでね。クソとしか思えなかった。天然物のひねくれ者なので」
「私はそうじゃないって言うの?」
「努力型なんじゃない? 努力型のひねくれ者」
 ユカリはそういって少し口を歪めた。ぼさぼさの髪を払ってメガネを取る。指紋のついたレンズを袖で拭き取り、さらに汚して、それを平然とユカリはかけ直した。
 努力型のひねくれ者。
 私は、私の逆鱗を、乱暴にむしり取られたような気分だった。
 激怒しすぎて表面的には沈静化している。
「帰る」と私は言った。
「じゃあ私は残る」ユカリは顔もあげなかった。
 教室には憂鬱で美しい西日が射し込んでいる。いかにもな雰囲気が、わざとらしくてムカついた。
 だけど後から思えば、手堅く別れの演出が施されたようなこの場面が、本当に私たちの明確な分岐点だったのだ。

 ■ ■ ■ ■

 私はハンバーガーショップに直行し、巨大なハンバーガーに怒りを込めて噛みついていた。
 しばらくすると、視界の隅に自分の高校の制服が映った。ユカリが追いかけてきたのかと思ったけど、そんなはずはなかった。
 空いている席を探しているのは、同じクラスの三木谷亜矢だった。
「あれえ?」とわざとらしい声を上げながら、三木谷亜矢は私の向かいにいきなり座った。「まりえちゃんだ」
 私の動作は完全に停止してしまった。東口まりえ、という私の名前を、三木谷亜矢が記憶しているとは思いも寄らなかった。
 それに、家族や親戚にしか呼ばれたことのない自分の下の名前が、三木谷亜矢の可愛らしい唇から発せられたことにも、ほとんど刺し殺されるくらいのショックを受けていた。
 まりえちゃん。
 こんなに甘く響く名前だったなんて。
 この時点で、すでに私は舞い上がっていたのだと思う。
「どうして私の名前知ってるの」
「そりゃ知ってるでしょ」少し笑って三木谷亜矢は座り直し、自分のiPhoneをテーブルに置いた。「あれ? それ『サッドネス』じゃん! 結城咲良の」
 私のバッグから覗いている漫画を指差して三木谷亜矢が言ったので、私は心臓が止まりそうになった。子供の頃からのお気に入りの漫画家・結城咲良の新刊『サッドネス』。メンタルの調子が良ければ、ユカリに貸そうと思っていた漫画だ。
 ユカリに、何か好きなものを紹介できたことなんて、今まで一度もなかったけれど。
「知ってるの? 結城咲良」と私は思わず聞いていた。
「すっごい好きなの! 最初はお母さんが買ってたんだけど。でも読んでる人見たことなくてさー、誰とも話ができなかったんだよ!」
「マイナーだもんね」
「ねー! どれが好き? 私はもう、どれがいちばんとか、決められないくらい好きなんだけど」
「私も、そのときの気分によって変わるかな……ぜんぶ最高だから。昨日は『パンとカップスープ』を読んでた」
「パンと! カップスープ!」三木谷亜矢は胸の前で両手を合わせる。「その話ができるとは~、その話ができるとは~」
 三木谷亜矢は上半身だけで軽く踊った。顔にかかった髪を払う動作まで振り付けのように見えた。瞳の中に恒星がいくつもあるみたいだった。何もかもが異次元すぎた。
「その隣の本は何?」
 三木谷亜矢は動きを止めるということがない。『サッドネス』の隣に刺さっていた本をきれいな爪で指し示している。
「これは……トレイシー・ダリモアという人が書いた、『昨日のオレンジの精密な記憶』って小説で……」私は本を取り出しながら、もごもご言った。
「表紙かっこいいね」
「私も気に入ってる」
「もう読んだの?」
「もう読んだよ」
「貸りていい?」三木谷亜矢は目をきらきらさせて大きなアクションで言った。「私そういう、表紙が固くて、大きい本、読んでみたいってずっと思ってたの。私には難しいかな?」
「うーん。読みやすい文体ではあると思う」
「どんな話?」
「おでこにほくろのある女の子が、そのほくろをスナイパーに狙撃される話」
「なにそれ。笑う」
「狙撃されて、その子は記憶力がめちゃくちゃ良くなるの。昨日見たものをすべて正確に絵に描くことができるくらいに。それで、昨日見たものが正確に頭の中にあるってことは、自分の中に丸1日分の過去の世界が保存されてるってことで、つまり1日だけなら、いつでも過去にタイムスリップできるようなものだ、とその子は考えるようになって……って話」
 自分の口調が熱っぽくなりかけているのに気づいて、私は無理やりトーンダウンした。少し喋りすぎたかな、と恥ずかしくなった。
「ギャグっぽい本ってことよね?」
「いや、文学だよ。かなり強めの」
「強いんだ」
「まあ、読み終わってるから、いつでもいいよ、返すのは」
 私はトレイシー・ダリモアのハードカバーを三木谷亜矢に押しつけてうつむいた。
「やったあ」亜矢は本を危なっかしい手つきでバッグに入れる。「重」
「三木谷さん、誰かと待ち合わせなんじゃないの」私は彼女に帰ってほしくてそう言った。
「これから服買うだけだよ。まりえちゃんは?」
「今日は予備校がないから……なんか、水道管の工事があるらしくて」
「じゃ、一緒に行こうよ」

