不揃いなマトリョーシカたち⑥「涙」

 午前中に掃除機と拭き掃除と終わらせて、買い物に出かけるためにピーコートを羽織った。男の身体になって得をしたことがある。それは米袋を難なく持てるところだ。なんなら大根も牛乳も買ってしまう。大きめのトートバッグに入れてしまえば、簡単に肩に担げてしまうのは素晴らしい。新谷の財布にジムの会員カードがあったので、マメに鍛えていたせいかもしれないが、筋肉はほどよくついているようだ。この筋肉を維持するためにもジムに行くべきか。
 ふと、通りすがりのショーウィンドウの前に立ち止まって、自分の全身を眺める。他人の身体にもっと違和感を感じるかと思っていたが、驚くほどに馴染んでいる。一度、自分の人生を放置したせいで、元の身体に執着がないからだろうか。性の不一致のことも危惧したが、元より恋愛対象は男性だ。もっとも新谷は女性も愛せたようだが。
 首筋にアザのようなものが浮き出ている。それが加瀬によってつけられたものと気がついてコートの襟を立てて隠した。だが、途端に今朝の情事が脳裏に呼び覚まされる。同時に、身体の芯に熱がこもった。男の身体も面倒なことがあるものだ、と、少し猫背になってさっさと歩きだす。筋トレをすると発散できると最近見たテレビの俳優が言っていた気がするので、試しにジムに行くのも吝かではない。
「あー、亨じゃん」
 間延びした声で呼ばれ、振り向くと冬だというのに露出の激しいワンピースにコートを引っ掛けただけの派手な女性がこっちに向かってきた。
「なんか事故ったとか言ってたけど元気そうじゃん」
 困惑していると、女性は「なんか雰囲気変わったねぇ」と笑った。
「すみません、人違いでは」
「うちが亨を間違うわけないじゃん! と言いたいけど自信ねぇ~」
 派手さはあるが、どこか憎めない愛嬌のある人だ。「テルちゃんです」とにかっと笑う。
「まあ、亨はいっぱい彼女いたもんねぇ。よく刺されなかったね。みんな本気じゃなかったからいいのか。うちもそうだしぃ。でもメッセ無視るのは寂しいんだけど」
 スマホは一応、新谷のものを使っているが、加瀬以外からの連絡は無視していいと言われていた。そういえばひっきりなしにメッセが届いていた気がしたが、通知をオフにしている。
「ねえねえ、なんか飯食いにいこうよぉ」
 絡みつこうとしてくるテルちゃんを避けつつ「今日は用事があって」と断るが聞いていないようだ。どうしようかと悩んでいると、加瀬から電話がかかってきた。助かったとばかりに電話に出るが、テルちゃんはめげずに「行こうよぉ」と私の腕をぶらぶらし始めた。
『すまない、特に用事はないんだが、身体は大丈夫か』
「身体の方は大丈夫です。かなり元気ですよ」
『そうか……、誰かいるのか?』
 できるだけテルちゃんから身を離そうとするが、がっちりと腕をホールドされてしまい、どうしても彼女の声が加瀬にまで聞こえているようだ。
「偶然、お知り合いに出くわしてしまって……」
『なるほど、新谷は適当な奴だったから適当にかわして逃げろ』
「はい」と返事して電話を切ると、意を決して断ろうとしたが
「うちめっちゃ寂しかったんよ。連絡ないのは酷いんよ。お茶ぐらいいいじゃん」とどうしても腕を離してくれないし、胸に腕が挟まっている。
 クズだと加瀬は連呼するが、新谷のことをこれだけ心配する人もいるのだなと思うと少しだけ興味はあった。だが
「牛乳腐っちゃうから、また今度ね」
 そう、牛乳を二本も買ってしまっているのだ。外ならいざ知らず、暖かいカフェに入ったらあたたかーい牛乳ができあがってしまう。
 するとテルちゃんはしょげた様子で「そっかぁ、牛乳あるなら仕方ないね」と素直に腕を離してくれた。
「でもぉ、メッセは返事してよなぁ。マジだぞ」
「わかった」
「あと、リイチくん大事にしなよ。ほんとは大好きってうちは知ってんかんね」
 じゃあねとテルちゃんは去っていく。
 彼女の後ろ姿を見送りながら、私はテルちゃんの言葉を反芻していた。
 ほんとは大好き。
 そういえば、新谷はどんな人で、どんなふうに加瀬のことを想っていたのだろう。加瀬からは新谷のクズエピソードしか語られていないが、テルちゃんには加瀬の前とは違う姿を見せている気がする。いくら顔がいいからと、あんな素敵な女性が数ヶ月も連絡を無視していた男に怒りもせず話しかけるだろうか。少し拗ねていたようではあるが。
 私は、新谷亨のことを知りたいと思った。

