・先ほど、奥さんは実家に行くために出発していった。義弟の嫁が、夫が残したものを手放す算段をしていることが発覚して以来、「いやだ―、あの人と同じ空気を吸いたくないー」と言うようになった。いやなら行かなきゃいいのに、と思うが、それよりもお義母さんへの心配が上回ってしまうのだ。しかしそのお義母さんにしても、いくら「同居しよう」と言っても聞く耳を持たず、「一度嫁に出した娘の世話になったら世間に笑われる」などと言われる始末だ。 ・お義母さんもそうは言いながら心細いときもあるようで、奥
・今日、実家に戻るはずだった奥さんは、悪天候(雨すごいですね)のため、明日出発することになった。せっかくの連休だし、無理していかなくてもいいんじゃないかと思ったが、お義母さんの生命保険関係の手続き(指定代理人の設定や保険金の受取人を、お母さんの認知能力があるうちにお義父さんから奥さんに変更するなどの)があり、どうしても行かなければならないようだ。帰宅するのは、来週の金曜日か土曜日になるようだ。 ・来週火曜日には息子の運動会もあるのだが、それは欠席していいのか聞いたら、「高校
・3月に義弟が亡くなった次の日、私の叔父が亡くなった話は以前に少し書いたと思う。叔父の葬儀は何とか済ませたが、父の実家の菩提寺が無住寺になっていて納骨に難儀したが、近くにあるお寺のご住職が近隣の無住になっていた六つのお寺の管理を引き受けていてくれて、ご住職のおかげで納骨、お彼岸の法要を済ますことができた。その後、位牌がようやく完成したので、お彼岸に合わせて開眼法要を済ませることができた。 ・開眼法要が終わり住職に挨拶した時、「ありがとうございました。これで一区切りつきました
・二人で話し込んだ翌朝、お義母さんは珍しく早起きしていた。私も年のせいかこの頃朝が早く、5時半ごろには目が覚めるんだが、この日はすでに台所からお義母さんが何やらしている音がしていた。毎週のように実家にっている奥さんからは、お義母さんはどんどん夜更かしをするようになっていて、それに伴って起床時間が遅くなっていると聞いていた。奥さん曰く「夜行性老人」。実の娘とはいえ酷いことを言うもんだ。毎朝稼働させている中華ルンバの音に起こされて、ようやく起床してくるらしい。 ・仕方ないので私
・「人間死んじゃったらだめだ…」。お義母さんの言葉に何と返したらいいかわからず、しばらく固まっていた。「この歳になって、他所からコメを買うとは思わなかった」。 義弟が昨年脳腫瘍で倒れて以来、彼がひとりで取り組んでいた農業はその作業はストップせざるを得なくなった。病に倒れるまで、義弟は1人でコメ、トマト、レタスを中心に取り組んでいた。我が家は彼の好意に甘え、コメはいつも30㎏の袋で玄米をいただいていた。彼が倒れて以来、コメをもらうどころではなく、農業をやっている奥さんの親族から
・食卓にようやく箸が準備出来たので、夕食を食べ始めることができた。思い起こすと、結婚する前から実家で幾度となく食事を摂ったが、いつも箸が出てくるのは最後だったなあ。業を煮やしたお義父さんが「箸を出してやれよ」と言ってくれることも何度かあったっけ。私や奥さんは「お客様」扱いなので、我々の箸は、家族が日常的に使う箸とは別の場所に保管しているので、お義母さんはどうしてもそれを失念するようだった。(息子が生まれてから解消されたが)今回も私がお義母さんの箸も食器棚から取り出した。 ・
・義弟のことを書きたいのだが、すっかりお義母さんのことになってしまった。心配なので仕方がないな。 ・ご飯が炊きあがり、おかずもビールもそろい、お義母さんが作っていた味噌汁も出来上がったので、さあ食べようと思っていたのだが、お義母さんの動きがたまったままだ。どうしたのかと思って聞いても黙っている。何度か尋ねたら、ようやく「箸…」と一言。何を探していたのか忘れていたらしい。「最近こんなことが多くてすっかり怠けてしまって…」と言うので、「そんなことないですよ。僕らがいるときはすぐ
・昨日、奥さんの実家から帰ってきた。一昨日、叔父さんの法事の後、そのまま車で奥さんの実家に向かった。自宅で仕事があり日中動けなかった奥さんとは、実家で待ち合わせることにしていた。群馬から奥さんの実家への移動は北関東道ができたおかげで非常にスムーズ。以前なら4時間以上かかっていた道のりだったが、2時間半ほどで実家最寄りのインターチェンジに到着した。位置的に実家を通り越した場所まで行ってしまうのが残念だが。 ・途中で何度か奥さんに連絡を入れたが「まだ家にいる」という返事。実家に
