早期退職制度に乗ってみた (1)決心前の状況

2016年6月某日夜。
私は東京の新橋にいた。

周りには1年間、一緒に同じテーマで論文をまとめた
様々な会社から参加した仲間が10名ほど顔を赤く目をトロンとさせていた。

「社外を知れたのは大きかった」
「やっぱり自社は歪んでるよな。
 ここに参加したお陰で何がどう歪んでるかが自分の中で形になった」

そんな思いを抱きながら楽しい時間を過ごしていた。

その翌月、研究を持帰り自社内で発表を行なった。

…が、誰一人ピンと来てなかったのは、
私のプレゼン能力が低かったからだけではないぞと思った。
また会社と自分の間の心理的距離が遠ざかるのを感じた。


この頃はまだ、早期退職を具体的には考えてなかった。
40代になり、自分が先頭に立って(立たされて)の仕事が増えた。

私の仕事は、親会社のIT全般を請負う会社で、一事業部の担当。
入社以来、立場や勤務地を変えて(顧客側の体制も変わる)ずっと勤めてきた。

しかし、10年前と比べて簡単に物事を進めることが徐々に困難になっていた。
言い換えると、同じ事をするのに手続きが複雑になりコストが何倍も掛かるようになっていた。
それはすなわち、顧客への自身のお役立ち度が減っているという事だ。

また、同年代は徐々に役職がつく者が増えていったが、
私はこの会社においては、役職になるメリットを見出せてなかった。
登用者面接は3度受けたが、上がらなかった結果に不満はない。
「面接でこう言う」を上に一切否定され、
分からない事を言わされてたからそりゃそうだろと思う。
但し、実績が一切考慮されないのは不満だった。

一方で、待遇と仕事内容には満足していた。
顧客に仕事面では信頼され、協力して課題を解決する。
自身がいつも意識する「好意を行為で贈り合う」関係になっていた。

「60歳で定年退職以降、再雇用の道もあるけど給料減ったらここにいる意味あるか?」
「少し前に辞めよう」
「大した事してないのに退職時に『〇〇感謝の夕べ』なんて開かれるのキツいし」

などと漠然と考えていた。

子供は専門学校に通い始め、まだ学費は要るものの未来に必要な学費は明確になっていた。

以上から、辞める辞めないのバランスはこの頃はまだ辞めない側に傾いていた。


話を冒頭の研究に戻す。

正式名は控えるが、「グローバル企業における業務システムとその運用のあり方」
のようなお題目だった。

OracleやSAPを導入検討する企業が増え、「業務をシステム・パッケージに合わせる」
が正しいかのような評論が世の圧倒的多数だった。
が、他社と差別化を図る領域ではそれではいけないのでは?
二層で考えるべき…、が要約だ。

これに照らし合わせると、自社は10年前から"やらかし"ていた。

・基幹システムと同じ環境に、事業部固有のシステムを集約しようとする
・二層の考えないままに、パッケージにアドオン機能を追加し原型ない状態
・事業部固有システム企画要員の漸減
・思想なき部門別予算管理の弊害=関係部署の予算状況で対応方法が変わる(これは元から)

上記に挙げた事を、永らく違和感を覚えていたが、
研究会に参画した事により、言語化して認識できるようになった。

自社の根深い所は、これらを関係者誰もが当たり前だと思ってる事。
異を唱える者が誰一人いない事。
「誰が決めたか知らない非効率な事」を何も言わず受け入れてしまう事。

私が参加させてもらった研究会にしても、会社からの指示だった。
にも関らず、何故研究のフィードバックを自社にとり入れようとしないのか。
甚だ疑問である。

しかし研究会に参加させてもらった事はとても感謝している。
個人的には得るものが大きかった。


以上のように、会社を早期退職する4年前にはまだ
行動を起こす動機はあるものの兆候は無かった。
この後何があったかを次回述べます。

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