不揃いなマトリョーシカたち②「家」

 退院の手続きをしている加瀬を待っている間に、病室内に忘れ物がないか確認していた。冷蔵庫、引き出し、クローゼット、指差し確認をし、声にも出す。それらも終わり、ベッドに座ってぼんやりしているところに加瀬が戻ってきた。

「服、キツくないか」

 そう言われると、シャツとスラックスが少しだけサイズが小さい気がした。

「亨の服、派手なものばかりだからよ。俺の服なんだそれ」

「大丈夫です。動けます」

 松葉杖を操作して立ち上がり着替えの入ったバッグを肩にかけようとすると、加瀬が横からバッグをもぎとっていった。

「ありがとう、ございます」

「作業療法士に教えてもらったのか」

 質問の意図がわからず首をかしげると、「松葉杖の使い方がうまい」と付け加えた。

「教えてもらいました」

 加瀬は納得したのか、扉を開けて私が出るまで待っていた。

 たしかに、作業療法士には教えてもらったが、すでに経験者だったのですぐに雑談タイムに入ったことは黙っていた。

「エントランス前に車停めてるから」

「はい」

 エレベーターの中で、加瀬が亨よりも少しだけ背が小さいことに気がついた。眼鏡をかけているおかげで、加瀬の無表情がよく見える。意志の強い切れ長の瞳は、黙っていると睨みつけているようにも見えた。

 あれから、加瀬は私と距離を取るようになった。肉体は愛する人のものなのに、中身が違うことへの戸惑いも隠せずうまく距離感がつかめないのか会話もぎこちない。

 エントランス前に停車していた黒のセダンの荷台にバッグと松葉杖を収納した加瀬は私を助手席に押し込むと自分は運転席にまわった。すぐにエンジンをかけ、慣れたハンドルさばきで車を走らせる。

 ルームミラーには、やはり無表情な加瀬と、頭の包帯が外れて金髪が目立つの新谷亨の顔が映っていた。派手な服を着ていた、と言われても違和感のない髪型だ。反対に、加瀬は真っ黒でコシのある髪質だった。髪の毛一本一本に意思が持っているように。そして、いつも目立たない地味なスーツを着込んでいる。

 所轄の刑事だという加瀬は、登庁前に新谷亨の見舞いに来ていたためにいつもスーツばかりだったのだが、普段着もあまり変わらないらしい。退院時の服は、「これしかない」と言って白いシャツと黒のスラックスを私に渡した。

 ルームミラーで新谷亨の顔を眺めてみる。なかなかにいい男である。そっと耳たぶを触ってみるが、ピアスの形跡がなかった。派手なコーデが好きというから、てっきり開けているとばかり思っていたが。

 自宅であるマンションに到着すると、加瀬は大きく息を吐いてから車を出た。ぶっきらぼうにドアを閉めて荷台からバッグと松葉杖を取り出す。エレベーターに乗っているときも、肌がちくちくと刺さるような空気が充満していた。

 怒っている。

 苛立っている。

 そう空気が告げてくる。

 手にじわりと汗が滲んだ。動悸が高鳴り息が苦しい。

 八階で降り、部屋の扉を開けた加瀬に私は頭を下げてから中に入った。玄関は靴箱に入り切らない靴で溢れ、廊下は衣服が散らばっている。

「散らかってるけど、というか見ればわかるか」

 また、加瀬からため息が漏れ、私の心臓が痛んだ。

 見知らぬ人間だが、部屋に入れざるを得ない状況に誰だって苛立つだろう。ましてや、恋人の身体を人質にとられているようなものだ。私を外へ放り出しておくこともできない。

 怒られる、殴られる、怒られる。

 世間から隔離されたこの部屋で、誰にも知られることなく。

「あのさ」

 声に振り返ると、加瀬から腕が伸びてきた。咄嗟に「ごめんなさい!」と身構える。

 数秒の沈黙のあと、加瀬は「電気をつけるだけだから」と言って、壁のスイッチを押した。

「すみません」

 私が謝ると、加瀬から苛立ちが消え、代わりに明らかな戸惑いが表れた。しばらく考え込むと、加瀬はゆっくりと手を伸ばす。

「なあ、聞いてくれ」

 私はゆっくりと頷いた。

「俺は警官だ。警官は何もしていない一般人に暴力を奮ったりはしない。だから、絶対にお前を殴ったりはしない」

 私は再び、ゆっくりと頷いた。加瀬の言葉の真偽はわからないが、頷くしかないのだ。

「とはいっても、身体に染み付いた恐怖は拭えないわな。まあ、一応、俺はその身体の第二の持ち主のようなもんだし、一緒に住むしかない。そういちいち怯えられると俺もまいっちまうから、少しずつでいいから慣れてほしい」

