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回想録① ー口からでまかせの胡乱中学3年生と、その数学ワークー

。今日ないしは昨日、僕は酔っ払っており、正常な判断ができていない。そういうわけで、以下の胡乱な文章を綴って、公表することを決意してしまったのである。それ以外の意図はないことを、以下の文章を読む変人には是非勘案してもらいたい、と私は期待している。この後の「回想録」は私の解釈にすぎない。



 先日、中学3年生の時に使っていた数学のワークが無くなっていることに気がついた。ここ最近、自宅では家具の配置換えをしている。その最中で散逸したのだろう。物に執着のある私は、事情に詳しい母親に在処を尋ねた。妹の寝台の下にしまった段ボールの中に、私の中高時代の書類を一部しまったらしい。早速、家に誰もいない頃合を見計らって作業に取り掛かった。時計は午後2時を指している。手早くベッドを解体し、中にある段ボールを二つ取り出す。意気揚々と中身を確かめてみると、母親の言う通り、定期試験の問題、解答用紙、教科書、日記など思い出の品が目に飛び込んできた。しかし、探せど探せど、肝心のワークが出てこない。2、3回段ボールをひっくり返して確かめたが、結果は変わらない。観念してベッドを元通りに組み立て直し、部屋を後にした。あてが外れてがっかりしたが、諦めきれない。今度は家中の棚を調べ上げて、ワークがささっていないか確かめてみる。徒労に終わった。もう4時になっている。疲れ果てた私は、自室のゲーミングチェアに座って、一休みした。

 たかが数学のワークを失くしたくらいで必死になって探す必要はない。それでも私がワークにこだわるのは、ただのワークではなく思い出の一品だったから、ということに尽きる、と椅子に座りながら思う。私は、なんの変哲もないワークが、思い出の鍵となっていく経緯を辿っていくことにした。

  私は地元の公立中学校に在籍していた。背丈は伸び悩んだが、学年1位をとった回数が一番多いくらいには、そこそこ勉強ができる生徒だった。卓球部に所属していて、最低限の文武両道をこなしていた記憶がある。勉強に対しては生真面目な人間だったので、3年生になる頃には、高校受験の範囲の学習は大体終わらせていた。どの授業も新鮮味に欠けてみえて退屈だった。その3年生の時に、数学の授業を担当していたのが、学年副主任のK先生だ。やや痩身で、黒縁の眼鏡をかけている点では、数学の先生というレッテル通り。ただ、ソフトテニス部の顧問をしているためか、年中日焼けをしていて、白地に青のストライプという、得体の知れないジャージを毎日着ていた。事務仕事や学生指導もそつなくこなしている印象で、30代後半で既に学年を取り仕切っている存在だった。生徒からの人望も厚く、広く支持されていたと思う。今では教頭を務めているらしい。順調な出世ぶりである。定めし将来の校長なのだろう。別にK先生と仲が良かったわけではないし、印象に残るような話もない。(注1)しかし、なんとなく立派な人だと思っていたから、それなりにK先生の評価を求めていた節はある。とはいえ、いかんせん数学の授業も淡白だったから、前述の通り中学範囲の予習が済んでいる私は、授業内の課題などは早々に終わらせ、3次関数や4次関数のグラフを増減表を用いて描いたり、世界史の勉強をしたりなど、怒られない程度に好きな勉強をしていた。バレバレだったに違いないが、見過ごされていたようである。

 そのK先生は、毎回の定期試験前に数学のワークの提出を求めていた。毎回の範囲は30~40ページほどで一見多くみえるが、計算問題や、ごく簡単な文章題しかないので、その気になれば数時間で終わってしまう。私は、この程度の問題では間違えないという自信があったので、途中式は書かず、立式と解答とを殴り書きし、答えもろくに確認せず全てを水色のペンで「丸付け」して提出していた。バツはつけなかった。別に数学は数学は得意科目ではない。舐めた態度だし、知的に不誠実である。K先生も高慢な中学生に呆れていたことだろう。とはいえ、毎回一番上の評価を貰ってワークは返却された(と思う)。定期試験の結果は、当時の成績表を見ると、90点代後半ばかりで100点は取れていないらしい。当然である。(注2)当然この時のワークには、思い出のカケラもない。

