不揃いなマトリョーシカたち③「ご飯とお風呂」

 加瀬は夜八時を回ったところで帰ってくるなり「なんじゃ、こりゃ」と呆然と玄関先で立ちすくんだ。帰ってくる気配を察知して、扉を開ける前に玄関先に立っていた私に驚き、次に足の踏み場ができた部屋に対して冒頭の言葉である。

 鼻をわざとらしくクンクンとさせたあと、「いい匂いがする」とつぶやいた。

「ご飯あります。それとも先にお風呂にしますか」

 私がそう言うと、加瀬は眉間を摘んで唸り、顔をあげて私を見据えた。

「無理すんな」

 ああ、脚。加瀬は、新谷の脚が完治していないことを心配したのだ。

「無茶はさせていないと思います。医師からも、これぐらいは大丈夫だと伺っています。ですが、ご心配をおかけしてしまい申し訳ございません」

 頭を下げてから、しくじったと私は後悔した。先に謝罪がくるべきだった。いつも言い訳が先にきてしまうのは私の悪い癖だ。

 加瀬は再び眉間を摘み「そうじゃないんだよな」と呟いてから「腹減ったから先に飯にする」と言って、ジャケットを脱ぎながらダイニングテーブルについた。私はそのジャケットを受取りハンガーに掛けてから、温め直した掻玉汁をお椀に注ぎ、キンピラゴボウと鯖の塩焼きを出した。お皿がなかったので、鯖とキンピラゴボウは同じ丸い平皿に並んでいる。

 加瀬は慌てて立ち上がり、ご飯は自分で茶碗に盛り付けた。あふれるほどの山盛りだった。座るなり、両手を合わせてからガツガツと食べ始めた。すごい勢いでご飯がなくなっていくのは見ていて気持ちがいい。

「このぐらいしか作れなくてすみません」

 私の言葉が聞こえていないのか、加瀬は掻玉汁を飲んでから「これはやばいな」と言った。

 やばい、というのはどういう意味だろうか。

「うめぇ……、こんな飯、いつぶりだろ。いや、これはうめぇ」

「うめぇ、ですか?」

「すっげぇうめぇよ。家庭料理の域を超えてねぇかこれ。この汁さぁ、もしかしてちゃんとした鰹出汁からとってる?」

「かつおと昆布です。ほんとはちゃんと家で削った鰹節がいいのですが、今回は市販の削り節を使用しました」

「プロかよ……」

 残念ながらプロではない。それに、「美味しい」と言われてのも初めてだった。そうか、加瀬にとっては美味しいのか。顆粒タイプではなく、鰹節からとった出汁と当てるところから見ると舌は敏感らしい。「まずい」としか言われなかったため、新鮮な感想に驚く。

 ある程度、腹が満たされた加瀬は自分で皿を流しに持っていき(これにも驚いた)、さらに私の皿も流しに持っていき(驚きを超えて固まった)テーブルにつくと煙草を取り出した。

「コーヒー淹れましょうか」と言うと加瀬は煙を吹いて「たのむ、ブラックで」と返事した。

 ドリップ型のコーヒーを淹れて加瀬に出すと、彼は長い息を煙と共に吐き出した。

「実は、記憶を失くしたふりをしてるんじゃねぇかと思ってたんだが、これは確かに別人だな。亨は壊滅的に家事ができねぇ。ましてや、こんな、鰹節から出汁とか? ありえねぇ」

「この身体を大事にするためには、ちゃんとした食事を摂らないといけませんので……勝手なことをしてしまいました」

「いや、それはいいんだけど」

 加瀬は咳をすると、煙草の灰を落とした。

「あんた、名前はまだ思い出せねぇのか」

 加瀬には、個人情報の類は記憶にないと伝えていた。私が頷くと、そうか、とだけ言った。

「新谷は身内がいない、だからここにいるしかない」

「はい」

 加瀬利一と新谷亨は中学校からの付き合いらしい。共に三十二歳。新谷のほうが少し先に年上になる。新谷は児童福祉施設で育ち、高校卒業とともに働き始めたが、加瀬が警察の独身寮を出たと同時に無職になり同棲を始めた。という情報は与えられている。

「実は、新谷とは別れようと思っていたんだ」

 衝撃的な告白に、私は一瞬間をおいてから「え」と声を出した。

「新谷はな、とにかくクズなんだよ。勝手に金は使うし……、言っておくが所轄の刑事なんて薄給だからな。それなのに湯水のように金を使うから、あっというまに三つ契約したクレカが満額。警察官って下手にクレカの審査ゆるいからだめだな。それに、あいつは俺と違ってゲイじゃない。女もイケる口でなぁ、何度もこの家に女連れ込まれたしなぁ。そのわりに、金が欲しいときだけ甘えてくんだよな」

