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俳句夜話(2)芭蕉に見る、俳句は「なんてな」

クリスマス運ありという易者かな

これは2011年の作。自分としてはけっこううまくできたとおもっているのだけど、これを恋人たちが二人で易者に見てもらっているととる人がいて、ちょっと戸惑った。今もひじょうに幸福で、さらに前途までも洋洋な恋人たちのクリスマス。これではちっともおもしろくない。
易者に見てもらってるのは一人でであり、そこで「運あり!」と言われてもなあ、今日が勝負だったんだけどなあ、ま、いいっか。滑稽なる私。ある種の自虐。これがこの句の意味したい(笑ってもらいたい)ところである。

俳句は俳諧連歌からスピンアウトしたものだ。俳諧の俳は俳優の俳で、役者という意味の以前には神様の前でおどけて踊ったりする者たちを指す言葉だった。諧は諧謔の諧。諧謔は気の利いた冗談、ウィット、機智、道化などの意味であり、諧は調和を取るといった意味をなす。
近代以降、しゃっちょこばって芸術だといきがったり、必要以上に鄙びてみせたり、写生だ、そのままがいいのだ、と変に技術的になってみたりする俳人が大量に出てきて、潮流は今でもそっちに振れっぱなしだが、そもそもそういう態度は俳諧的なのだろうか。また、幸福な恋人たち、家族といったものがそのまま詠まれるようにもなったが、明るくて幸福なことも本来俳句にはならないような気がする。そんなことをわざわざ詠むはずがなかったとおもうのだ。

芝居がかってる、という表現は、作ってるっぽい、おおげさだ、わざとらしい、これみよがしだ、といった意味をなし、マイナスで使われるのだが、私は意味はそのままでいいけれども、それでいておもしろい、滑稽で愛らしいという意味を付け足したくなる。「こだわり」がいい意味に転じたように、「芝居がかってる」もそうしたい。なぜなら俳句は、この言葉のイメージがとても近いとおもうからだ。
芭蕉のあまりにも有名な、

夏草や兵どもが夢のあと

などは、むやみに立派で芝居がかりすぎだ。おいおいマジかといいたくなる。
でも、素晴らしい。この種の言い方を完全に封じ込んで、何かを見て歴史を想うことはできなくなった。いや想うのは勝手だが、そう詠むことは許されなくなった。それくらいのインパクトを持っている。同様に、蝉の声が岩に染みるのも、蛙が古池に飛び込む音がしたってのも、もう詠めない。

私は生まれつきの天邪鬼だから、ものごとをいちいち逆さからかんがえるのだが、詩の価値は似た表現をどれだけ排除するか、その排他性、排除力に見ることができるのではないか。排他的文学水域(?)をどれだけ広げられるか。だれだかがそれを言ってた、だからもうダメだよ、言ってもしようがないよ。俳句は短い分、音階に匹敵するくらいのハードさでステロタイプを攻撃する。

俳諧は、どんなに大真面目にしていても、どこかに「なんてな」という距離感を持っていたとおもうのだが、その局所的で内輪的、自虐や照れのニュアンスは外れてしまって、字面だけで伝播してしまう。もろに著作になり作品になり、下手すると著作権なんぞにもなり、似た言い方の排除に力が入る。が、私はそれはちがうとおもうのだ。詩の全般についてはわからないが、俳句に限っては「なんてな」のほうが価値だとおもうのだ。少々似ていたっていいし、本歌取りだって言えばいいし、パロディでもオマージュでも良い。詠まないより、とにかく詠んだほうが良い。
私が俳句や連歌を、嗜みだからみんなおやりなさいよというのは、この「なんてな」でいいとおもうから。
なんてな。

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