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キング牧師 (7)

キング牧師  (7)

「教会内に新たな委員会を作った。  教会員達が社会、政治、経済問題に関して、知的で良い情報が得られるように、社会政治活動委員会を形成した。」

「NAACP の活動に僕が積極的に関わるようになった丁度その頃、アラバマ州の人間関係審議会の存在にも僕は注目した。」 

「この審議会は、アラバマ州における、人種間の人間関係改善をはかるために、どのような教育手法が最適であるかを話し合う会であった。」 

「一方では、調査研究を通して、また実際にどんな活動を起こすかなどで、どうすればアラバマ州の州民全ての教育の平等を達成できるかが討議された。」

「その審議会に数ヶ月関わっている内に、審議会の副会長に選出された。  今まで、その審議会委員の数は限られていたが、その審議会は大変重要な役割を担っていた。」 

「なぜなら、 その審議会がアラバマ州における唯一の白人と黒人からなる委員会であったからだ。」

「唯一、白人と黒人間の情報交換の場として、大変重要な役割を担っていた。」 

「多くの人々は、私がNAACP のメンバーでありながら、アラバマ州のその審議会にも参画している事を疑問視した。」

「人種間の差別を無くして、 白人と黒人の平等性を奨励するためには、NAACPの考え方の根本は、多くの黒人同様、法改正と裁判に訴える事でのみ実現可能であると考えていた。」

「それに対して、白人の多くは教育を通してのみ、人種の融合を達成することが出来ると考えていた。  それは、また、その審議会の大方の見方でもあった。」

「二つの異なった組織に同時に忠誠を誓う事がなぜ可能なのだと疑問を投げかける人々も多かった。 その二つの組織は、根本的に相反する考え方であるのになぜ両方に属するのかと疑問視したのだ。」

「ただ、この見方は、人種問題の解決方法はただ一つしか無いと言う狭い考え方に偏っていた。」  

「ところが、僕は反対に、両者のやり方が必要であると考えたのだ。  教育を通して我々は人の態度と物の見方、感情などを変えてゆく事が可能だと考えた。 一方、法律の改正や裁判を通して、人々の行動をある程度規制することも大切であると考えた。」 

「人種間の平等を達成するためには、一つの方法しか無いと言う考え方は狭すぎて、結果的に、本当の目的達成のためにより時間がかかってしまう恐れがある。」

「一年近くアラバマ州に住んでから、可愛い娘の誕生を祝った。  9ポンド11オンス(4,394グラム)の元気で大きな赤ちゃんだった。」

「しばらくして、バス不乗り運動が始まった。 アラバマ州モントゴメリーでの抗議運動が始まったのだ。」

1955年

「1955年12月1日、ローザ パーク夫人(アフリカ系アメリカ人)はバスの中で、運転手が、他の乗客のため席を譲り後ろに下がれと言ったが拒絶して、その座席を立たなかった。 パーク夫人はその時バスの前の席に座っていた。」

「もし、その時たまたま乗車した白人の男性客のため、運転手の指示に従えば、パーク夫人は席から立ち上がっていただろう。」

「でも、パーク夫人の性格らしく、静かで落ち着いて威厳のある態度で、席を立たなかった。」

「結果、パーク夫人は逮捕されてしまった。 パーク夫人の行動をすぐさま理解するのは難しいかもしれないが、人間の忍耐力には限度があり、「 もう、こんな不合理な事、我慢できないわ。」と言うパーク夫人の思考が、最終的に勝利を獲得する事になった。」

「NAACP や何らかの他の組織が、パーク夫人をそそのかして、あのような行動に出させた訳では無い。」

「パーク夫人は自分に対する尊厳、自尊心と信念から、自然と行動にでたのだ。」

その時代の雰囲気から、逮捕される可能性もありながら、社会の矛盾に対して自分の身の危険を冒しても、間違った規制である事を示したパーク夫人は勇敢な人だ。

例えば、ドイツのナチ時代、みんなが右手を高く上げるナチ風敬礼をしないで、一人だけ手を上げないでおくのは難しい。

ほとんどの人は、無難な方法として、心の奥では何と思おうと、ナチ風敬礼を皆んなと一緒にしたであろう。  生き残りたい本能からだ。

現代、どの社会にも、矛盾が皆無な筈はないが、心の中で感じていても、異議を唱える行動にでる事は難しい。

けれども、長年継続していた米国の人種差別問題に関しても、パーク夫人のような勇敢な人の行動が、他の人々の心を動かし、勇敢な団結のチャンスを形成したのだ。

参考文献 自伝 Martin Luther King, Jr.  
     編集者 Clayborne Carson


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