花火は駐車場の縁石から見るぐらいがちょうどいい

前日、38.8℃まで上がった熱は37℃台に落ち着いていた。
本当なら、昨日は知り合いの上の屋根の上から花火を見るはずだった。
丈夫に生んでもらったお陰でめったに風邪一つ引かないのだけれど、どうしてこういうときに限って、と思う。

特に行きたくもない東京出張で、必ずと行っていいほど寝不足の日々が続く。さすがの私も、睡眠が不足すると免疫が落ちる。そういうときは病気になる。というか極端に寝ていないときにしか病気にならない。

そんなリーチがかかった状態で歩く東京は危険すぎる。
どこに行っても人しかいない。
まぁ何となく思うのは、帰りの夜行バスでもらったんだろうなっていう。
そう考えると、今度から移動を考えないといけないなとも思う。

二度目のCOVID-19に感染したのだけれど、2回とも東京でもらってるから笑えない。
私、なんのために移住してきたんだっけ。ここにさえいればだいぶ安全なのに。それが一番、腹立つ。

昨日は、花火の音を聞きながら、とにかく汗をかこうと布団にくるまり、39℃手前の熱でうなされながら順調に変な夢を断続的に見続けて夜が明けた。

今日は締切を過ぎてしまった楽曲のMIXをなんとか終わらせる程度には元気になっていたし、熱も咳も落ち着いたので、花火を見に行くことにする。

どこか花火の見える静かなところを探そうと思ったけれど。
どうやら外出は個人の判断ということに変わったようで、咳もしないので会場まで行くことにした。
あの頃のあれはなんだったんだろう、なんて思いながら。

会場の近くまで行くと、まだ少し早いのに夜空に光るものが。
どうやらドローンショーをやっているみたいだった。
特に感慨深いものはなかったけれど、空にLEDが浮かんでいるようにも見えて、いつか夜空にバーチャルライブを投影できる日が来るんだろうなと妄想する。

役目を終えてホタルみたいに七色に光るドローンが基地に帰っていき、地上に降りていく様子が一番胸を打たれた。きれい。

そのあと花火を見ていたのだけれど、「前の方座れよ!」って叫ぶくそおやじのせいですべてのモチベーションが削がれたので、帰ることにした。

これは立っていた私自身を棚に上げるわけじゃないけれど、私始め周りの立っている人たちが非難されるような状況ではなかったと思う。
そもそも、叫んだおやじを支持するようなルールも特にない。
っていうか、文句言うんなら有料席いけよ。

こういうイベントってコントロールできない事象を含めて受け入れないといけないと思うのだが、自分の思い通りにならんからって癇癪起こすなよ。
彼の中では正義でも、少なくともその声が聞こえた周囲数メートルの人たちの気分はデバフされるわけだし、本当に迷惑だと思う。
っていうか、叫んだ本人も結局気持ちよく見れないんだよな。
怒りって爆発させると、その後引きずるから。

おやじのせいもあるけど、単純に花火は楽しめなかった。
その理由もなんとなくわかった。

もう、一人じゃ楽しめないってことなんだよ。

花火は、革新が起こらない。
いつ見てもだいたい一緒である。
違うのはパターンと規模とシチュエーション。

最近思うのは、歳を重ねるごとに感動が少なくなっていくのは、すでに経験した部分を噛んでもだんだん味がしなくなってくるからなんだと思う。
起こりうることは予測できてしまうし、自分の感動も想像を超えなくなってくる。

だからこれは、やっぱり風景として、誰と楽しむかとか、どう今までと違う見方をするかとかになるんだと思う。

来年は屋根の上で見たいし、一緒に行ってくれる人も見つけたいし、見つからなかったら高い金払って船にでも乗ってやろう。

帰りにかき氷を買った。ブルーハワイ。
食べるの下手くそすぎてボロボロ落とした。
その駐車場で見上げる、半分以上建物に隠れて見える花火のほうが、よっぽどよかった。

隣で写真を取ってる浴衣の女子二人を眺めながら、私も淡い夏を感じた気分になって帰る。

電車に遅れそうと走るカップル、学生の後ろ姿を眺めながら、失った夏をぼんやり思う。
ほしいものも、叶えたいことも、もうそんなに残っていない。
初めて感染して入院した病院で問いかけた「今死んだら後悔するかな」の答えは、昨日問うても同じだった。

でも。
ちいさなやってみたいことはまだ残ってるから。
地図の白部分を埋めていくような感覚で、残りの人生を生きたいと思った。


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