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アメリカ滞在記(後編)〜1971年

●前回のあらすじ

海外旅行がまだ珍しい頃の昭和43年、20才の私は姉の住むアメリカに渡った。姉は私の為に永住権を取って招いてくれたのであるが、私は3年間という期間を決めて旅立った。

 当時のアメリカは日本の生活と比べられない程、文化的で豊かであった。丁度ベトナム戦争のさなかでもありカルフォル ニア大学の近くは多くのヒッピーで溢れていた。

 最初の1年は外国人向けの学校に通い、夏休みはサンフランシスコにある日本庭園の茶店でアルバイト、その後姉の家を離れて白人の家庭に住み込んで学校に通うスクールガールを経験する。そうする内にあせりのような感情を抱き始め、何かを身につけながら英語も勉強できないものだろうかと考える。その結果日本人が一人もいない美容学校に行くことを決心する。

五、美容師として

 生徒数40名程のマイレディビューティカレッジという名の美容学校に行くことにした。随時入学そして約1年間学科と実技の勉強をして国家試験に合格したら卒業できる。私が入った次の日はある生徒が卒業する日であった。新聞紙1頁を上回るほどの大きさの長方形のケーキが準備され、その生徒にふさわしい飾りつけがしてある。ちなみに私の時は着物を着た女の人を型どってあり、ケーキに真っ黒い髪の色が不釣り合いであったが嬉しかった。卒業の日は皆でそのようなケーキを食べて祝った。

 ジュニアクラスで数ヶ月勉強した後シニアクラスに移る。シニアでは実際に客の髪を扱う。つまり先生の指導のもとでカットやパーマや毛染めなどを一般の美容院より安い料金でするという合理的なシステムになっている。ジュニアでは首から上だけのマネキンの髪でパーマのロッドを巻く練習や、指で髪を挟むようにしてウェーブを作るというような基本的な事を繰り返しする。生徒どうしお互いが客になったりして爪のマニキュアも習う。午前中に数時間学科の授業がある。ぶ厚い教科書はもち ろん英語ばかり、意味を調べて予習しておかないとチンプンカンプン。髪をはじめ電気や薬品の事、人間の体の仕組み皮膚や爪の病気など詳しく習う。専門用語が多く出てくる。理解できる日もあれば先生の英語が全く解らないで自分勝手に解釈したりもした。そんな私でもテストは割に良い点が取れていたので落ち込むこともなく、皆も外国人である私に普通に接してくれた。日本人は器用だという先入観があるのか、シニアでは沢山の客が私を指名してくれ毎日忙しく教わりながら働いた。生徒についた客による月の売上金で、上位三人に褒賞金が出る。私は何度かその中に入り、そのお金は学費に役立てた。

 客は年配の人が多かった。髪やマニキュアをしながら話をする事になる。私のたどたどしい英語をやさしく聞いてくれる。手作りのケープをくれた人、スペイン語の辞書までくれて簡単な挨拶など教えてくれた南米から来たというおばあちゃん。家に招待されたりワインカントリーにドライブに連れて行ってもらったりしたこともある。

 卒業間近になった。ある日本人経営の美容院に私が卒業したら来てほしいと、早くも仕事が決まった。サンフランシスコで行われる国家試験も客にモデルになってもらい実技の方もスムーズに済み一回で合格できた。学校の生徒でなく今度はお店で美容師として働きだした。新しい日々の始まりである。高級住宅街に近いこじんまりしたしゃれた作りのお店であった。

 オーナーの日本人女性Tさんと中国人三世が2人、白人の男性と女性それに私が加わって6人の美容師である。客は主に白人であった。日本のようにインターン制度がなく、すぐから客を任される。ほとんどの客は美容師を指名して来店する。最初の頃は給料は保障制度になっていて決まった額をくれる。自分につく客が多くなると売上の65%位を受け取ることになる。皆が忙しくしているのに自分の客が少なくて何となくみじめな思いをしたり、英語で冗談を言って笑っているのに私だけ一人ポカーンとしていたりもした。

 美容師の一人で中国人三世のスージと仲良くなり車で毎日姉の家まで迎えに来てくれるようになった。彼女は面倒見が良く、その後ずっといい友達であった。楽しい想い出も彼女を通して沢山いただいた。今残念ながら音信不通になってしまったがもう一度逢いたいと思う人である。