 私は三木谷亜矢が洋服を買うのになぜか素直につきあった。竜宮城みたいに浮ついた雰囲気の店ばかりだった。自分がいてはいけないような空間だった。私は自分が、三木谷亜矢のバッグに結びつけられた大量のパンダのラバーストラップのひとつになったところを想像して、自分が無機物であると思い込むことで、何とか心の平静を保っていられた。

 三木谷亜矢は店員と気軽にコミュニケーションを取り、次々に服を買う。しまいには「まりえちゃんの服選んでいい?」とか言い出す始末だった。完全に調子に乗っている。普段の私なら速攻で断ったと思う。
 だけど「まりえちゃん」と呼ばれて以降の私は、情けないことに三木谷亜矢の操り人形と化していた。三木谷亜矢の体から放たれる正体不明の良い匂いにくらくらしていて、その細い体をきつくハグし、髪に鼻をくっつけて、シャンプーの匂いを確認したい、という謎の欲求が生まれてもいた。一種の錯乱状態にあったと思う。
 友達の服選ぶの得意なんだ~、という亜矢の指示通りに着替えていると、いつもの私より多少、いやかなり、別人みたいに、ましに見えた。
 私は他人のファッションには罵詈雑言を吐くくせに、自分の着るものには、まるで無頓着だったのだ。
「上のニットだけプレゼントするね。本のお礼に」と三木谷亜矢はせわしなく服をチェックしながら言う。
「本は貸しただけなんだけど」
「大丈夫。本なんて貸してくれる友達ほかにいないし、私けっこう稼いでるからね~」と笑って、三木谷亜矢は5900円プラス税の、胸もとが開いていて、袖口がゆったりと広がった、ダークピンクのニットを買ってくれた。
 呆然として紙袋を受け取った私に「そうだ、ちょうど良かった。まりえちゃん、来週誕生日でしょ。これ誕プレだと思ってよ」と三木谷亜矢は微笑んだ。
「どうして私の誕生日知ってるの?」と聞いたときの私の目は、驚愕に見開かれていたと思う。
 三木谷亜矢はこともなげに言った。
「私、クラス全員の誕生日知ってるよ」

