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星空

今日は在宅勤務。先程明日回収予定のゴミ出しをする為に外に出た以外、今日はずっと部屋にいた。今月に入ってからTシャツと短パンに部屋着を切り替えたんだけど、少し肌寒さがあった。この肌寒さは、8月の八ヶ岳の夜の肌寒さに似ていた。

友人たちと毎年夏に八ヶ岳で開催される『星空の映画祭』というイベントに何年か前に何度か足を運んだことがある。いままで2回くらい行ったのかな。7月の終わり頃から8月のお盆が過ぎたくらいまでの約1ヶ月間、その一年の間に話題となった作品や、過去の名作を森の中の野外会場で楽しむイベントだ。夕方くらいから徐々に人が集まってきて、映画が始まるころには周りはほぼ真っ暗。最低限の街灯と星空のあかりだけしか頼りがない自然の中で観る映画は格別だった。イベント自体がそういうイベントなのか、観に行った作品がたまたまそうだったのかわからないけど、家族連れが多かった印象がある。子どもたちの笑い声や泣き声が上映中に聞こえてきても、さほど気にはならなかった。
ぼくが観たのは『おおかみこどもの雨と雪』と『風立ちぬ』だった。両作品とも金曜ロードショーとかでもあとあと観たけど、やっぱりあの環境で観たこの2つの作品はテレビで観るよりもより印象強く残っている。部屋のテレビで一人で、または家族や友人や恋人と観る映画もそれはそれで思い出に残るけど、映画館の大きなスクリーンで、臨場感のある音で、見ず知らずの人と大勢で観るということを含めて、体験として記憶に残ることがいいところだと思う。ただいい思い出だけではない、逆に『シャイン・ザ・ライト』を観に行ったときなんて、近くの席の年配の女性がウイスキーを片手に、立ち出して「ヘイ!ヘイ!」と大声で歌い出して、終始煩くてまったく集中できなかったこともある。“発声上映”や“応援上映”がイベントとして確立する何年も前のことだ。まあ、結局それはそれでいい思い出の記憶のフォルダに入っているんだけど。
「いや〜いい映画だったな〜」と友人たちと会場をあとにして、歩いて帰れる距離に取ったペンションに戻り、買い込んでいたお酒を飲みながらバカ話を夜中まで繰り広げる。まだ20代で若かったからということもあるし、お酒も入っているし、真夜中の森の中という非日常も相俟ってぼくらは散歩に行くことになる。真夏の夜の八ヶ岳は涼しい、涼しいを通り越して寒さすら覚えるほどだ。間違った記憶かもしれないけど、寒さが度を越してペンションに戻った記憶があるけど、これは間違った記憶かもしれない。
長くなってしまったけど、先程ゴミを出す為に外に出たときに感じた肌寒さで、いつか行った『星空の映画祭』のことを思い出した。ここは長野の八ヶ岳ではなくて、東京の阿佐ヶ谷だから、それと曇り空で星は見ることができなかったけど。
でもひとつ言えるのは、阿佐ヶ谷でも天気がいいときはまあまあ綺麗な星空を見ることができる。いままでに何度も流れ星を見たことがあるし、夜中まで飲んでふらふら歩きながら帰宅している途中、ふと空を見上げると、ツーーーーっと不思議な速度で空を通過する飛行物体を見たことがある。あれはいったいなんだったのだろう。飛行機にしては見える光の点が大きくて、もしあれが飛行機だとしたら、とんでもない速さで移動していることになる。ヘリコプターでも、ドローンでもないと思う。あれはいったいなんだったのだろう、ツーーーーっと移動していたアレは。

さて、お風呂に入らなければ。お風呂に入ることはなんでこんなに面倒臭いのだろうか。子どもの頃は面倒臭いなんて思わなかった、大人になってから感じようになった。お風呂に入って後悔なんていままで一度もしたことがない。
「ああーあ、お風呂に入らなければよかった」
「俺はバカだ、お風呂に入ってしまうなんて、愚か者だ…」
とお風呂に入ったあと後悔に打ちひしがれたことがない。というか、そもそも何かに打ちひしがれたことがない。打ちひしがれたことがあっても、いや〜昨日打ちひしがれたわ〜、とじぶんでじぶんのことを振り返る人はいないと思う。その話はさておき、さっぱりして綺麗になって、いい匂いを漂わせていいことしかない。いいことしかないのだ。それなのになぜ。なぜなのだ。

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