・今年の3月に、義弟と相次いで亡くなった叔父さんのことは前にも少し書いた。父の実家の菩提寺が無住寺になっていて、納骨を済ませるのも難儀したが、従妹の一人が熱心に動いてくれて何とか納骨することができた。 ・今日は叔父さんの彼岸法要を執り行う予定で、もうしばらくしたらお寺に向け出発する。実家の菩提寺ではなく、実家近辺で無住になってしまったお寺に代わって法要などを担当してくれているお寺である。ここからの距離は実家の菩提寺より近く、往復で2時間程度短縮できるのはありがたい。 ・初
・義弟の四十九日の後、奥さんは今までより頻繁に実家に帰るようになった。週末、木曜日頃に車で実家に行き週末はお義母さんの生活をサポートしつつ、実家の片付けを行う。週明けは電車で実家から東京の職場に何日か出勤し(たまに夜遅く自宅に帰ってくることもある。連絡なしなので、夕食を食っている私と息子は驚かされる)、週末には車でこちらに帰宅し、ぐったりしている。 ・返ってくるとお義母さんの愚痴をこぼす。お義母さんは義弟が亡くなって以来、急激に老いが進み、今まで出来ていたことがどんどんできな
・㉔で義弟の四十九日のことを少し書いた。また義弟の嫁から親族挨拶を頼まれて、行きがかり上引き受けた。義弟のことで少し話したいこともあったし、一人で実家に残されたお義母さんをよろしくと、みなさんに伝えたかったのだ。 ・実家近くの墓所で法要を行い、その後近くのレストランを会場に直会を行った。参加者は義弟の親族、義弟の嫁の親族、合わせて20名ほど。会場は近くの国道沿いの日本食中心のファミリーレストラン。墓所から移動したときは開店まで少し時間があったので、それぞれの親族は駐車場で固ま
・昨日夜、気が進まなかったが弟と喧嘩をすることになった原因を奥さんに聞いた。やはりコロナからの入院が長引くことになったお義父さんをどのように介護するかということの意見の違いだったことは間違いはなかったのだが、どちらかの意見だけが通って、ということではなかった。 ・お義父さんがICUから出てきたとき、早々と今の病院への入院を決めていた。決めたのは義弟だと聞いていたのだが、その後いろいろ情報を集めてみたら、実質的に決断を主導したのは義弟の嫁だったようだ。 ・前にも書いたが、私の妹
・義弟と、実家の世話になっていた私の奥さんと息子のことで言い争いがあった後、我々夫婦と義弟夫婦のコミュニケーションはほとんどなくなっていた。年末年始、GW、夏休みには必ず実家を訪れていたが、義弟も義弟の嫁も自分たちの家から出てくることもなく、たまに現れる子供たちを通じて義弟夫婦の様子を伺うぐらいだった。 ・年末年始に子供たちにお年玉を渡したり、うちの息子がもらったりということは続けていた。あちらは3人、我が家は1人、金額が同じだったら明らかに出超である。まあ、他にも従妹や従妹
・「何かあったのかな?」と心配になるほど、義弟の抗議は突然で執拗だった。そして次第にその矛先は自分の姉である私の奥さんに向いていった。彼女の病気はまだ完全に回復、という状況になっておらず、しかしこのままというわけにもいかず、今後の生活をどうしていくか、という話し合いを始めていたところだった。 ・義弟夫婦の子供ら3人も、義弟夫婦が仕事をしている昼間は実家の母屋で過ごしており、まだ就学前のうちの息子と同年齢の義弟夫婦の3番目の子供(娘)は、終日お義父さん、お義母さんが日がな一日面
・私が家内と結婚した時(26年前になるのか、いやはや)、義弟はまだ独身だったが、すでに家業の農業を立派に継いでいて、お義父さん、お義母さんに代わって一家の大黒柱だった。 ・私たちの結婚をとても喜んでくれて、結婚前から「兄貴、兄貴」と呼んでなついてくれて、一緒に実家のキッチンで一緒に酒をよく飲んだものだった。 ・数年後、彼は結婚し、結婚式に参列したらその場で急に乾杯の挨拶を頼まれてとても驚いたが、何とかやっつけた。以前から、「兄貴、乾杯やってよ」とは言われていたのだが、主賓は別
・義弟の告別式翌日は土曜日。息子は学校があったので、奥さんを残して私と息子は電車で一足先に帰宅した。あまり遅くなると翌日きついので、21時半ごろに自宅に到着できるように実家を出た。水戸線で小山までは順調だったのだが、宇都宮線に乗り換えたとたんにトラブル。 ・小山と隣の駅(東京側)との間の踏切で車が接触したとのことで処理(申し訳ない)終了まで発車できず。結局到着予定時刻の2130頃にようやく動き出す。湘南新宿ラインで新宿まではたどり着いたが、青梅線拝島まで行く電車に乗れるか、乗