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真夏の海まで(4666字)

 高速道路が永遠のループに突入して、退屈なドライブは終わりを見失った状態になる。
 ダッシュボードに表示された終了予定時刻は、45分後から31時間後のあいだを小刻みに揺れ動いていた。
 百合沢アマネと桐生フミの乗り込んだクルマはクリーム色のシトロエン・ディアーヌ。1960年代のモデルだが、もちろん再現されたのは外見だけ。中身は最新式で、人間が運転する必要などなかった。運転席に座るアマネはハンドルに手を置いていないばかりか、缶ビールを片手によそ見している。
 助手席のフミはため息をついた。素面のアマネをもう3週間は見ていないし、この馬鹿げたドライブもまだまだ続きそう。だけど海を見たいと言い出したのは自分だ。黙っているしかなかった。
 暇なのでアマネの横顔を眺める。普段より化粧に気合が入っているな、とフミは評価した。

「死刑制度についてどう思う?」アマネが正面を見たまま話しかけてくる。
「急に何」とフミは戸惑う。
「退屈そうだったから」
「考えごとしてただけ」フミは少し顔を赤らめた。「死刑がどうしたって?」
「フミは私が殺されたら、犯人は死刑になってほしいと思う?」
「べつに。どうでも良い。無罪でも良いかな。どうせ犯人は殺すから。私がこの手で」
「マジ? 熱いね」
「その犯人って、私かもしれないけどね」
「さらに熱い」アマネは軽やかに笑った。「冗談だとしても」
「冗談だったら良かったね」
「ELはどう思う?」アマネは笑顔のままダッシュボードに呼びかける。
 ELというのは、世界を牛耳る3種類の【知性】のうちの1つだ。このクルマにも搭載されている。つまり、アマネとフミはEL派の人間なのだ。
『質問が明確ではありません』ELの生ぬるい声が車内に響いた。
「聞いてただろ。殺人罪の量刑についてだよ」
『そうですね……。その時点の人類の平均寿命から被害者の年齢を引いた数値、それをそのまま懲役の年数とするのが妥当である、とELは考えます』
「どういうこと?」とアマネ。
『平均寿命が100年の時代に30歳の人間を殺害すれば、懲役は70年となります。殺された人間が本来生きるはずだった残りの70年を、犯人に背負わせるのです。0歳児を殺せば、懲役100年。90歳の老人を殺せば、懲役10年です』
「変なの」フミが口を挟む。「99歳を殺しても、1年しか牢屋にいなくていいの?」
『そうなります』
「100歳を殺したら?」
『ピタリ賞で無罪です。しかし、100歳以上の人間を殺害すると、ドボンとなり、死刑』
「ELってばかなの?」とフミは呆れた。
『ELは冗談を言いました。というのも、人間を統治するシステムに関して、ELは意見を述べることができません』
「いい子ぶらないでよ。とっくに支配してるようなものじゃない。人間の意思なんて、あってないようなものでしょ……」と、そこまで言ってフミは思いとどまる。「まあいいわ。これ、どこの海に向かっているの」
『目的地は、真夏の海まで、と指定されています』
「真夏……?」フミはアマネを横目で睨む。「何なの? ポエム?」
「きみが見たいと言ったんだろ」
「海が見たいと言っただけ。季節の指定はしてない。いま10月だよ? 10月って真夏からいちばん遠いんだよ? そもそも真夏って……」
「何とかなるよ。ELが受理したんだから」
「EL、いつ着くの」とフミは聞く。
『4時間23分23秒後です』
「いつ着くの」フミは同じ質問をした。
『26時間6分2秒後です』
「だめだこいつ。音楽でもかけて」
「音楽はかけない」アマネが素早く命令をキャンセルした。
「何で邪魔するの」
「音楽のほうが素晴らしいからだよ。海なんかより」
「ハア? 気取りすぎじゃない? 悪い癖だよ。ムカつく。何か食べたい」
「お酒ならあるけど」
 フミは返事をしない。酒が嫌いなことは知っているはずだ。
 だんだん牢獄に囚われているような気分になってきた。椅子に縛り付けられている。食事や娯楽の自由がない。会話の相手も制限されている。どこかに向かってはいるらしいが、目的地も到着時刻も曖昧だ。これでは懲役何年だかわかりはしない。我が儘のひとつも言いたくなってくる。
「ねえ、フルコースの食事がしたい」
 アマネもELも何の反応も示さない。かまわずフミは喋り続ける。
「フルコース。あれってひとつの物語だよね。大きな世界が小さく分割されて、ミニチュアの芸術品みたいな料理に姿を変える。それが順番に運ばれてくるの。とても精密なプロットに沿ってね。ひと皿ごとにエピソードが更新されていくんだ。主人公として振る舞うことを求められて、ちょっと緊張した私たちは、いつもと違った会話を楽しみながら、2時間かけて世界のすべてを味わい尽くすの。まるで旅をするように。フランス人ってのは本当にすごい食事の仕方を発明したものだわ」
「ロシア人だよ」
「え?」
「コース料理の発祥はロシアだ。フランスじゃない」アマネは少し優しい目つきになった。「ピョートル大帝の時代、西欧化政策の一環として大量のフランス人シェフがロシアに招かれた。そいつらがコース料理の概念をフランスへ持ち帰ったんだ。それ以前のフランス人たちは、テーブルいっぱいの料理を一度に出していたんだよ。中国人の作法に近かったんじゃないかな」
「へー、意外。満漢全席みたいな?」
「そこまで豪華ではなくてもね」
「中華料理もいいよねえ……」
「まあ、こんな状況でなければ行ってみたい国ではあるけどね」
「中国?」
「いま挙げた3つの国すべて。中国、ロシア、フランス」
「フランスって今もある国だっけ?」
「北緯約42度から約51度、東経約07度から西経約04度のあたりに今も存在しているよ。国として機能しているかどうかは不明だが」
「物知りだこと。眠くなってきたわ」
「歌でも歌う?」
「音楽はだめなんじゃないの」
「きみの鼻歌に限り許可する」
「許可されたものなんて、ひとつもやりたくない」
「最高にロックだ」
「やめて。その言葉嫌いだって言ったでしょう」
「最高にロックだ? が?」
「そう。何かを褒めるときに使用されると一気に冷める言葉、それがロック。あと『これこそジャズだ』ってやつ。まあ、どちらも同じ意味だけど」
「こないだ『地獄』って言葉も使うなって言ってなかった?」
「地獄じゃなくて『地獄のように』ね。それも継続中。何も考えてない奴らが使う言葉だから。いま使ってはいけない言葉は、『地獄のように』『鬼のように』『最高にロックだ』『これこそジャズだ』『呪い』『祈り』『これってあるあるだと思うんですけど』。使ってはいけない調味料は、ラー油、黒酢、ミント、クレイジーソルト、ケチャップ、コーン油、キャノーラ油。歌ってはいけない歌は……」