  淡々と日々を過ごし、受験が近づく日々。3学期になった。私も、高校受験に向けてそれなりの熱量をかけて勉強をしていた。さて、私の中学校では、3年生学年末試験がなかった。誰かの親が、受験の妨げになると苦情を入れたらしい。もっともな理由であるが、最後の学年末試験では1位を取ろうと意気込んでいた私にとっては、残念なことだった。試験は流れてしまった。とはいえ、数学のワークは提出する必要がある。K先生は、動機付けのために、提出締め切り以前に提出した生徒には「コメント」をつけて返却すると言った。人参を吊るされた馬よろしく、私もせっせとワークを「丸付け」して提出した。K先生からの高評価を期待していた一方で、不安にも襲われていた。授業態度は必ずしも模範的ではなく、学年でリーダーシップを取る役職には一つも推薦されなかった私である。先生の間での評価は芳しくはないだろうから。ワークが返却された日、事前提出してコメントが付されたワークを貰った生徒は、そのメッセージを自慢げに周りに見せていた。列を挟んで隣の席のYさんは「努力家」であることを褒められて嬉しがっていたのが印象に残っている。私のワークが返される時が来た。教卓の前で、K先生は「お疲れ様でした」と私に声をかけた。席に戻り、さて、何が書かれたかなと裏表紙を開けたページをめくってみる。うろ覚えだが、こんなことが書かれていた。

 「1年間おつかれさまでした。本当に賢いです。絶対に先生なんかよりすごくなると思います。それくらい優秀だし、答えを導く力も、別解を見つける発想力も素晴らしいです。これから先の内容はもっと面白いです、絶対ハマります。(注3)行くところまで行ってほしいです。応援しています。」

 K先生に激賞された。ここまで人に褒められると、なんだかむず痒くなってしまう。同級生の話し声でざわめいている教室の片隅で、私は静かに喜びを噛み締めた。勉強に打ち込む人生を肯定された気がして、なんとなく嬉しかった。帰宅すると、机の一番上の引き出しに大事にしまっておいて、いつでも見られるようにしておいた。それ以来、学業に自信がなくなったときに見返して、自分を鼓舞することにしていた。高校での勉強、浪人期の単調な日々・・・。私に色彩を与えてくれる、自分の出発点として、錨として・・・。ワークの至る所にある汚い文字に苦笑しながらも、これさえ見れば、また前向きに勉強を始められる。こうしてこのワークは思い出となった。

 さて、その数学のワークを紛失してしまった。考えてみると、中学生の頃から、部屋もレイアウトも変わってしまっている。当時を鮮明に思い出せるよすがはもう手元にはない。ぼんやりと、傾く太陽を眺めている。下ろしていたはずの錨が消えてしまった。中学生の頃の自分と断絶している気がする。でもそれは、本当なのだろうか。物というものは、いずれ消えて無くなるものだ。どんなものであっても、いつかは手元から離れる。そして、失くした思い出の品は、基本的には手元には戻ってこない。けれども、それによって過去の自分と今の自分が断絶するわけではない。むしろ、その二つが合わさる気がする。というのも、紛失したことで、その思い出を忘れまいと、留めておく意識が強く働くからだ。その際、忘れかけている断片的な思い出を現在から見るために、昔は解釈される。往々にして、解釈された昔は頭にこびりつく。そうなると、過去の自分は今に取り込まれて一体化する。今の私と過去のわたしとを結ぶ思い出の品は、もはや不要となり、過去と現在の仲介者は、解雇される。数学のワークも同じだ。中学生当時の私と今を結びつける者としての役割を終えて、離れていったに違いない。きっとそうだ。中学生の思い出は、逡巡の果てに、頭から離れなくなった。過去の意味づけは、終わった。

 こんなふうに考えてみると、にわかに元気が出てきた。数学のワークを失くしたことはむしろ良いことのように思えてきた。気づくと時刻は5時近くになっている。そろそろ誰かしら家族が帰ってくるだろう。それまでに一度、外に出て散歩をしよう。すぐに自宅のマンションを飛び出て、あてもなく住宅街の方へと歩き出した。中学校に行く道とは、真逆の方向だったことを覚えている。

 (注1)強いて記憶に残っている会話を一つ挙げる。公立高校受験で第一志望に落ちて学校に報告しにいった際、「なんで〇〇さんがここにいるのさ」と笑いながら話しかけてくれた。私も「なんでなんですかねえ」と返事をした。笑ってくれて助かった。

 (注2)数学に不誠実だった私は、受験本番に数学で失敗することになる。公立高校受験は、前代未聞の点数を叩き出して不合格となり、某私立高校に通うことになった。

 (注3)当時は、医者になるとか、理系の学問を修めるだとか息巻いていたから、K先生は理系の学問の楽しさを綴ってくれた。なお、高校生になって早々に世界史に熱中した私は、文系に舵を切ることになる。


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