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【死語の世界】 第十四話 『そらみたことか』


これを言われて育ったといって過言でない。
ちょっと丁寧な家系だと「それみたことか」になり、「言わんこっちゃない」なども同じ意味合いで使われる。

けっこうな昔、野田秀樹に『空、見た子とか』っていう彼にしては珍しい長編小説があって、読みかけにしてしまったけどタイトルにはしびれた記憶がある。

この言葉をよくかんがえてみると、それをやったらダメよと口酸っぱく言われているのにやっちゃう、やっちゃって痛い目に遭う、痛い目に遭った上に怒られ罵られる、という構造になっていることがわかる。

二度とやるなよ。
やりません。

誓ってから1ヶ月もしないうちに、またやる。こんな普遍的な、男の子にとっては勲章のような言葉があまり見かけられなくなっているのはどういうことだろうか。

つまり、近ごろの子はそれをやったらダメよといわれたら、やらないのだなきっと。ちゃんとパパやママや先人のいうことをきいてものすごく賢いかわり、そのストーブの煙突につながるパイプ部分がどれくらい熱いか、どの高さから飛び降りると足首を捻挫するのか、女子にその言葉を浴びせるとどうなるのか、自転車で暴走するとどうなるのか、大人をからかうとどうなるのか、知らないってことだ。

大人は先に回り込んであれやこれやいうものだ。これはこれで仕方がない。子供がそこで、やっちゃいけないといわれたけど、他のやつはうまくいかなくても自分だけはうまくいくのではないか、などとかんがえてついやってしまうのにはやはり意味があるのだ。遠回りで愚かなことのようでいて、実感を得るというのは結局はものを知る近道だ。百聞は一火傷、一殴打に如かず、なのだ。字余りだが。


いい加減の歳まで生きて一度も「そらみたことか」を言われていないなら、立派な生き方をしていると言うことだろう。あの人は信用ならないよ、近づくんじゃないよ、と忠告を受けて、ちゃんと近づかないでいられる。まさに、君子のように。
人に騙されていなければ、それは幸運であり、幸運に感謝すべきであり、これからもそうであってほしいと願えばよろしいとおもう。きっとそうは一生いくまいなどと意地悪は言わない。
しかし、騙され話はおもしろい。アブナイやつに近づいて、やっぱり痛い目にあった。これは面白い。本人もきっと面白そうだと思いやったのだろうし、周りも高みの見物をして面白がれる。
万事、慎重で手堅い道を行くなんて、おかしくもなんともない。はっきりいってつまらない。つまらん奴だと言われるくらいなら、そらみたことかの方が良い。

おそらく若者たちは、私を頭のおかしな人と見なすにちがいない。まあ、そういわれること自体にはなんの苦痛もないのだけど、我々の世代はつまらん奴と言われないために、ヘタをすると命をかけた。やっちゃいけないことをやった。それくらいに、つまらん奴といわれるのはいやなのだ。おそらく死んだのは言葉だけではなくて、この心性ごとだろう。

人に何おもわれても気にしないっす。これが現代の若者の在り方なのだろう。ここでこんなことをいってもなにも通じなくて、私はまた「そらみたことか」と同輩や先輩にいわれるのであろう。

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