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【死語の世界】 第十三話 『ペンは剣よりも強し』


言わない。見ない。今となっては信じてもらえないかもしれないが、私が若いころは始終見かけたものだった。メディアが自らの鼓舞のために言っていたのだろうし、読むほうもそれを信じていた。

いま、ペン側のていたらくではなくて、まあそれもあるかもしれないけど、どちらかというと剣がステルスになったことが大きいように思う。いったいぜんたいだれ(のチーム)が最高権力を持ってるんだかまるで見えない。言論を揮ってもちっともだれかに当たった気がしない。政権党が持ってるようで持ってない。じゃあ官僚かというと各省拮抗していてどこかの省が決定的に権力を持っているわけではない。多党的な支配という説明も正しくないし、フィクサーももしいるならもうちょっとマシな日本になってるはずだと思わせる。ほんとうにわかりづらい日本の権力構造の前に、ペンもまた力を失ったのだろう。

そしてもうひとつ。webの登場である。文字数だけとれば、ネット以前のもしや数万数十万倍の文字量が流通しているにちがいない。戦うか戦わないかの意志によらず、それらの膨大な言論は権力的ではない。あくまで市民的なものだといっていいはずだ。そして、発信してる人間はそんなに自分のことを弱いともおもっていないはずだ。なにせ、少なくない読者が必ずいて、彼らの存在を実感できるから、下手な新聞記者などよりよほど自信を持っているし、ソーシャルの近況程度でもわりと強気でいるものだ。

ではなぜこの言葉を確認しないか。確認して戦ってもいいだろうに、なぜそうしないか。それはおそらく、ネット上にある言論は活字ではなくておしゃべりだからにちがいない。その意味で「ペン」ではないとおもっているからだと推測する。「おしゃべり(コミュニケーション)は剣よりも強し」ではどうにも座りがわるいし、なによりペン=主張のニュアンスより、「なんてこともなくはないカンジがするんだけど、どうなんだろ、ちょっとよくわかんないかも」という語法を文末に持ってきて反応をうかがって、表層的にでも修正はいつでも辞さないという態度で臨む。どっちかの強弱を決めたり、是非を問うたりはしないという方法を確立してあくまで「しゃべって」いるのだ。

おそらく数年もしないうちに、剣側も見た目こういう態度に変わりそうである。仰せ(民意)のとおりに行政しましょうか、という政治哲学を持たない、方向性を示さないでも権力を保持するやり方。責任を決定的にとらない営業話法。ペンも剣もみんな「くっちゃべって終わり」になり、議論したようでいて論点を失わせる。あるいは論点を著しく増やす。増やして複雑にしてとうていまとまらないとあきらめさせる。そして政局だけが残り、それに長けたものが居座る。かつての民主党は綱領を持たない出たとこ勝負の政党だったし、これでは言論の挑みようがない。

「ペンは剣よりも強し」はまだ脳死レベルだが、早晩化石になるだろう。しかし、それは逆説的で皮肉でさえあるが、真の市民社会の到来を予期させる。おもしろい世の中だ。

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