不揃いなマトリョーシカたち④「デート」


 ダブルベッドの上で煙草を吸っている全裸の新谷と、同じく全裸の女を俺は冷めた目で見ていた。同棲して二年、もう何度目だろうか。
「あれ、今日泊まりじゃなかったけ」
 新谷はとぼけたように言うと、女が甘えたように新谷に絡みついた。
「あの人がリイチくん?」
 ねっとりとした茹でた餅みたいな声で女は言った。
「そうそう、あ、あいつゲイだから、テルちゃんの裸見ても興奮しないよ」
 女は「そうなんだぁ」と語尾を伸ばす話し方をし、ベッドから出るとブラジャーをつけ始めた。
 浮気現場を見ても、もはや怒りという感情が湧いてこない。むしろ、勝手にアウティングされてしまったことへの恐怖心で心臓が鈍器で殴られてように痛んだ。これまで親ですら隠し続けていたことを、こいつはいとも簡単にバラしてしまう。いまだに体育会系のノリが強い職場に漏れてしまったら、どんな扱いをされるのか想像しただけで吐き気がした。
「じゃあねえ、亨。あとリイチくんも」
 女はこちらにもウィンクを投げてから部屋を出ていった。新谷は煙草を缶コーヒーで揉み消し、ガウンを羽織る。ガウンの隙間から覗く白い肉体は、女と情事をした後の火照りと湿り気を浮立たせていた。
「俺、リーちゃんと違って女の子好きだからさ」
「知ってる」
 だったら、とっととこの家から出ていけばいい。お前なら、金持っている女の立派なヒモになれんだろ。そう言いかけたところで、唇を塞がれた。甘ったるい煙草の残り香。遠慮なく舌が絡みついて味わおうとする。
「でも、俺を抱けるのはリーちゃんだけ」
 黒目の大きな目がくりくりしていて可愛い。存在感のある眉と、筋の通った大きめの鼻。それらと絶妙なバランスをとった薄い唇。きめ細かな肌、何もかも信じてしまいそうになる声。
 俺を絡め取り逃さない悪魔のような男。金も純情も奪い、決して愛だけはくれない男。
 ならせめてと、その肉体を自分の好きなように弄ぶ。女の香りが残る愛する男の肉体を貪ることで、新谷を手放さない口実にするのだった。