 丸一年美容師として働き、お金も貯める事が出来た。その頃日本だと約5年位働いて得る収入を1年で得るというような感じであった。貯めたドルは帰る為の旅費やプレゼント代に又、結婚の為にもおおいに役に立った。

六、帰国(船旅)

 日本を離れて3年2ヶ月が経過した。3年と決めていたので美容院を辞め帰る準備を始めた。一人で旅行社に行きその日を決めた。昭和47年4月9日出航の船で帰る事にした。それからの日々は皆との別れの毎日であった。「又来るからね」と言っても当時は今のように隣町に行くようにはいかなかった。もう二度と来ないかもしれない、皆ともう逢うこともないかもという思いが別れを一層せつないものにしていた。

 マッケンレーハイスクール時代の日本から来た仲間達も、私のように永住権を持っている者はなく全員日本に帰ってしまっていた。私の永住権も一年以内にアメリカに又もどらないと無効になるとのこと。一度無効になれば次に取得するのがとても難しくなるという。納得のいく話である。私は永住権のグリーンカードを見つめながら一年以内に100%アメリカに来ることのない自分を思った。

スージ達は別れが辛いから見送りには来ないと言った。その代り一緒にラスベガスやディズニーランドに行き、毎日のように行動を共にして、最後の日まで楽しんだ。ラスベガスへはバスで4~5時間かけて行き、ギャンブルをした。アメリカは21才で成人となる。それまでは、お酒を飲む事はもちろん、買う事も出来ない。日本人は若く見られるのでパスポートを見せるように言われることがよくあると聞いた。 ギャンブルも21才以下はしてはいけない。私はこの時23才であった。一緒に行ったスージの友達がキノという数字合せのゲームで2,000ドル勝った。勝つ事はめったにないという。持って行ったお金のほとんどを使ってしまう人が多いらしい。その友は私達に10ドルずつ勝利のおすそ分けをしてくれた。 ロスアンゼルスのディズニーランドには車で行った。およそ熊本大阪間の距離がある。途中砂漠のような何も無い所を通る。ただガソリンスタンドだけポツンポツンとあった。その頃日本にはまだディズニーランドは無く、規模の大きさ設備や仕かけのすごさ華やかさに心がワクワクしたものだった。

 サンフランシスコから出る船を姉達や滞在中お世話になった人達が見送りに来てくれた。私に内緒でシャンペンパーティを船の上でするはこびになっていた。私の半分は嬉しく半分は悲しかった。船はゆっくり動きだした。サンフランシスコの高いビルやステキな町並がだんだん遠く小さくなって行くのを船のデッキにいつまでも佇んで眺めていた。

 船はアメリカに来た時と同じクリーブランド号である。がしかし今回は特別であった。時代は飛行機の時代となり、今回で最後の航海になるとの事。それに乗り合わせたのだった。ファースト、エコノミーの区別もなくすべてがファーストクラス扱いで 毎日がお祭り気分の大サービスである。乗組員まで楽しんでいる。同じ部屋の日本人の女の子2人とも気が合って2週間ずっと行動を共にした。ハンサムなイギリス人のM、中国に住みたいと言うアメリカ人の青年、ハワイのかっこいいダンサーのカップル、日本人ミュージシャンのS達と退屈する事なくいつも集まって過ごした。毎晩すばらしいショーが催される。着飾った老夫婦、生バンドにダンス、ギャンブルとで映画のワンシーンに飛び込んだようである。毎日がおいしい料理のフルコース。いくらでも注文できる。いったい船にはどれ程の食材が積み 込まれているのだろうか。テーブルに出された久しぶりの梅干とらっきょうがおいしいかったので、私たち女の子3人についたボーイさんにそれを伝えると、次の日山のように出してくれたので私たちは笑いあった。

 ある夜いつものメンバーであることを企てた。ビンに紙を詰めて流そうというのである。1枚の紙にそれぞれが英語日本語中国語と自分の国の言葉で「このビンを拾った人は…」という内容と名前と住所を書いた。そしてキチンと蓋をして明かりのついたデッキの上から皆で喚声を上げながらそのビンを海に落とした。何もない太平洋にそれはゆっくりと漂い次第に見えなく なっていった。船は日本の横浜へと向かっていた。(完)

1997年 Fumiko作

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