 自宅に帰ってから買ったものを整理すると、新谷の長財布を取り出しテーブルにカードを並べた。男性の財布は薄いと噂を聞いていたが、新谷はカード類に溢れていてパンパンだ。運転免許証の新谷は今の私と変わらない髪型をしている。更新日は来年。ゴールド免許のため、三年前に切り替えたということになる。
 国民保険証は加瀬が支払っているらしくちゃんと所持している。というより、新谷にかかる費用はすべて加瀬持ちだ。つまりジムの会費も加瀬持ちだ。
 あとは美容院、飲食店のポイントカード、古本屋の会員カード、あとは店名だけではなんの業種なのかわからないカードばかりだ。
 古本屋の会員カードはよく使われている形跡がある。漫画でも買っていたのだろうかと思っていたが、この家に漫画は一つもなかった。あるのは、文学作品ばかり。てっきり加瀬が読んでいると思っていたが、見ている限り加瀬が読書をしている気配がない。そうなると、ベッドサイドチェストに積み上がっていた本は新谷のものかもしれない。
 そうだ、スマホ。知人たちとやり取りしているメッセはプライバシーの侵害になるだろうと見ないでいたが、今日会ったテルちゃんからなにかメッセが来ているかもしれない。
『ひさびさに亨と話せて安心したよ(顔文字)マジで次は遊びに行くかんね!』
 早い、もうメッセが来ている。「また今度ね」と返信すると、かわいい猫のスタンプが送られてきて微笑む。テルちゃんはきっと良い子だ。
 心配していたり、返信がないことに怒っていたり、いろいろな人からメッセが届いていた。新谷の返信を見ると、マメに返していたらしい。それなら、数週間も返信がなければ心配する人も多そうだ。
 男女関係なくたくさんの人の名前が並ぶ中「メモ」というトークルームがあった。タイトル通りメモ代わりにしていたのだろうか。試しに開いてみると、予想通り予定が書かれていた。たまに「リーちゃんのばーかばーか」のような独り言が予定の隙間に潜んでいた。
「リーちゃんが帰ってこない。怒ったんか」
「なんでポリ公なんかになったんだよ」
「帰ってこいよ」
「俺を早く捨ててくれ」
 私はスマホを閉じた。これはだめだ。見てはいけない。いや、見てよかった。
 新谷は加瀬のことが好きだった。金銭的な目的も少なからずあったかもしれない。しかし、なかなか帰ってこない加瀬を待ちわびるほど寂しい想いをするほど、好きだったのだ。
「そうか」
 ああ、と頭を抱えて座り込んだ。
「そうかぁ」


 夕飯の用意も終わり、風呂釜を洗っていると玄関から慌ただしく帰ってきた加瀬が風呂場に直行してきた。
「大丈夫か」
「大丈夫ですよ」
 コートも脱がず、手には車のキーを持ったままの加瀬をとりあえず脱衣所に移動させた。
「いや、あー、うん、すまん。その……」
 頭を掻きながら歯切れの悪い言葉とも言えぬ呻きに近い声を発する。「どうしました?」と促すと、加瀬は私を抱きしめた。
「元に戻ってるのかと、思った」
 どうやら加瀬は、テルちゃんの声に気づき、私が新谷に戻っていると思ったらしい。それは、喜ばしいことではないのだろうか。
「元に戻ってはいけないのですか」
「それは……」
「元の私は女です」
「知っている。気づいていた」
「加瀬さんは、元の私ならそのような感情を持たなかったと思います」
 加瀬は身を離すと、目を見開き私を見据えた。
「それは否定、できない」
 彼が好きなのは新谷であって私ではない。彼が望んだのは、自分を愛してくれる新谷なのだ。
「私はしばらくここを離れようと思います」
「待て、お前はどうなんだ。トオル、お前の気持ちをまだ聞いていない。いくら罪悪感があるからと、好きでもない男に抱かれたりできんのか」
「私はできます」
 その返答に、加瀬は口を開けたまま固まった。
「私はずっと、そういう生活をしてきましたから」
 拒否すればもっと酷いことになることを恐れて、私はいつも身体を差し出していた。快楽などとは程遠く、いつも行為を遠くから見つめているだけだった。あの時に比べたら、加瀬と過ごした時間は幸せという言葉以外に表現のしようがない。
 たとえ、加瀬が私ではなく新谷を見ていたとしても、朝は出かける前に必ずハグしてくれることや、買い物に出かけて新谷に似合う服を話し合ったり、うまいうまいとご飯を食べてくれ、優しく求めてくれたことの全てが幸せだった。
 死ぬ前に神様が見せてくれた夢かもしれない、とも思っていた。
 しかし、どんなに幸せを感じ、加瀬のことを好きになろうとも、これは他人の人生なのだ。
「私はここを離れないといけないんです」
「だったら」
 加瀬は私の両肩を鷲掴みにした。
「なんで泣いてんだ」
「そんなこと、わかってるんやろ。加瀬さんなら、わかってるんやろ」
 思わず声を荒げてしまい、私は「すみません」と謝った。だが、加瀬は何を思ったのか、声を上げて笑い出した。
「ようやくお前が出てきたな。なるほどな、関西圏だったか。そりゃ探しても見つからないわけだ」
 しまった……、と思わず口元を押さえるがもう遅い。彼は警察官という立場を利用して私を探すのだろう。
「なあ、飯は?」
「あり、ます」
「じゃあ、飯食ったらさ、ちょっと話そうぜ」
 私が頷くと、加瀬は「その前に充電したい」と言うのでハグをしてキスをした。
「やっぱり俺のこと好きだと思うんだけどなぁ、どうなんだよ」
「……ご想像におまかせします」
「素直に見せかけて頑固だよなあお前は。イケメン頑固妖怪って呼ぶぞ」
 それは悪口なのか褒められているのか。
 加瀬はポケットから出したハンカチで私の顔を拭うと、もう一度キスをしてから「お詫びに皿洗いは俺がします」と言った。

 


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