『目的地周辺です』

 シトロエン・ディアーヌが急停車した。
 フミは窓を開ける。海の気配はする。だけど真っ暗で何も見えない。風も冷たかった。
「どこが真夏の海なの」フミはELを睨む。
『もうすぐ処理が終わります。完成した部分からご覧に入れましょうか?』
「いや、それには及ばない」答えたのはアマネだ。
 アマネは手にしていた缶ビールを一滴残らずELにかけた。ほとんど飲んでいないような量だった。それからアマネはカイザーナックルを右手に装着し、強烈な右フックを2発、ELにのダッシュボードの真ん中にお見舞いする。ELは沈黙した。
 アマネが車を降りたのでフミも降りる。
 アマネは後部座席に積んであった古今東西の武器を引きずり出し、道に並べた。テーブルいっぱいの料理を一度に配膳するみたいに。
 アマネはその武器を端から順番に使用し、シトロエン・ディアーヌを徹底的に破壊する。
 棍棒、ヌンチャク、トンファー、十手、ライフル、ウォーハンマー、フランベルジュ、釘バット、アキナケス、ショットガン、青龍偃月刀、バールのようなもの、モーニングスター、ファルシオン、マグナム、チャクラム、ジャマダハル、体当たり、ミドルキック、ローリングソバット……まるでバレエでも踊っているみたいな優雅さだ。
 瞬く間に車体を潰してしまうと、アマネはクルマの残骸にライターで火をつけた。
「EL、いま自分がされたことが何だかわかるか?」炎に包まれたELは返答しない。アマネは笑った。「教えてやろう。暴力だ。博物館に陳列されている武器というものは、すべて暴力を拡張するためにある」

