「大西つねき氏」と「れいわ新選組」の構成員の発言から考えたこと
私は、れいわ新選組の「誰も切り捨てない」社会という理念に共感し、山本太郎代表や、構成員の立候補者、木村、船後議員などにはとても刺激をうけてきたし、注目し、応援もしてきた。
その、れいわ新選組の構成員の大西つねき氏のライブ配信動画で「政治は命の選別をすべき。高齢者の方から逝ってもらうしかない。」という発言が、内外で議論をよび、結果としてれいわを除籍されるという騒ぎになった。
件のライブ動画、その後の弁明、構成員の人たちの語る動画をみたが、個人の死生観を語る、政治の仕組みを語る、リソースの配分(トリアージ)部分が混ざってはいるが、それぞれの主張はわかった。
大西つねき氏の個人的な死生観はローマ人のようなある種の諦観を、政策的にはスウェーデン政府のやっているようなある種の現実主義なんだろう。
そして私も終末期の判断を医師や政治に委ねるのではなく、選ばされるのではなく、自分で考えて迷いながら決定するというのは賛成だ。
自分のことを政治家や医療者、家族にまかせずに、もっともっと個人として自分で考えること、決めること、そしてモヤモヤしながらも対話をつづけること必要という点までは合意できる。
しかし、それをいくら選挙で賛同をあつめて当選したとはいえ、それで政治権力を握った人が、他の人に押し付けられるものではない。
さすがに、ここまでは合意できない。
いのちは多数決で決められるものではないからだ。
内なる優生思想、差別意識は残念ながら誰のこころの中にもある。
市民もその判断や責任を他人に預けているうちに、今の政府に預けたお金の分配やルールぎめで、好き放題「命の選別」をされまくることになる。
権力者が人々の間に一方的に線をひくこと許容すると、あっという間に排除される人もでてくる。それがナチスドイツのT4作戦、断種法、相模原障害者施設殺傷事件のような事件にもつながったと考えられる。
とくに各個人が自立して自らの数多で考える習慣のない立場主義が蔓延しているこの国では危うい。
人権という考えは200〜300年前くらいに生まれたもの。近代を生きる人間として、人はその存在自体に価値があり役割がある、個人としての自由と幸福を追求していけるという理念と原則は唱え続けたい。
今の個人として自立していないこの国の人達にそれはまだ難しいのかもしれないが、だからこそ弱い立場の人に対してほど、自分で語れる条件、選べる条件を整える必要がある。
そこまでが政治の出発点でもあり、また目指すところであり、守るべきラインなのだとおもう。
この原則を共有できない、そして対話できない人は政治家は向いていない。だから安倍晋三氏や、大西つねき氏は政治家になってはいけない。
政治をはじめ、いろんなことをタブーにせず、議論というか対話をする人が一人でも増えてほしいなあと思う。
そのための条件を整えるために私も自分にできることをしていこうと思う。
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問題となったライブ配信動画
れいわ新選組の会見(山本代表、船後、木村議員)
それに対する大西つねき氏の説明会見
文字起こし
https://www.tsune0024.jp/blog/7-17
三井さんの動画(おすすめですが広告多すぎ)
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