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終戦の日に


(Facebookから転載しています)

この歳になってだいぶおとなしくしているつもりでも、友達というものは増えるもので、この一年に新しく面識を得たり、時には知遇とも言えるものを得られたと感謝したい人もおられ、そんな友達みんなへ送るポスト。
毎年、この日に投稿しています。

タモリはいまを評して新しい戦前といい、マスコミはウクライナの次は東亜だと喧しい。
かの戦争に一つだけいいことがあったとすれば、自分のため(だけ)にしでかしたというところだろう。かの為政者たちは本望だったろう。
これから起こるかもしれないことは代理で行われる戦争。米帝の急先鋒として国土と命を賭けさせられる。

バカらしい。

今更にいうけれども、あべさんほど嫌いな首相もいなかった。大嫌いだった。だけど、ここでも一つだけ評価したいことはある。うちの河野太郎と組んで中国とも握りに行き、米中を両天秤にかけていたこと。これは評価できる。報道は極力抑えられていたからあまり知られていないようだけど、間違いなくそれは実行されていた。
そんなことしたから暗殺された?
まさか。そんな陰謀論は休み休み言ってくれ。
大国を相対化して手玉に取る、なんて芸当はできっこない?
平和ボケ日本人には無理ゲー?

日頃、我々は優秀な民族と言ってるではないか。保守の物腰でものいうならちゃんと一貫してくれ。
できるよ、その気になれば。国民がそれを支持すれば。

たとえば極論の3択だとする。
このまま米帝のポチであり続け彼の国のために(国民が)命を賭ける、これが一つ。どの大国をも相対化して手玉に取る(もちろん議員は命がけ)、これが二つ目。三つ目は中国と組む。

さてさて。どれにしようか天神様のいう通り、なのなのな。

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終戦の日にはこれ(罫線以下)を再掲することにしています。

3年前だったか(注:2023年から見たら7年前)、友達の友達なのか、知らない中国人の女性からちょっとした批判を受けました。いわく、あなたたちは加害者であって、被害者の立場からものをいってほしくないと。

井上ひさしの短編『握手』にこんなシーンがあります。中学の教科書に長く掲載されていたのでおぼえている人も多いでしょう。孤児院育ちの「私」がそこの先生であるルロイ修道士と再会するくだり。

 ◆◆◆

「日本人は先生に対して、ずいぶんひどいことをしましたね。交換船の中止にしても国際法無視ですし、木づちで指をたたきつぶすに至っては、もうなんて言っていいか。申しわけありません」
ルロイ修道士はナイフを皿の上に置いてから、右のひとさし指をぴんと立てた。指の先は天井を指してぶるぶる細かく震えている。
また思い出した。ルロイ修道士は、「こら」とか、「よく聞きなさい」とか言う代わりに、右のひとさし指をぴんと立てるのが癖だった。
「総理大臣のようなことを言ってはいけませんよ。だいたい、日本人を代表してものを言ったりするのは傲慢です。それに、日本人とかカナダ人とかアメリカ人といったようなものがあると信じてはなりません。一人一人の人間がいる、それだけのことですから」

 ◆◆◆

この短編を当時二十代後半で塾の講師をしていた私は、塾生に教えました。だから、よく覚えているのですが、このルロイ修道士の考え方に強く影響を受けたのは、教えている私のほうだったかもしれない。中国人女性の批判コメントを読んでいて、そんなことを思い出しました。

「一人一人の人間がいる。それだけのこと」

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終戦の日、毎年これを伝え続けようとおもいます。

私の地元、平塚はノルマンディーになるところだった。平塚空襲で落とされた焼夷弾数は人口割合でいうと日本一多かった。火薬工廠があったからだとされ、私の祖父母たちは死ぬまでそう信じていた。やがて私の両親となる、当時まだ小学生の男女も、そう解釈したまま生きてきたはずである。

昭和20年には平塚の兵器工場はどこでも芋しか作っておらず、米軍がそれを知らないわけはない。実際、工場に火の手はあがらなかった。爆撃目標は住宅地のど真ん中、焼夷弾は逃げ惑う人を追ってくるかのように降り注いだという。
父の手記によれば、みな逃げながら兵器工場のほうを見やり、暗闇のままだったことを不思議に思ったらしい。これはいったいなぜか?なんのためか?なぜ市民を狙うのか?

それがわかったのはつい最近である。日本政府が降伏しなかった場合、平塚から上陸進攻する作戦で、それをスムーズに行うために上陸地の平塚市民を皆殺しにする計画だったからというのが解である。
沖縄での苦戦の轍を踏むなというわけである。女子中学生が竹槍を持って向かってくるような国だから、地上戦は手こずる。最初に全員殺しておけと。

昭和20年のあの日、日本が降伏していなかったら、私の両親となる二人は助からず、私はこの世に生をうけることはなかった。だって爆撃だけでは不十分だとして、サリンを撒く計画まであったのだから。

衝撃的なことはもう一つ。平塚市民全員が戦後、今の今に至るまで「火薬工廠があったから空襲にあったと<思いこまされていた>」という事実である。これはそう仕向けられたことだった。

知らずに死んでいった人たちに、私は自分が死んだら土産話に持っていかねばならないと思っている。ほかにいろいろ話すことはあっても、これがいの一番である。

「おばあちゃん、ちがったよ。あの空襲は火薬工廠があったからじゃないよ」


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