 警報が鳴りだした。

『この世界は、3タイプの【知性】によって、3つのセグメントに分割されています。いずれかの管轄に、必ず所属しなければなりません』

『この世界は、3タイプの【知性】によって、3つのセグメントに分割されています。いずれかの管轄に、必ず所属しなければなりません』

『この世界は、3タイプの【知性】によって、3つのセグメントに分割されています。いずれかの管轄に、必ず所属しなければなりません』

 警報は次第にボリュームを増す。
 アマネとフミは外部音声をオフにした。
 とりあえずの静けさが奪還される。
「悪い」アマネが申し訳なさそうに微笑んだ。「これで2人とも罪人だ」
「死刑かな」
「楽しそうだね」
「これしか方法がなかったんでしょう?」
「まあね。でも私のやり方はいつも間違ってる」

 真っ暗な浜辺に降りてみる。地面は真夜中のように黒い。でも砂の上を歩くときの感触はきちんと再現されていた。打ち寄せる波のパターンは少ない。
 遠くの桟橋に、小さな白いボートが見えた。
「あのボートだ」アマネがフミの手を引いた。「あれなら真夏の海まで行ける。もう心配はいらないよ」
 アマネの言葉をフミは信じることができない。
 危険な真夏は、とっくにこの世界から取り除かれているはずだ。
「真夏でなくても良いんだけど。アマネがいれば良いんだけど」
「顔を上げて」アマネの声は力強い。「行こう。きみを数字のように際限なく砕き、切り捨て、衰弱させるばかりの日々とはお別れだ」
 その言葉はフミの胸に響かない。どこか空々しく感じられた。
「真夏の海に何があるっていうの」
「真夏の海には、真夏の海がある。私たちが想像したとおりの」
 もはやアマネの言葉は文字の配列に過ぎなかった。ただアマネに対する愛しさだけが病的に募っていくのを感じる。
 それからフミは唐突に、
 桐生フミ
 という自分の名前とされてきたもの、に違和感を覚えた。
 桐生フミ?
 それは誰だろう。
 これを喋っている私。
 これを聞いている私。
 私とアマネは同じ髪型で、同じワンピースを着ている。きっといくつか共通の部品もあるだろう。同じ個体の色違いかもしれない。あるいは落語家の演じ分ける上下のような。
 私は私。
 でも、いろいろな場所に遍在している可能性はある。

 桟橋につながれたボートは美しかった。真新しく、真っ白で、何億回も引用された文章のように研ぎ澄まされていた。星は明るく、空気は冷たい。私たちはボートに乗り込むと、呼吸を合わせて漕ぎだした。チョコレート色の暗い海。水面に光るきれいな魚。夜の鳥たちのひそやかな気配。音も感情も最小限だ。私たちの胸には、まだ見ぬ真夏の海の理想的な光景が共有されている。

 浸水に気づいたのは、ずいぶん沖に出てからのことだ。船底に小さな穴が空いている。私たちは少し笑った。そして穴を塞ぎもせず、ボートを漕ぐのもやめなかった。死ぬために海に出たわけではなかったけれど、生きるためでもなかったからだ。私たちは、もっと違った存在の仕方ができるはず。あらゆる時代の、あらゆる場所に。あらゆる形で。あらゆる思想のもとに。
 ボートは進む。
 10月から最も遠く、私たちがただの一度も目にしたことのない、真夏の海まで。



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