 目覚ましと共に目が覚める。嫌な夢を見た。普通、好きな男が夢に出てきたら喜ぶところだろうが、あいつとはいい思い出がないため全て悪夢になってしまう。寝起きの煙草を吸おうとしたところで、香ばしいバターの香りに釣られてキッチンに行くと、すでにテーブルにはオムレツと具沢山のスープが盛り付けられていた。
 俺に気がついたエプロン姿のトオルが「おはようございます」と振り返る。痛み切った金髪を黒に戻しさっぱりと切った髪、グレーのオーバーサイズのニット、黒のスキニーパンツ。いまだに表情筋は糊で固めたように動かないが、それでも俺好みの見た目になって天を仰いだ。最高だ。
「本日は洋食にしました。食パンの焼き加減はいかがしますか」
 まさか食パンの焼き加減まで聞かれるとは思っておらず「ミディアムで」と反射的に答えてしまった。ミディアムな焼き加減のトーストが出てきた。
 エプロンを外し捲っていた袖を元に戻す。萌え袖だ。俺は再び天を仰いだ。
 俺の分のトーストにバターをつけようとするので、「自分でやります」とトーストを返してもらった。
 新谷がいなくなり、トオルがやってきて一週間が経った。ギプスからサポーターに変わったことでトオルもだいぶ動きやすくなったようだ。買い物はできるだけネットスーパーを使うようにと言っていたが、気晴らしに外出もしたいだろうと思い強くはお勧めしなかった。そこは俺の考えを汲んだのか、バランスよく使いこなしているようだ。
 新谷の高級スーツなどは半分以上はフリマアプリで売れた。売れた服を発送するときも、センス良くラッピングし、わざわざ手書きの礼状までつけているため、評価も高く信用が増えていき、出した商品はとにかく売れた。
 仕事から帰って来れば、部屋は掃除されて綺麗、洗濯物はふかふか、飯はうまい、要求する前にコーヒーが出てくるし、買い物したレシートの管理も完璧で我が家の家計簿ができ上がりつつある。おそらく、カードローンの残額を少しでも減らそうとしてくれているのかもしれない。とにかく家事が完璧だった。
 ただ、気を遣いすぎなところは気になる。刑事の俺ですら脱帽するほど、他人の顔を良く読む。俺が何も言わなくても、疲れている時はマッサージをしてくれ、仕事でイラついた時はそっとしておいてくれた。元から、無駄口がほぼないこともあるが。
 完璧な嫁、最高の家政士、そんな印象を受けた。だが、トオル自身の意思で動いていると言うよりも、まるで軍隊の中で扱かれて身体に染み付いた癖のようにも感じる。俺もかつては警察学校で似たような経験をしたからわかる。
「すみません、今日はお休みでしたか」
 ぼんやりとトオルが食べている姿を見ていたせいで、一瞬何の質問なのか分からなかった。昨日当直から帰ってきて、今日は公休日だ。しばらくは当直を免れていたが、一昨日から復活した。
「ああ、当直から帰ってきた日が非番、非番は自宅待機。そして今日がちゃんとしたお休み」
 そう説明すると「なるほど」とトオルは頷いた。
「俺のデスクに電話が置いてあって、その電話の赤いランプが光ったらしばらく帰れなくなる」
「そうなのですか?」
「警視庁から事件があったという連絡なんだよ。捜査本部なんて設置された数週間は泊まりこみだ」
 そんな時に限って、新谷はうちに女を連れ込んでいた。
「大変ですね」
「まあな。でも、うちは比較的新しい地区でな。富裕層の住むタワマンが乱立するところだから、殺人事件メインのうちの係はあまり出番がない。むしろ窃盗やひったくりの応援に行くことが多いしな」
「ドラマみたいなイメージでした」
「俺も最初はドラマに憧れて刑事になったが、蓋を開けたら地味な書類作成ばかりだよ。所詮は公務員だからな」
 トオルは俺の仕事の愚痴にも神妙になって聞いてくれる。相槌のタイミングも的確で、思わずスルスルと愚痴が出てきそうになる。案外、刑事に向いてるのかもしれない。
「そういえば、脚の具合はどうだ」
「かなり治ってきているそうです。松葉杖がなくとも歩けますが、一応外ではちゃんと使用しています」
「なるほどな。大きな施設なら、車椅子も借りれるしな」
 トオルが俺のセリフの真意がわからずに首を傾げる。可愛い。
「俺はさ、新谷にさんざん苦しめられたんだ」
「はい」
「だから、俺は新谷の身体を思う存分に好き勝手使ってやろうと誓った」
「はい」
「なので、今日は念願のデートをする」
「はい、どこへお出かけしますか」
 車で数分走らせたところに、大型ショッピングセンターがある。俺も新谷もそこへは良く行っていたが、一緒に行ったことはなかった。
「お前の服もまだ少ないし、買いまくってやろう」
「はい」
 抑揚のない返事が続く。あえて感情を押し殺そうとしているのは感じるが、いつか自然に笑っている顔も見たいと思ってしまった。
 と思っていると、それはすぐにやってきた。
「猫ちゃん」
 マンションのエントランスを出たところに住み着いている地域猫を見た瞬間、聞いたことのない声がトオルから漏れた。
「ああ、ここの住民が面倒見てるらしい」
「猫ちゃん、猫ちゃん」
 トオルは俺の声を聞いてるのか聞いていないのか、スーッと茶トラの猫に近づいて手を差し出した。茶トラは人懐こく、トオルの腕をすり抜けて脚に身体をぶつけた。
「猫ちゃん……」
 トオルに撫でくり撫でくりされて茶トラは幸せそうだ。そらそうだろう俺だって同じことされたら幸せだ猫好きのトオルに感謝しろ茶トラ。
 そして俺はその瞬間を逃さなかった。
 茶トラが「ナアァ」と鳴いた時、垂れ下がった前髪から覗くトオルの笑顔を見たのだ。
「なるほど、猫ちゃんか」
「すみません、猫を見るとつい我を忘れてしまい」
 慌てて立ち上がったトオルの足元で、茶トラはまだ身体を擦り付けている。
「今度、猫カフェに行くか」
 そう言うと、周りに花が咲いたようにトオルは頬を赤く染め、フワッと笑った。俺は茶トラに感謝した。

 ショッピングセンターの案内所で車椅子をレンタルし、メンズの服が売っている店を片っ端から回った。
「新谷はこういうの似合うと思うんだよな」
「はい、私もこれがいいと思います。これにはエナメル系のローファーが合うと思います」
「わかる、後で靴屋に行こうぜ」
 トオルは自分の気持を押し殺して俺の言うことを聞くことが多いが、新谷のコーデを話し合う時は自分の好みを言っている気がした。そしてその好みが俺のツボと近いため話が盛り上がり、気がつけば車椅子の取っ手にたくさんのショッパーがぶら下がっていた。
 昼飯はタイレストランでグリーンカレーを食べ、地下の食料品売場で一週間分の買い物をしてから三時過ぎには帰宅した。エントランス前でトオルは猫たちにおやつを与えているうちに、俺は荷物を自室に運んだ。手伝わなかったことに対してトオルは頭を直角に下げて謝ってきたが、猫たちと触れ合っている時に見せる笑顔でプライスレスだ。
 同じ顔なのに、新谷とは違う笑顔。色気はかなり減ったが、元から愛嬌のある顔のせいで庇護欲が増してしまう可愛い笑顔だ。そうか、中身が違うと表情筋の使い方まで変わるのだ。
 当初は本当に記憶がなく、別人格に変わってしまったのだと思っていた。だが、新谷が知るはずのない知識、そして笑顔。なにより、新谷は根っからの動物嫌いだ。猫なんて視界に入っただけで「おえ」と吐くふりをするぐらいの動物嫌いだ。
 それに、トオルは何かを隠している気配がする。
 本当は、元の記憶があるのではないか。
 そう感じることもあったが、俺は深く追求することを躊躇っていた。
 俺はとてもずるい人間だ。
 この生活を逃したくない。
 今、とても幸せを感じている。
 トオルを知るたびに、罪悪感と混乱に侵されながらも、自分勝手な欲望に負けてしまう。

――こいつの中身さえ変われば

 そう願ったのは何回だ?

 俺は、新谷の何を愛していたのだろう。

 上昇するエレベーターの中で、俺はトオルを抱きしめていた。



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