 ■ ■ ■ ■

 買い物が済んでも、三木谷亜矢はまだ私を解放してくれなかった。
 知り合いが経営しているというおしゃれなパスタ屋に連れて行かれ、そこに亜矢が呼び出した男の子と、3人でパスタを食べた。蜂蜜の甘みとレモンの風味が効いたゴルゴンゾーラ。
 その男の子は、「本とか読むから」という理由で呼び出されていて、つまりは、私と引き合わせるために呼ばれた男の子なのだった。ネイビーのキャップとジャケットがよく似合う、いかにも都会的な子で、三木谷亜矢が「これ借りたんだ~」と差しだした『昨日のオレンジの精密な記憶』にも、「おっ、トレイシー・ダリモア!」とすぐに反応し、「これはまだ読んでないな。『ケルベロス』は読みました?」と私に敬語で聞いてきた。私に対して敬語ってところが、とくに良いと思った。
 それに、『ケルベロス』は何度も読み直した小説だ。
 私は、自分の全身が、電動歯ブラシみたいに1分間に3万回とかの勢いで、小刻みに震動しているのが、すでにバレているんじゃないかと思って、気が気じゃなかった。
 自分の体内に強い光を放つ丸い器官が眠っていることにも、このとき初めて気がついた。その器官が激しく輝き、猛烈に震えているのだ。私はどうしようもない歓喜を抑えきれなくなり、パスタ屋のトイレで、空気を殴ったり、空気の中で溺れているような動作をして、少し暴れた。

 その日はずいぶん遅くに家に帰った気がしていたけど、時計を見ると、予備校帰りの日より30分も早い時刻だった。
 新品のニットが入っているはずの紙袋は、玉手箱みたいに、なかなか開けられなかった。

 次の週には、私は親にも学校にも内緒で、遠くのスーパーでレジ打ちのバイトをはじめていた。
 バイト代は2週間後には振り込まれ、それと自分の貯金をあわせたお金で、三木谷亜矢が似合うと言ってくれたハイウエストのダブルボタンスカートを買った。色も、彼女に言われたとおりのベージュで、7344円だった。
 メガネをやめてコンタクトにしたり、美容院を変えたりしたいと思うようになった。

 受験生だったということもあり、5人組でいる時間は少しずつ減ってきた。
 とくにユカリとは簡単な会話しかしなくなった。
 本を貸したことで三木谷亜矢と少し仲良くなり、成績は少し落ちて、三木谷亜矢の周りをいつも衛星みたいにうろついている、優しくてかっこいい男の子たちとも、少しずつ話せるようになってきた。

 この時期の私の思考は、
 アハハハハ……
 ウフフフフ……
 としか表現しようがない。
 とにかく、まったく経験のない、これまで存在すら感知していなかった世界での出来事だったから、私は0歳児と同じようなものだった。
 0歳児は、
 アハハハハ……
 ウフフフフ……
 以外の語彙を持たないのだ。
 アハハハハ……
 ウフフフフ……

 ■ ■ ■ ■

 とか浮かれているうちに時間は進み、私は当初の志望校より、2ランク下の大学に進学することになった。
 ユカリは、私が当初志望していたところより、1ランク上の大学に進んだ。
 5人はばらばらになり、即座に音信不通となった。
 三木谷亜矢ともやっぱり気が合わなくて、高校の卒業式の頃には、ほとんど他人みたいだった。結城咲良の漫画が好きな人でも、気の合わない奴っているんだな、と思った。貸した本はすべて返ってこなかった。私は三木谷亜矢が紹介してくれた男の子の、友達の友達と、3週間だけ恋人同士だったりした。

 ■ ■ ■ ■

 大学時代の私は、最初の2年は三木谷亜矢が示してくれたレールの上をひた走った。
 服を買うことが大好きになり、本をあまり読まなくなった。
 5つ年上の、映像会社に勤める彼氏が7か月くらいいたことがあった。
 3年生になると、もともと好きだったポップカルチャーの分野に自分が戻りつつあるのを感じた。
 やっぱり、物語だとか、音楽だとか、そういうものは素晴らしい。
 おしゃれも、自分なりに軌道に乗りつつあったので、そこまでがんばりすぎなくても良いか、って気持ちになっていた。
 がんばりすぎたところで、私の見た目は大したレベルには到達しない。

