百聞は一見に如かず

他人から何度聞いたところで、実際に自分の目で見る等体験して事実を知るという方法には及ばない。
なんてことわざがありますが。

百聞は一見に如かないなんて、一見ってすごいねー。
って話ならいいんだ。

ところがだ。
百聞は一見に如かないなんて、百聞ってしょぼいねー。
って話に寄り始めると待ってくれと言いたくなるんだ。

この違いは大事だと思っている。
後者の解釈は好みではない。

一見すごい派は、百聞を否定したわけではない。
百聞しょぼい派は、百聞を否定している。

どちらも一見がすごいことには変わりなく、
同じことを言っているように感じてしまう。

一見すごい派は、下調べをするが、
百聞しょぼい派は、下調べをしやしない。

百聞するのが面倒くさいから一見で済まそうとするんだ。
いやいいんだよ。一見で済ましてもさ。

ただわたしは、時間が許されるのなら、
百聞してから一見したい派だ。

いくら聞いても想像することしかできない。
実際に見てみないとわからない。確かに。
なんて贅沢な時間だと思いませんか。
百聞あっての一見とただの一見では、
感動が違うよ。
一見によって入ってくる情報量が違うよ。

まぁ一見してからの百聞は情報量がすごいのも確かだが。
何を一見するのかで好みが分かれそうだ。
よし、ピサロの絵画『果てを喰らうもの』でやってみよう。

まず誰?ってなって、どんな絵?ってなる。
「いや情報はいいよ見ればわかるっしょ!」
なんて言えないよー。
あぁこういうタイプの絵を描く画家なんだーとか、
へぇイギリスの18世紀頃かーとか、
黒を使ってないんだーとか、
情報が多い方がいいじゃない!

って本当に思いながら書いていたのだが、
それはわたしがヒヨってるだけか。
間違っている気がしてきた。
これではただの答え合わせでしかなく、
感動はないか。
というより、分かりきった感動しかないか。

いつからこんな失敗を恐れるようになってしまったんだか。
これでは新たな発見は生まれない。新たな自分に出会えない。

あれか。コスパのせいか。
コスパってやつが世の中に蔓延したせいだな。
透明の福袋になんの価値があるんだい。
不透明の福袋の中身をネットで調べてから買うんじゃねー。
1万円で買ったから、1万円以上のものが入っているかなじゃないんだよ。

情報が増えすぎて不幸にもなったのか。
口コミ見ないと新商品は買えないわ、旅行にも行けない。

当たりはずれって楽しみ方を忘れちまったよ。
はぁ、書きながら落ち込んできた。

終わり。

あ、ピサロって架空の画家を用意したつもりが、普通にいるっぽいです。
18世紀イギリスじゃなくて19世紀フランスらしいです。

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