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【死語の世界】第六話 「末は博士か大臣か」

その昔、といっても私が子供の時分のことだ。親戚のおじさんや近所のじいさんは、できのいい子をつかまえては「末は博士か大臣かっていうからな、しっかりやれぃ」といったものだった。
これはおべっか(これも死語だ)としては使わない。成績のいい子にしかいわない。さらに、これは経験の範囲だが、勉強ばっかりする、それしか取り柄のない青白いガリ勉にいうことはなかったようにおもう。頭がよくてかつ活動的な子、ひとことでいうと利発(そう)な子だけにいう言葉だったようにおもう。


しかしなぜ、こんな言い方なのだろうかと現代っ子はおもうにちがいない。博士はわかるけど、政治やってる人ってみんなバカみたいな人ばっかりだよと。それは私の子供のころからそうだから、そう思うのも無理はないが、ちょっとだけちがうとすれば、昔の政治家はなにをやるにしても確信的だった。赤塚不二夫の傑作的発明「これでいいのだ」を地でいっていたし、口に出さなくても顔には書いてあった。ある意味、すべての大人がそうであった。
いい時代だったんでしょうといえばそれまでだが、それは結果論的なことだ。平民から見ればただのインフレでしかなかった時代に、政治家は汚れ役をあえて買い、国民をどこぞへかに導く歴とした大人であった。
いまの時代に欠けているのはこの大人だ。大人たちの確信だ。いずれ先に去るのだから、何事も自信を持って断言してみせ、古いといわれようと、終わってると揶揄されようと、言い放って悪びれない、それでちょうどいいではないかとおもったりするんだが、(表面上)フレキシブルなシニアが多い。(小泉さんと安倍さんには良くも悪く確信性がありました。だから人気だったんでしょう。私は好きじゃなかったけれど)


できる子に対し、お前さんは人より恵まれて頭がいいんだから、人様のお役に立つんだぞ。これが「末は博士か大臣か」の意味であるが、その裏にはいつでも引き継ごうとする潔さと同時にまだまだ負けねーよという矜持がある。
おれは博士でも大臣でもねーけどな、お前はなれる。この無責任さ、この時代との一体感がこの言葉の真髄であり、この言葉が失われていったのは個人の選択自由が台頭したからではなくて、まさしく「時代との一体感があることによる無責任」が喪失したからであろう。

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