 ■ ■ ■ ■

 そんな風に精神に余裕が出てきた頃、私はモリー・ガールという新しい才能を偶然にネット上で発見する。
 一般的な知名度はゼロに近かったけれど、SNS上の、先鋭的な音楽を好むような人たちのあいだでは、けっこうな頻度で好意的に取り上げられていたミュージシャンだ。
 それら評価を総合すると、「まあ色物の類だろうけど、捨て置くには惜しい、とんでもないセンスが見え隠れしている」といった感じだった。

 モリーが最初にネット上に発表した6曲のうち、『死神にレモンケーキを』という曲がとくに私のお気に入りだった。予算はないけど、勢いとセンスだけはある、よくできたインディーギターポップ、って感じの音なのに、開始から57秒が過ぎたところで、すべての楽器の音が止み、ゆったりとした、眠くなるような波の音だけが響くのだ。
 それが74秒間も続いた。
 そのまどろみを切り裂くように唐突にギターが鳴り、前半の続きが再開される。そして前半と同じような57秒間が経過して、唐突に終わる。
 3分8秒という短い曲なのに、あまりに大胆な構成だった。
 この前衛性に、私はまんまとやられてしまったのだ。
 何度も何度もこの曲ばかりをリピートしている時期があった。
 途中の波の音を聴いているうちに、自分が音楽を聞いていたということを完全に忘れてしまって、いろいろな考えごとをしてしまう。そこに神がかり的なタイミングで音楽が取り戻される。自分の意思で音楽を聴いているのに、自分が毎回「音楽を聴いていることを忘れる」という感覚が不思議だったし、音楽が復活する瞬間に、電気ショックみたいな快感が全身を駆け巡ることにも、すっかり病みつきになってしまった。
 すべてが計算され尽くしているように感じられる。
 ぼんやりとした白昼夢を、てらいなく描いたような、文学的な歌詞も大好きだった。

 数か月後、Molly Girlと表記を改めたモリー・ガールは、
『Mollyは生きている』
 というタイトルのデビューアルバムを発表する。
 これですべてが変わってしまった。
 朝の不快な気分を拭き取り、夜の孤独に寄り添って、世俗から美しさと痛みだけを抽出したような、純粋な音楽と言葉の洪水。最高のアルバムだった。
 味のあるヘタウマ、って感じだったモリーの歌も、格段に進歩して、というより完全に「化け」て、妙な神性を帯びて聞こえた。

 発売当初こそ、まあこんなもんだよね、的な鈍いチャートアクションを示していた『Mollyは生きている』は、リードトラック『ミモザ』のミュージックビデオの出来の良さが話題になり、あれよあれよと拡散し、売れに売れ、いくつかの大きな賞を受賞し、いくつもの音楽サイトや雑誌で特集が組まれ、すべての曲が日本語で歌われているにもかかわらず、ピッチフォーク・メディアに大々的に取り上げられることになった。
 ピッチフォークは、『Mollyは生きている』に8.9という高得点を与え、「invasion」というワードまで使用して、最大級の賛辞を送った。
 これでモリーの活動範囲は一挙に世界へと広がる。
 SNS「ラウリオン」のフォロワー数は、気づけば7桁に迫る勢いだった。

 ■ ■ ■ ■

 私はどの時点で、モリーの正体が園田ユカリであることに気がついたのだろう。
 この辺りの記憶は錯綜していて、今では正確には思い出せない。
 アルバムのジャケットで、口を半開きにしたモリーを見たときだろうか?
『ミモザ』のビデオでライフルを構えるモリーを観たとき?
 あるいは、最初にその歌声を聴いた瞬間から、心のどこかでは……。

