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父を想う (1996.7)

 「その車まてー」。父ははだしのまま飛び出して、車を追いかけた。私はあわてて「ちがう、ちがうよ」と父の背に向かって 叫んでいた。車は知らずに走り去った。 私が中学生の頃の出来事である。今でも右足の太もも外側に広くわずかに残る傷を見ると、当時の様子を思い出して、父の勘違いをおかしくそして嬉しく思う。

 それはある日のことだった。授業が終わり、鞄を手に運動場を横切って校門近くにさしかかった。友だちの声にふりかえった私は、後ろ向きのまま話しながら数歩後ずさりした。そして、蓋がされていなかった側溝に落ちてしまった。ザラザラした四角い側溝の縁でひざから上をひどく擦りむいた。保健室で男の体育の先生に手荒くヨードチンキをつけてもらい、ヒェーという程の痛みを味わった。

 友だちに両脇をかかえられピョコンピョコンと片足を庇いながら歩いて帰っていると、三輪トラックの見知らぬおじさんが、親切に家まで送ってくれて、家の前で私を降ろしてすぐ立ち去った。父はその車が私をはねたと思ったらしい。

 その頃父は昼間1人で家で仕事をしていた。私は時々昼休みに走って家に帰り父と食事を共にした。私が10才の時、母はぜんそくがひどくなり亡くなっていた。末っ子の私を含め子ども6人。だから多い時は8人で食卓を囲んでいた頃もあった。

 父は厳格でしつけのきびしい明治の父親だった。父に口ごたえするなど思ってもみない事だった。笑ってばかりいると「エヘラエヘラ笑うな!」 泣くと「いつまで泣くか!」と言って怒られた。ある夕食の折は箸の持ち方が悪いと注意をされ、私は泣きながら練習をし、次の日にはきれいに箸が持てるようになり嬉しかった。そんな父も、母が亡くなった後なぜか急に優しくなった。

 父は剣道具作りの職人だった。いつも家でこつこつと剣道の面やたれ、胴や甲手など作っていた。 夕食が終ってもまた夜中まで仕事をしていた。私たちは「お先に休みます」と挨拶をして床についた。

 剣道をせずして良い武道具は作れないとの考えで、若い頃より剣道を習い、研究しながら仕事をした。七段練士にまでなって、晩年は近所の小学校の生徒に教えていた。8年前に83才で突然亡くなったが、前日まで剣道をし、武道具を作っていた。剣道一筋の人生だった。忘れ雪の降る3月、父の通夜に大勢の生徒が家の外に列をつくって参りに来てくれた。

 父は子どもの頃より地元である熊本市の武道具店に奉公に出て、その後武道の都であった京都の「大和田」という武道具作りの名人に弟子入りした。「職人の技術はぬすんで覚える」という時代の苦労に耐えて技術を習得したようだ。父が亡くなった後、その頃の日記が出てきた。今では考えもつかない修行の日々だったことが読んでわかる。私はその日記を形見にもらった。いつも仕事で使っていた焼きゴテと作りかけの甲手、それにお正月のたびに着ていた羽織なども形見として持っている。

 修業を終えた昭和3年、父は熊本市に戻り繁華街に武道具店を構えた。写真で見ると当時としては割と恵まれた生活をしていたようで、この頃の兄たちはいつもおぼっちゃまのごとく写っている。やがて戦争が始まると熊本の街は焼かれ父の店も無くなってしまった。さらに終戦後はGHQから武道一切禁止令が出され、武道具が作れなくなったこともあり、店があった場所から30kmほど離れた山鹿市で帽子屋として再出発することになった。その後まもなく私が生まれた。戦後の苦しい時代、人からもだまされたりして貧乏のドン底だったらしい。

 私が5才になった頃、禁止令は解かれた。大阪の武道具製作所の誘いを受けて家族で大阪の八尾市に移り住んだ。それから大阪で10年間小学校・中学校時代を過ごす間に、母が亡くなり、長姉・長兄・次兄が結婚した。第二室戸台風で家が半壊するという怖い目にもあった。

 熊本剣道連盟の会長からの助言があったことをキッカケに、父は再び故郷熊本で武道具店を出すため、夢と希望を胸に次姉と私の3人で熊本に帰ってきた。数年後、人の勧めで父が60才のときに、45才だった今の母と再婚した。料理上手で社交家で明るい性格の母だった。父はおいしい料理で晩酌を楽しんだ。

 晩年は孫たちに囲まれ、母が趣味でする民謡、三味線、それに笑い声も加わっていつも賑やかだった。父は時々好きな魚釣りに行った。釣れた魚を1匹1匹大事に捌いて素焼きにし、広げた新聞紙に大きい順に並べてみては楽しんでいたのを想い出す。「そんなことをしてもまた全部一緒に鍋に入れるのだから」と母は小言を言いながらもおいしい甘露煮を作ってくれていた。

 アメリカに嫁いだ長姉がロスアンゼルスの自宅へ両親を招待した40日間は、父にとって忘れられない旅となった。縁あってアメリカ在住の日本人の剣道の先生と話をすることになり、ずいぶん昔に買い求めた甲手が大変使い安く気に入っているので是非見てほしいと熱心に言われた。その方の家は車で2時間ほどかかる距離にあったが、次の日わざわざその甲手を持って、また姉の家を訪問された。父が手に取って見てみると「蘇光」という自分の号が入っていてびっくりしたという。異国の地で時を超えたこうしためぐり合わせは職人にとってなによりも嬉しいに違いないと、私もこの話を聞いて喜んだ。父はその甲手を修理して渡した。噂を聞きつけてあちこちから修理の依頼がきたため父は応じ、アメリカでドルを稼いできたと笑っていた。

 武道具の中でも父の作る甲手は特にすばらしかったらしい。剣道具一式、良いものになると百万円単位の値がつく。もちろん製作にかなりの日数もかかる。そしてそういうものになると芸術品と言える程、繊細で姿形も美しい。父は亡くなるまで武道具を作り続けていたが、あの頃で、父のような職人はもう全国に数人もいないだろうと言われていた。商売が下手で、戦後ずっと生活は楽ではなかったけれど、本当にまじめに正直に生きた人であったと思う。父の信条は「自己鍛練」であったようで、宮本武蔵の「五輪書」 を愛読していた。

 私はたそがれの西の空を見るのが好きだ。夕日にそまった空に花岡山の仏舎利塔がくっきりと美しいシルエットを作っている。 そのふもとに父は眠っている。


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