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元来、季節とは現象ではなく心象なのです。春夏秋冬の境界線、それのどれだけ曖昧なことでしょうか。そこに明確な定義は無く、人が季節を知覚したその瞬間、当人にとってのみの「次の季節」が始まります。蝉の音色が耳を通れば「夏だ」、雪の結晶が手のぬくもりに触れて溶ければ「冬だ」、という具合に。そしてこれらは不明瞭な世界の中、もとい自身の心で見出した「感情」です。斯くして、各々の抱く風情、つまりは心象を、我々は「季節」と呼称するのです。

季節が胸中の産物であるということは、それを表現する修辞も千差万別ということです。春の始まりをロマンチックに描く小説も、秋の憂愁を紅葉に投影する絵画も、冬の冷たさを科学的に解明する研究論文でさえも。全ての起点は代替の余地も無い銘々の精神であり、その表現へのアプローチは多岐に渡って然るべきでしょう。現に世界では、あらゆる芸術分野にて、機微の異なる様々な「季節」が描かれ続けています。

では、「季節」の唯一性が絶対的なものであるとするならば、何故我々はそのイメージを共有し、感動出来るのでしょうか。共感や同情といった気持ちが芽生えるとき、互いには共通点があるはずです。ならば、共通なんてしようもない「季節」同士が重なり合う理由はどこにあるのでしょう。仮説はふたつあります。
ひとつは、普遍的な季節イメージの波及に伴う独自性の希薄化です。春と言えばこう、夏と言えばこうという世間的感覚が、本来個々が秘めているはずの季節観を侵食し、その人にとっての季節にすり替わるのです。こう書き表すとどこかもったいなく、悲しい話にも思えますが、そうではないと否定させてください。我々人間は社会的動物であり、外環境からの影響を多分に受ける脳構造をしています。ですので、世間の意見に順応していくのは、生命としての性なのです。そして、その事実に感じるべきは嘆きではなく、自身だけでは思いもよらないような価値観を取り込んで糧に出来る、そんな「思考」の秀逸さへの賛辞なのです。
ふたつめに、我々は自身の持つ「季節」を世界観の礎に据え、他の「季節」を落とし込んでいるということです。重ね重ねではありますが、人によって「季節」の見え方は違います。ですが逆に言えば、その人が目に映す全ての景色は、その人だけの季節フィルターを通して脳を伝うということでもあります。他の誰かが表現した「季節」を見るために自分の季節観を用いるのですから、享受した感覚はどう足掻いても自分由来のものになります。これらは、わざと良くない言い方をするならば「無意識の曲解」とも捉えられるでしょうが、どれだけ環境に差異があっても自分の意思は曲がらない、そういった人間の初志貫徹精神の現れだと思えば、俄然尊いものに感じられることと思います。また、結果的に映る全てを自分のものに出来るという点では、このふたつの仮説は正反対ではなく、どこか似たところがあるとも言えるでしょう。

ふたつの仮説のうち、正しいのはどちらでしょうか。それを決めることは不可能に等しいと思います。敢えて何か答えるならば「どちらの側面もある」とお茶を濁す形になるでしょう。やはり人間の心というのは、明確にボーダーを引けるほど畏まった土地ではないのです。
しかし、結局は「季節はそれぞれにある」という結論に帰着することは明らかでしょう。
「季節」から読み取れる人間の多様性が、世界を彩る祝祭を巻き起こすことを、私は信じているのです。






ところで、「夏の終わり」という心象を歌った人類の宝とも言うべき楽曲がございまして。
UNISON SQUARE GARDEN「夏影テールライト」でございます。夏影テールライトです。夏影テールライト。夏影テールライトなのです。
この曲が描く「季節」には、等身大と神秘性が交錯し、鮮明と模糊が混ざり合い、そうして生まれた模様が浮かんでいます。それを美の象徴、むしろ「美」という概念そのものにとって替われるほどの存在、と認識するのは間違いでしょうか。賞賛や敬愛では収まらないこの感情を、言語化不能だと割り切るのは、いけないことでしょうか。いえ、そんなはずはありません。私の語彙力や文章力が足りていないことは事実ですが、例えば私が、全小説家の表現技法をこのちっぽけな脳に叩き込み、最新版の広辞苑を写した暗記パンを貪り尽くし、それらを完璧に使いこなせる全知全能文学マンと化したとして、私は夏影テールライトの全てを、言語を用いて形容出来るでしょうか。出来るわけがない。出来てたまるかボケ。そもそも夏影テールライトが描くのは田淵智也、あるいはUNISON SQUARE GARDENにとっての「季節」であり、私の持つ「季節」とは何処も彼処も違います。この時点で、夏影テールライトは私のコントロール下に無いのです。いや、コントロール下に置くことなど、不可能である以前に、烏滸がましいにも程があるのです。私とかいう愚民ごときが夏影テールライトを独占するなど、あってはなりません。重罪です。どんな死刑囚をも凌駕する罰則で以て償わなければ割りに合わないほどの重罪です。
ですから、私はこの楽曲が、より多くの人々の耳に届けば良いと思うのです。夏影テールライトが描く「季節」が、見た人それぞれの「季節」に変換され、八百万の解釈が生まれていく。その尊さに、私は今日も想いを馳せ、夏影テールライトに耳を傾ける素晴らしさを反芻するのです。

改めまして、夏影テールライトMV100万回再生、誠におめでとうございます。再生数など気にしないであろうバンドであることは重々承知しておりますが、個人の勝手な欣喜雀躍でございます故、どうか嗤ってお許しください。


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