不揃いなマトリョーシカたち⑤「雨の日」


 遠く、雨の音がした。部屋はまだ薄暗い。冷え込んだ窓から冷たい空気が流れてきた。時間を確認すると午前5時。妙な時間に目が覚めてしまったと寝直そうとする。この家に来てから最初の数日は不眠が続いたが、それ以降は普通に眠れている。
 一ヶ月、殴られることも罵倒されることも人格否定されることもなく、ただ平凡に過ごしてきた。以前は、勇気を振り絞って知人に相談しても「みんな同じだよ」と言われ、みんな恋人と同棲したらこんなものなのか、と納得していた。こんなに辛い思いをするのは自分が弱いからで、みんなはそれでも我慢して日々笑って過ごしているのだと思う絶望した。いつしか笑えなくなり、「笑え」と殴られ、泣きながら笑うと「泣くな」と殴られた。それが普通の世の中ならもういらないと、川から身を投げた。
 加瀬は優しい。殴らないのは新谷の顔が好きなせいもあるだろう。となると、殴られていた私の顔は愛されていなかったことになる。それでも、私を手放さなかった理由を考えると、愛情というより執着だったのだろう。
 私は寝る前になると、なぜ新谷の身体に入ってしまったのか考えるようになった。加瀬は私が新谷の身体に入ったことを怒るどころか喜んでいるように見えた。それでも、新谷のことを話すときの加瀬は好きなアイドルを語っているようで嬉しそうだ。
 この身体を借りている罪悪感から、少しでも加瀬の役に立つことをして怒られないようにしようと家事を頑張っていたが、それで良かったのだろうか。もしかすると、私の行いは正しくなかったのではないか。
 私は寝息を立てる加瀬の顔を覗き込んだ。初めは、鋭い目つきが恐ろしくもあったが、私に見せる顔は柔らかくなり刑事ということを忘れてしまいそうになる。私、そう、あの微笑みは私に向けられている。新谷ではなく?
 そう、私が加瀬の生活圏に侵入しすぎたせいで、私の存在が大きくなっている。せっかく個人情報を与えずに、元の身体に戻ったときに忘れてほしくて大人しくしていたつもりだった。やはり、もっと距離を置くべきだった。
 身体が厚い。何だろうか。加瀬の寝息が近くに感じるほどに、芯が火照ってくる。
 私は怒られたくないから、あれだけ家事を頑張ったのだろうか。
 以前の私なら、そうだと言える。だが、今の私は、加瀬の喜ぶ顔が見たくて頑張っている。
 そう気付いた瞬間、身体中の血液が下半身へ向かうのを感じた。ジリジリとそこに熱が集まり、今にも欲情を放ちたくて固くなっていた。
 勝手に勃つ、とは聞いていたが言い訳だと思っていた。本当に、自分の意志とは関係なく反応するものなのだと感心しながらも、どうすればいいのかわからずに布団の中で身悶えした。しかし、この一ヶ月なにも反応がなかったのに、なぜ今になって。脚も完治し、身体が元気になったせいだろうか。
「どうした」
 加瀬の声に、私は身体を震わせた。
「いえ、ちょっと……」
 歯切れの悪い返事に、加瀬は敏感に異変に察知し身を起こした。
「どうした、具合でも悪いのか」
 これはどう説明したらいいのだろう。勝手に勃ってしまった、と言う説明で通じるのだろうか。
「あの、誤解しないと約束してしてくれますか」
「内容を言ってもらわないと約束できん」
 正論ではある、が、説明した後に、誤解されてしまうと大変困ってしまう。私が、加瀬で興奮したと。
「大丈夫、です。トイレに行きます」
 そう言い上体を起こしたところで、加瀬は私を背後から捕まえた。
「トイレに行くぐらいで、そんなこと言わねぇだろ」
  加瀬の体温がシャツ越しに伝わり、耳元に吐息がかかる。引き離さないように力が込められたせいで、腰に回された手に固くなったそれが触れた。
 流石に、加瀬はそれで気がついたようだった。
 それでも、加瀬は離そうとはしない。
「今まで、この身体で抜いたことあんのか?」
「ない、です。今日が初めてで……」
「そうか」
 加瀬は「俺はこの身体のこと良く知っている」と言い、下着の中に手を滑り込ませてきた。大きな手に、熱くなったものが掴まれる。
「あの……」
「いやかもしれんが、抜いとかねぇと眠れねぇぞ」
 掌がゆっくりと上下に動き出した。
 感じた事のない快楽が押し寄せ、思わず口から声が漏れてしまう。
 すぐに水に濡れた音が室内に響く。
 身体がどんどん汗ばみ、呼吸も速度を早めていく。
「か、せ、さん」
 加瀬の首元に顔を埋めると、彼の喉仏が蠢いた。
「加瀬、さん」
「痛いか?」
 少しだけ手の動きが緩やかになった。
 顔を上げると、欲情に満ちた目で射抜かれる。
「この身体、気持ちが、いい……」

