知的障害のある大叔父を思う

私は13歳から彼が亡くなるまでの4年間、知的障害のある大叔父”しみちゃん”と同居していた。

しみちゃんは母方祖父の弟で、昭和一桁年代生まれだ。幼い頃にかかった病気の後遺症で、知的障害(と精神障害)を持ち、3歳児ぐらいの知能だったように思う。
簡単な会話はできて、食事もこぼしながら箸で食べ、排泄も基本自分でできていたが、階段の上り下りはできなかった。

障害という言葉を知るずっと前から祖父母宅に遊びに行けばしみちゃんはいて、

一緒にご飯を食べ、テレビを見て、おもちゃで遊んで「なんか周りの大人と違うな」と思いつつ

ちょっと変わった親戚のおじさんという認識だった。

私が物心ついた頃、母はしみちゃんが”障害者”だと言うことを言葉を選びながら説明してくれたが、そのときは正直よくわからなくて「そうなんだー」と本当によくわかってない返事をした。


私が小学校を卒業したタイミングで両親が離婚し、祖父母としみちゃん、母と私と弟の6人での同居がはじまった。 

その当時しみちゃんは70歳くらいで、長年にわたる薬の服用のせいかかなり華奢だった。
基本は温厚な性格をしていたが、季節の変わり目には怒りっぽくなったり、ブツブツと一人言が増えたりする。スイッチが入ると顔つきがかわって、ものを投げようとしてきたり、ドアを荒っぽく閉めたりした。

しみちゃんは勧善懲悪ものが好きで、部屋には仮面ライダーのぬいぐるみがあった。
私や弟が母にお説教されていると、悪いことをして怒られているということはわかるらしく「ショッカーがくるぞ!」と言ってきたこともあった。
夕方になるとダイニングテーブルの自席に座って、水戸黄門の再放送をよく見ていた。

サンタクロースを信じていて
(ただし我が家のサンタはいい子にはプレゼントをくれるが悪い子はムチで打つという設定だった!)クリスマス前はプレゼントかムチか、とてもソワソワしていた。当日枕元にお菓子の詰め合わせを見つけると「サンタが来た!」としみちゃんは一日中嬉しそうにしていた。

私や弟がお菓子を分けてあげると「いいの?」と喜んで食べるが、自分がわけるのはかなり嫌がっていた。


子育て中の今振り返ると、本当に3歳くらいの男の子のような心の持ち主だったなと思う。


しみちゃんが子どもの頃から障害者学校のようなものはあったらしいのだが、
しみちゃんを“不憫”に思った曽祖父母は家で面倒を見ることに決めた。
実家は当時そこそこ羽振りがよかったらしく、ねぇやを雇ったりしてしみちゃんは9人いる他の兄弟姉妹たちと一緒に家庭で育てられた。

施設や病院に隔離されなかったしみちゃんは、近所の子どもに石を投げられたり疎開先でいじめられたりすることもあったという。戦争の影響で多くの人が余裕なく生活していたことも影響したかもしれない。障害者とその家族が社会の中で暮らすことは今よりも過酷だった。

しみちゃんは後天的な障害者であったが、それでも彼の存在は祖父をはじめとした兄弟姉妹の結婚の足枷になった。

上の兄たちが若くして死に、家を継ぐことになっていた祖父の結婚は、特になかなか決まらなかった。
身内贔屓はあるだろうけど、若い頃の写真を見ると祖父はなかなか整った顔立ちなのだ。大正生まれにしては珍しく、声を荒げたりすることも一切ない人で実家もけして貧しくはなかった。
それでも、結婚相手は見つからなく結局祖父は従姉妹と結婚した。

祖父もしみちゃんのケアを”お手伝い”ではなく率先してやっていたけど、それでも祖母は大変だったと思う。
彼女は家業を手伝いながら子どもを三人産み育て、その傍らでしみちゃんのケアもしなくてはいけなかったのだ。通院や服薬管理、身体のための散歩の付き添い、料理も介護食のように柔らかくしなくてはいけなかった。
そして、子どもの手が離れた頃には姑の介護が待っていた。

祖父母は60歳で家業をたたみ、ようやく”老後”が始まったのだけれど、しみちゃんがいると気軽には旅行に行くこともできない。
この頃には障害者福祉もかなり充実してきて、デイサービスや訪問診療などの支援も利用していた。でも祖父母はショートステイ(施設に泊まってケアを頼む)を利用することはよっぽどのことがない限りしなかった。

自分が人の親になり
しみちゃんを残して亡くなった曽祖父母はどんな気持ちだったろうかと思いをめぐらせることが増えた。
三人の子供たちに負担をかけたくない、自分たちで見なくてはという祖父母たちの親心もヒリヒリとわかるようになった。

しみちゃんは私が16歳の頃に亡くなったが、祖父もその翌年にまるで安心したかのように死んでしまった。ようやく夫婦二人の時間がもてるようになった矢先のことだった。

私の両親は父のDVで離婚し、私は一時期結婚なんてするものじゃないと本気で思っていたけれど
喧嘩一つしない仲睦まじい祖父母夫婦と一緒に暮らせたことは、私の心を癒してくれた。
本当に素敵な、理想の夫婦だった。

しかしそれでも、祖父と結婚して祖母は幸せだっただろうか?と思ってしまうことがある。家業の仕事も家事も育児もしみちゃんのケアも介護も、彼女の幸せの犠牲の上でなりたっていた。

祖母は今90歳をこえ少し認知症がでてきた。身体も痩せてきたがそれでも洗濯は自分でするし趣味の庭いじりも続いている。
祖母に残された時間があとどれだけなのかはわからないけれど、どうかこれからの人生で一つでも多くの幸せがありますように。
きっと祖父もしみちゃんも天国からそう願っている。

自助という言葉を見ると
誰か一人の方に、ケアする負担がのしかかるようなことになりませんようにと強く思う。

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