「はい、この身体、大事にします」

 私の返答がまずかったのか、加瀬は一瞬困ったように言葉が詰まり「そうじゃない」と言った。

「大事にしてくれんのは、ありがてぇけど」

 加瀬は頭を掻いて、「そこは便所、そこが風呂」と部屋を雑に案内していった。トイレ、洗面台、と扉を開くたびに雑然とした散らかりが見えた。

「服はクローゼットの中のモン、勝手に使っていいんだが、たぶん、亨の服は着れたもんじゃねえけど」

 寝室のクローゼットを開けてみると、ヒョウ柄のシャツや真っ白なスーツのような派手な服が並んでいた。

「これは、着たほうがいいのでしょうか」

「いや、俺は好みじゃない。できれば着ないでほしい。……着たいか?」

 正直、私も好みではない。むしろ、新谷亨には、もっとシンプルな服でも十分に似合いそうだ。

「しばらく、加瀬さんの服を借りてもいいでしょうか」

「そうしてくれるとありがたい。サイズは……、スウェットなら合うはずだ。あとは通販なりで買ってくれ」

 つーはん、と私が呟くと、「亨は俺のクレカで勝手に服を買うんだ。スマホに通販のアプリがあるから、勝手に買っていい」

 私が頷くと、加瀬は時計を見て慌てたように「キッチンもベッドも好きに使っていい」と言い「すまんが仕事に戻らないといけねぇ。夜には戻ると思う」と慌ただしく出ていった。

 静かになった部屋に取り残され、改めて辺を見回す。嗅ぎ慣れない匂いに、嫌でも他人の部屋なのだと実感し、自分の身体も他人のものなのだと現実を突きつけられた。いつもと視線の高さも違う、声も違う、全く知らない他人の世界にいる。

 とはいっても、私は新谷亨の肉体と生活を守らなければならない。あれだけ死にたがっていた気持ちも、今はこの人を死なせてはいけないという強い生への力に溢れていた。そのせいか、右脚にまだギプスが固定されていることも考えずに床に落ちていた服を拾い始めた。

 キッチンとダイニング、寝室の服をまずは拾って色物と白物を分けてドラム式の洗濯機に放り込んだ。使い方はスマホで調べる。スマホも入院中に加瀬や看護師から教えてもらった。

 加瀬とは入院中に数回程度会っただけだが、加瀬と新谷の持ち物がわかる。例えば、服はわかりやすい。派手なもの、地味なもの。木製チェストの上に並んだ香水は新谷のもの。ベッドのヘッドボードには二人のスマホのケーブル、積み上がった本は加瀬だろう。散らばったものを整頓し、掃除機で床のゴミを吸った。そろそろ昼になり、4ドアの冷蔵庫を開けて食料品を確認した。が、そこにはびっしりと缶ビールが並び、隙間にカニカマが詰め込まれているだけだった。冷凍庫にはチョコレートのアイスクリーム。野菜室には開封された米が袋ごと収納されていた。

 米があるということは炊飯器もあるはず、という読みは当たり、冷蔵庫横のスチールラックに三合炊きの炊飯器、その隣に大量のレトルトカレーがあった。他に調理器具は電子レンジ、雪平鍋が一つ、フライパンが一つ、包丁とまな板はあるが、ほぼ使用した形跡がない。つまみを切るときぐらいしか使っていないのだろう。

 キッチンもカップ麺の残骸で溢れ、水垢やカビがステンレスにこびりついている。擦り落としたいが、スポンジすら黒ずんでいた。キッチンの引き出しを漁ってみるが、新しいスポンジが見当たらない。ゴミは片付けたが、このキッチンをこのまま使用するには気が引けた。

 しばし逡巡し、退院時に渡された新谷の所持品から財布を見つけ出し残額を確認した。五千円札が一枚、小銭が少し。クレジットカードが三枚もあったが、どれも名義が加瀬になっていた。他には運転免許証、健康保険証、美容院のカード、あとはよくわからない会員証がたくさん。

 さきほど掃除したときに見つけた大きなリュックを取り出して背負うと、松葉杖を抱えて玄関を出た。近所のスーパーはすでにスマホで検索済みだ。スマホって便利だ。


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