 加瀬の瞳孔が開いた。
 大きく喉仏が動く。
 口を一文字に強く締めたかと思えば、刹那、唇に食らいついてきた。
「すまん」
 あの時と同じように、震える声で懺悔する。
 新谷の顔と身体を愛してやまない彼が、この一ヶ月ずっと我慢していたことが不思議だった。新谷の身体なのに、私が身勝手に拒否をすることは許されないと思い、加瀬には伝えてきたはずだ。それでも手を出さなかったのは、彼なりの誠意だったのかもしれない。
「いいんです」
 この身体は私のものではない、だからいいんです。
 その言葉のもう少し奥深くに、自分の感情が見え隠れする。
 必死に隠したい感情。
 彼が抱きたいのは新谷であって、私ではない。
「すまない」
 彼の謝罪はそれが最後になった。
 

 いつもより遅れて起きたため、簡単にトーストとウィンナー、卵を焼いた。スープは時間がないためインスタントのコーンポタージュにする。
 鍋にお湯を温めていたところで「おはよう」と加瀬が起きてきた。目元に若干の疲労と自責の念を滲ませている理由は明白だった。
「身体、大丈夫なのか」
 加瀬は側に寄ってきて新谷の腰をいたわるように撫でた。
「この身体は大丈夫なようです。丁寧に触っていただけたせいでしょう」
「そうじゃなくてだな」
 加瀬の眉間にシワが寄り、首を横に振った。
「お前は、大丈夫だったのか」
「男性同士のセックスについてですか」
「そう、そうじゃないけど、とりあえずそっちから」
 今朝未明の行いを反芻してみるが、不快に感じたことはない。
 セックス自体は初めての経験ではないが、男性特有の射精は私の貧相な表現ではなんとも伝えることができない。数秒だけ考え、
「とても気持ちよかったです」と言った。
「無理してないか?」
「無理しているというのは、私が演技をしていたということですか」
「演技じゃないよなぁ。演技じゃないと信じたい」
「演技じゃありません」
「そうか、そうかぁ」
 加瀬は安堵したように息を吐いてからハグをした。
 長いハグが続いたので、手探りでガスの火を消す。その間、加瀬は「ありがとう、感謝してる」と言い額にキスをした。
「そういや、シャワーは浴びたのか?」
「浴びていません」
「え、そうなのか。じゃあ、中の処理は……」
「……すみません、していません」
 いつもより寝坊したためにシャワーを浴びる時間がなかった。やはり、少し無理していても浴びておけばよかっただろうか。
 加瀬は目元を押さえて「うーん」と唸った。
「お仕事に行かれたら、すぐに浴びます……」
「そうじゃないんだよなぁ」
 仕事前に興奮してどうすんだ、と身を離すと、唸りながら加瀬はトースターにパンを放り込んだ。
「気にすんな、俺はいま、勝手に興奮してるだけだ」
「そうなんです?」
「好きな男がエプロン姿で台所に立ちつつも、ケツに俺のザ……精液が入ってんだぞこれが冷静でいられるかってんだ」
 ガツガツとものすごい勢いでトーストとウィンナーを平らげていく加瀬を見守りながら、ちらりと時計を見た。まだ少し時間はある。
「しますか?」
 オレンジジュースをがぶ飲みした加瀬は「は?」と、こちらを見た。
「今朝理解したんです。そのままでは辛いことなんだと」
 私は新谷の胸に手を置いて目を閉じる。
「あのままでは全く眠れませんでしたし、なにより脳内が射精したいという欲望でいっぱいになり他には何も考えられなくなりました。あれは危険です」
「お、おう」
「安全に運転するためにも、スッキリしたほうがいいです」
 加瀬はなぜか天を仰ぐと、「じゃあ」と立ち上がり、新谷の手を取った。
「壁に手をついて」
 スウェットを下着ごと下ろされ、臀部の割れ目を加瀬の熱いものがねじ込まれる。
 加瀬へ言った言葉は、半分は本音だが半分は自分のためだった。
 興奮する加瀬を見ながら、おさまっていたはずの私の熱も再発してしまったのだ。
 ああ、だめだな。
 とてもだめだ。
 一度人生を諦めたはずなのに、性懲りもなく好きになってしまうか。
 

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