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わたしとあなた

いつもお読みいただきありがとうございます。
各地で大雪ですが、皆様お怪我などないでしょうか?
今日は私も急遽外出の予定も
オンラインに変更するなどして、
ITの進化にありがたいなぁ、と恩恵を感じていました。

今日は出版のミーティングを
午前中に行っていました。

その中でも特に
「境界線」については
子どもと大人、お互いが意識をもって
暮らしていくことが
お互いの暮らしを優しく
そして安心安全なものにしてくれるなぁ、ということや
親子以外の対人関係におきても
とても大切なキーワードであり、
この
#わたしはわたし
#あなたはあなた
という、この部分をしっかりととらえることが
できると、トラブル自体も
かなり減っていくのではないかと
ふと思い、noteにメッセージを書いています。

ついつい、
大人は良かれと思って
子どもの境界をまたいでいることが
多くある気がします。
私自身、自戒を込めて書きますが
とても境界線をまたいでいたし、
それを「無意識」でしていた時期が
とてもありました。
そのことで、本来は
子ども自身のことを
自分のことだと思い、
ハラハラドキドキ、もやもや…
しまいには怒鳴る。なんて流れですよね…
(過去、遠い目)

アドラーさんの
課題の分離。が出てきたときは、
あぁ。これだ。と
本当に腑に落ち感が半端なかったのを
思い出します。

文化的に、
「察する」
「阿吽の呼吸」
「言わなくてもわかる」や
「〇〇のために身を尽くす」的な部分。
自己犠牲の美徳のような空気を感じる時間が
長いような気がします。
もちろん、そういう文化を丸ごと否定とかではなく、
日常の暮らしの中や
子どもが特に
思春期になり、
自分で決めて行動することや
自己管理ができるようになるころに
「できることまでやる」の部分の
線引きについて、改めて考えていくこと。

もちろん、心や体がつらい状態のときは
本来できることであったとしても
本人ができない時のケアとしてサポートすることは
重要で、それとはまた別なお話しです。
たとえば、本当にできることを
いわれてもいないのに、先回りして
「やっておいてあげた」なんて
いうことは、できれば避けたいなぁ。というのを
学んで知った私。というようなことです。
(過去は知らずに、なんでもやってしまう人でした。)

例えば、よくたとえられる魚釣りですね。
魚を釣ってあげるのか?
魚の釣り方を教えるのか?

そこも細分化すると、
魚を釣ってあげて、切って焼いて料理して
お皿に盛りつけ運び食べさて上げるのか?

釣り方を教えて、
釣りの道具もどれを使うか
教えるが選ぶのは
釣る本人に任せ
釣る場所も任せ

釣れないかもしれないけれど

釣る経験や
釣った喜び
釣れなかった悔しさなど
感情を学び

料理もどうするか?
やり方も伝えるが
本人に任せてみるという流れ...

きっと
自分で決めて行動するほうが
#わたし
を生きてる感じがする気がします。

そんな風に境界線をもつことや
自己決定を当たり前に考えた関わりを
対人関係にもてるといいなぁ。と思いました。

今日もお疲れさまでした。

読んでくださりありがとうございます。

やまがたてるえ

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