 歌えるなんて知らなかった。
 曲を書けるなんて知らなかった。

 CSの音楽番組に出演して、短いインタビューを受けているのを観たときには、もうとっくに、モリーがユカリだってことに気がついたあとだった。
 モリーは漆黒の巻き貝のようなボブヘアに、大きな黒縁のメガネをかけていて(もちろんレンズはぴかぴかだ)、瞳は哲学者のように揺るぎなく、睫毛は翼のように自信たっぷりにはためいていた。
 痩せていて、姿勢が良く、細かい仕種がいちいち魅力的で。
 こいつ……磨けば光るタイプだったのか、と私は愕然とした。
 磨いても磨いてもぱっとしない私が、のらりくらりと、平凡な、毒のない人間へと堕していくなか、世の中にたまにいる「ずっと冴えない風貌だったくせに、磨けば急に光りだす奴」という、私の最も憎むタイプの女だったユカリは、またたく間に4段ジャンプを40回くらい連続で成功させて、私には到達することのできないステージに立っていたのだ。

「私の音楽がどんなジャンルかなんて知りません。詳しい人が決めたらいいと思います」
 画面の中、すっかり美しくなったユカリは、モリーの姿で、そんなことを言い放った。
「モリーさんの音楽は、単なるポップミュージックの枠にはとどまらないと思うのですが」と食い下がるインタビュアーに、モリーは少し微笑んで見せる。
「そうですね、自分ではポップミュージックってつもりはまったくなくて。どちらかというと、ホイップミュージックだと思っています」
「ホイップ? 具体的にはどういった意味でしょう?」
「whipを辞書で引けば良いのでは? いろいろなことが書いてあると思うから。私の音楽の意味はそのどれか。あるいはそのすべてです」

 ■ ■ ■ ■

 モリーがブレイクしてから、私は自然と小説を書きはじめた。とても、とても素晴らしい小説が書けるような気が、急にしてきたからだ。
 4万字くらい書いたら、どこかの文学賞に応募しよう、と考えて、就職活動をしながら、4か月かけて8000字ほど書いたところで、モリー・ガールが小説を発表したというニュースが飛び込んできた。
 彼女が歌えることは知らなかった。
 曲を書けることも知らなかった。
 でも文章を書けることは、誰よりも私が知っていた。

 モリーの本のタイトルは『食物連鎖』、出だしの一文は「私たちは温室育ちの毒蛇だった」というものだった。本の帯にもそう書かれていた。
 やられた、と思った。2行目はもう読まなかった。私の小説は完成せず、『食物連鎖』は数か月後に芥川賞を受賞した。作者のプロフィール欄には「趣味・サーフィンする犬の動画を観ること」と書かれていた。

 ■ ■ ■ ■

 私は学習教材を作る小さな会社に就職し、8か月で辞めて、全国チェーンの大手靴屋に再就職し、5か月でやめて、スーパーのレジ打ちを16か月やって、辞めて、楽器屋で働くようになり、辞めて……というような感じの日々を送って、今に至る。27歳。
 小説を書いては、いろいろな賞に応募して全滅したり、自分のブログにちょっとした、おもしろおかしい自虐エッセイ風のものを書いてみて、それで名をあげようとしてみたり、ヨガのインストラクターを目指しかけたり、小説を書いたり、やっぱり小説を書いたりしていた。

 モリー・ガールが園田ユカリであると知ったときに、私の中のどこかが、二度と戻らないくらい無残に破壊されて、モリー・ガールが芥川賞を受賞したときに、私は上下左右や東西南北を感知する機能を失ったのだと思う。
 かつて5人乗りの小舟の船長を気取って、勝手気ままに進路を決めていた私が、今は自分一人がどこに進めば良いかもわからない。

 この数年間で、私は自分がモリー・ガールになったところを何億回も想像してみた。モリーになって、有名人とスタジオの隅で軽く談笑したり、インタビューで人を食ったようなことを言い散らかしてみたり、海外の音楽フェスで、数千人を前にして4曲を歌い、翌日気晴らしにその街を散歩していたら、きれいな瞳の金髪の少年に握手を求められたりしているところを想像した。その少年の手は汗で濡れていて、唇は緊張で小刻みに震えているのだ。そんなことばかり想像した。何億回も、何億回も。