 最後には長い溜息がついてきた。相当苦労したらしいことが伺える。

「それでも、一緒にいたのですね」

 なんで一緒にいるの? とは、何度も自分にも投げられたセリフだった。そうか、他人から見れば、疑問に思うのも理解できた。

「それはな、ツラが好みすぎた。そのツラがな、好きすぎた」

「なるほど、たしかにかっこいいです」

「だろ? ほんとは黒髪のほうが好きなんだが、それ言うと金髪にしてくんだよなあ」

 加瀬は煙草をもみ消すと、身体を反って腕を組み考え事を始めた。しばらくして「そうだ」と、目を輝かせて私を見つめる。

「あいつには散々迷惑こうむってんだ。この際だから復讐してやろうじゃねぇか」

「ふくしゅう」

「まず、お前を俺好みにしてやる。どうせ新谷の財布に俺のクレカ入ってんだろ? それでまず髪型を変える。そして服も全部変える」

「服は、捨てますか?」

「いや、あいつの服は高価なモンが多い。フリマアプリで売る。頼むが、暇なときでいいからやってくんねぇか。やり方は後で教える。どんどん売ってくれ。使用済みの下着とかは捨てていい」

「どんどん売る」

「そうだそうだ、そのツラを思う存分に堪能してやる。がっはっは」

 ご飯を食べている間から、精神年齢がさがったかのような表情をするな、と思った。復讐というよりも、いたずらを思いついた少年のようにはしゃぐ加瀬は刑事には見えない。

「その黒縁眼鏡もいいが、アイアンフレームもいいな。眼鏡の種類も増やそう。いや~楽しい。初めて新谷といて楽しいと思えたかもしれねぇ」

「ご苦労されたのですね」

 加瀬は二本目の煙草に火を点けて、そうだ、と思い出したように言った。

「嫌なことはちゃんと言えよ。あんたが嫌なことはしたくねぇから」

「そんな、私には拒否権はありません」

「我慢されると、こっちもしんどい。そこは腹割って話そうぜ」

「わかりました、努力します」

 嫌なこと……、あの地獄をの日々以上に嫌なことなどあるのだろうか。この加瀬がある日リミッターが外れ、暴力的になった場合はそれこそこちらが嫌だと言っても無駄になる。

 しかし、と私は考える。この身体は私自身ではない限り、守る必要がある。いつか本人に返すためには、傷をつけてはならない。事故で負った傷が治れば、慎重に行動せねばらないだろう。もし加瀬が危害を加えてくるなら、死以外の逃走を考えないといけない。

「あと、あんたの名前わからねぇからなんと呼ぶべきかな」

「新谷さんのお名前では問題がありますか」

「あんたが嫌だろう」

「いえ、問題ありません」

 この身体に新谷亨以外の情報を与えることに抵抗があった。この身体は新谷亨であって、他の名前をつけてしまうと別の誰かになってしまう。それこそ、私のもののように。

 加瀬は納得したのか

「そうか……、じゃあ、トオルって呼ぶことにする。あいつのことは新谷って言うから間違えないだろう」と言った。

「はい」

「じゃあ、さっそくだけど」

「はい」

「トオルを風呂に入れる」

「……はい」

 脚が骨折している手前、一人で風呂に入っては転んで重大な怪我を負うかもしれない。加瀬もそう判断したのだろう。

「一緒に入るわけじゃなくて介助するだけだから。俺は新谷の身体は見慣れてるけど、トオルとしちゃ見られるのは抵抗あんだろうから、できるだけ見ないようにする」

「はい、見られても問題ありません」

「うん、うーん」

 二本目の煙草を揉み消して、加瀬は頭をばりばりと掻いた。

「その、だな。俺は新谷の身体が好きだ」

「はい」

「だからだな、そのだな。興奮してしまう」

「はい」

「風呂の前に、一回抜いてくる」

「お手伝いしましょうか」

「うん、え?」

 立ち上がって寝室に向かいかけた加瀬は私の言葉に大げさに振り向いた。

「新谷さんと肉体関係があったなら、という前提になりますが」

「肉体関係がなければ、それは新谷の意思に反するから駄目だということか」

「そういうことになります」

 加瀬は何かと戦っているのか、唸りながら部屋を往復し始めた。

「俺と新谷は、恋人同士じゃない」

「はい」

「だが、肉体関係はあります」

「はい」

 ストレスのたまった檻の中の狼のようにウロウロしていた加瀬だが、ピタッと止まると天を仰いだ。

「うん、よし、大丈夫だ。抜いてきます」

「はい」

 寝室に消えた加瀬を見送り、私は流しに溜まった食器を洗い始めた。

 その後、無事に加瀬の介助によりシャワーを浴びることができたが、終始「心頭滅却すれば火もまた涼し」「だめだ、すけべすぎる背中」「これはセクハラになんのか」などと独り言が絶えなかった。


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