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【死語の世界】第一話 『強情っぱり』

死語にはおおよそ2種類あって、ほんとにその現象や考え方や心性などが消滅してしまったものと、なにかの言葉(より簡単で広い意味を持つもの)に取って代わった場合とがある。「ヤンエグ」は「セレブ」に食われた。たとえば。

私が復活をめざしてやまない「強情っぱり」は往々にして「わがまま」で語られている。意地っぱりと頑固は強情っぱりにとても近いが、「わがまま」はちがうものだろう。強情っぱりを知らない、あるいは知っていても使えない人は「それ」を「わがまま」で認識して(一生を)終える。

言葉が死ぬとき、そこに空洞ができるのではなく他の大雑把な言葉がそれを乗っ取る。得手勝手、分からず屋、強情っぱりなどは使われなくなって、そこには「わがまま」がでんと居座る。

「彼女はほら、強情っぱりだからさー」というのと、「彼女がわがままなもんだからさー」というのとでは結ぶイメージが全然ちがう。それを聞かされて、するべきアドバイスだってちがってくる(しないけど)。

こういうだれでも知ってる、だれでも使える大きい言葉が、繊細でユニークなものの見方をなぎ倒してしまう。素直も頑固も意固地も得手勝手も自己チューも天上天下唯我独尊もぜんぶ「それ、わがまま」で片付けちゃうボキャブラリーの人と、それぞれを使い分けられる人と、話していておもしろいのはどちらだろうか。なんでもかんでも「かわいい」で片付けちゃう人と、愛らしい、愛くるしい、あどけない、いじらしい、いたいけだ、とか形容できる人とだったら、どっちと一緒にいたいか。

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昨今、本屋に入ってすぐの平置きはたいがいこんな本が並んでいるが、みんな、そんなにも会話ができないのだろうか。自分は会話に問題があると思うのだろうか。この世の生きづらさ、仕事上の芳しくない結果は自分のそれに起因すると、あらためて勉強しなくてはならないと、考えるのだろうか。(話し方と聞き方で18割になってしまうと友人が指摘していたが、別の友人が話半分だからちょうど9割ではと言っていた。笑)

自分には何かが足りないと思うことはわるいことではないが、さて学ぼうとするときにこの手の本を手に取るのはいかにもセンスがない。言葉はハウツーでは学べないと、そもそものところで知らずに来てしまったということなのだろうが、学ぶなら文学から学ぶ方が良い。一択であると言ってもいい。新潮文庫でもハヤカワミステリでも良い、詩でも俳句でも良い、なんでもいいからイメージを持つものに触れることだ。

もう一択あるとすれば、死語からの学び。これはきっと効率がいい。死語は、単に死んだのではなく、殺されたものが多い。殺した奴は、大きくて簡単な言葉。こいつをとっ捕まえて、相対化してやる。と、たくさんの言葉が蘇生する。それはついこの間まで生きていたのだから、イメージがしやすい。親や、爺さん婆さんの時代を思い浮かべればいいのだから。

言葉は生身の人間から吸収するに限る。そうやって知った言葉か、本から学んだ言葉か、その人の使いようでだいたいわかる。弾力性や躍動感がまったくちがう。

SNSという場は活字ではあってもべシャリ(会話)に近く、生身の人間のいる空間とみていい。だから、ここにもっと年寄りを引き込みたい。私程度ではまだ甘い。じじいばばあに、ここで語れ、言い残せと。強情っぱりってのはどんななんだか見せてくれと。まあ、まさにその世代は強情だから、ネットにはなかなか入ってもらえないかもしれないし、いたらいたで大変面倒だろうけれども、強情っぱりを直に見られるのは願ってもない機会と思う。人はたくさん生きるとこうなるのかと。わがままは何がしかの対処の対象だが、強情っぱりは愛せるものだときっと知るだろう。だって、自分もやがてそうなるんだからね。


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