 ■ ■ ■ ■

 Molly Girlは、NHKの朝ドラ「ほんだらけ」の主題歌とナレーションを担当し、資生堂のウェブCMのイメージキャラクターに起用され、007の新作にカメオ出演し、新しい小説『スカートの残骸』を128万部も売り、綾野剛と噂になり(ガセだったけど)、デーモン・アルバーンとの共作曲をUKチャートに送り込むなど、やりたい放題やったのち、2年前、25歳の誕生日に、突然休養を宣言した。
 そしてぴったり2年後の今年、突如として最新アルバム、
『サーキュレイターズ』
 を発表する。
 絶賛につぐ絶賛。
 Mollyはまだ生きていた。
 それどころか、更なる高みにいた。

 発売から35日が経過した昨日、私はようやくアルバムを全編通して聞くことができた。精神を整えるのに時間がかかったのだ。
 ラストに収められた『純粋理論』という曲にこんな一節がある。

 私はあなたが / あなただけの温室を / 燃やすことを願ってる / あなたがどこにいるのかを / 教えてほしいと思ってる / 私はあなた / あなたはどなた? / 不安定な世界から / 私とあなたのあいだに存在する / きれいな魔法を / 純粋理論で取り出して / その温室には / もう何もない

 あからさまに私のことを歌っていると思った。
 思い込みが激しすぎるだろうか?
 私の気は狂いかけているのかも。ジョン・レノンを殺した奴みたいに。
 一度しか聞かなかったのに、何度も何度もこの曲が頭の中に再生された。
 すべてがいやになって、真夜中、部屋を真っ暗にして眠るとき、窓の外の国道246号を走る車の音が少しでも止むと、「いまから10数えるあいだに、車の音がしなかったら、すべてが私の思い通りの世界になる」という、子供みたいな願掛けをしたりした。
 何度やっても、車の音は必ず聞こえた。
 私は成功したユカリを攻撃する言葉を持っている。
 しかしそれは、しょせん温室で育まれた、見当違いの毒でしかない。

 私は歯を食いしばりながら眠った。
 目が覚めると、よく晴れた日曜日の朝だった。マーブルガールズが終了してから、900回目くらいの日曜日の朝。そうか、私はマーブルガールズなしの日曜日を、マーブルガールズの魂を抱えたままで、何度も何度もくぐり抜けてきたんだ、と天啓のように思った。
 なんだか急にすがすがしい気持ちになって、私は園田ユカリあてに手紙を書きはじめた。私の住所と連絡先を教えるつもりだった。
 ところが半分まで書いたところで、また頭の中で『純粋理論』が鳴りだした。
 昨日みたいな苦しい気持ちにはならなかった。不思議と。素晴らしく良い曲だと思った。スウィート・ホイップ・ミュージック。私はそれを口ずさみさえした。やはりこれは、私に宛てられたメッセージソングだ。歌っていると、いろいろなことが整理されていく気がする。私を導くための曲。とても敬虔な気持ちになる音楽だ。すべての道筋が、わかったような、気がするような。
 モリーは生きている。
 私は手紙を破り捨て、服を着がえて、少し遠くのパン屋まで歩くことにした。パンを買って、家でそれを食べたら、新しい小説を書こうと思った。私が書きたいから書く物語。私にとってのマーブルガールズみたいに、誰かにとっての宝物になるような。書き上げたら、どこかに発表してみよう。『純粋理論』が頭の中をぐるぐる回る。不安定な世界から / 私とあなたのあいだに存在する / きれいな魔法を / 純粋理論で取り出して。私はモリー・ガールになりたいわけじゃない。やっとそのことに気がついた。私の目的はたったのひとつだったのだ。ずっと昔から。同じ舌打ちをしたあの瞬間から。「努力型のひねくれ者」という、いつかユカリに言われた言葉が蘇る。少し笑ってしまう。本当に私はひねくれている。努力で、むりやりに。私はずっと、園田ユカリのいちばんの友達になりたかったのだ。


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