「それは石か、岩か。」
昭和の政治家、成瀬吾郎は言った。
「それは石か、岩か。
石と呼ぶには大きすぎるが、岩と呼ぶには小さすぎる。」
石と岩の境界線は曖昧だ。
どこからが石で、どこからが岩なのか。
それを石という人がいて、それを岩だという人がいる。
曖昧な境界線は争いを生む。
石でも正解であり、岩でも正解なのである。
がしかし、
ある人にとっては石が正解であり岩が不正解、
またある人にとっては岩が正解であり石が不正解になりうる。
「ドッチダッテイイジャン」って思う人もいるが、この細かい認識のズレがのちに大きなズレを生じさせることになるとは・・・といったケースはよくあるのではないか。
共通認識を持つことは、社会で生きていくのにとても大切なわけですが、
簡単に共通認識などできっこない。
「あれ取って。」で「あれ」が分かるのは長年連れ添ったパートナーでやっとできる神業なのだ。
「大きい石取ってきて。」と言われたらどうする。
何センチ?何メートル?の大きさの石を想像した?
形は?重さは?
わたしは、両手でやっと持てるくらいの重さの、直径30-40センチ程度の、かつ表面がツルツルした、石を想像した。
表面がゴツゴツしていると途端に岩感がぷんぷんしてくる。
なんなら手で握れる程度の石も、ゴツゴツしたタイプの場合はちっちゃな岩と考えるなぁ。
わたしの石の定義をあなたは知っておく必要があり、
あなたの石の定義をわたしは知っておく必要がある。
知り合うことが大切。
ベストは数値化してしまうことなのだが(30センチ未満が石、30センチ以上が岩みたいな)、簡単に数値化できるわけでもない。
そろそろ「ドッチダッテ派」がウズウズしているであろう。
わかってる。
興味がないんでしょう??
それが石だろうが岩だろうが、興味がないんでしょう?
じゃあどうする。
「大きい石取ってきて。」って言われたらどうする。
なんも考えず、そこらへんに落ちている石の中で一番大きい石を拾ってくるんだろうな。そして怒られるんだろうな。「これじゃない。もっと大きい石だ。」って。そのあとまたダラダラうろついて、さっきより大きい石を見つけて持っていくんだろう。そしてまた怒られる。「これじゃない。もっと大きい石だ。」って。めんどくせーって思いながら、もっともっと大きい石を探して拾ってくるんだ。そしてまたまた怒られるんだろう。「違う。これは岩だ。」って。
「ドッチダッテ派」は基本的に当事者意識が薄いと考える。一歩後ろに下がって中立的雰囲気を香らせやがって。スカしてんじゃねー。なにが「ドッチダッテイイジャン」だ。なんも考えたくないだけだろ。なんも考えられないだけだろ。争いは起きるかもしれないがその先には解決がある。争いを避けた先に解決はない。妥協しかない。
「それは石か、岩か。
石と呼ぶには大きすぎるが、岩と呼ぶには小さすぎる。
ほぉ、それは夜光貝と言うのだね。」
以上。
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