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炎上した長野県の障害の社会モデルの広報。障害は社会の側にある!地域共生社会の実現に向けて

長野県のから発信されたTVCMと新聞広告、県の広報の内容が県内外の物議をかもして炎上している。


その内容は以下のようなものである。

障がいの考え方には2つあります。

◆社会モデル…障がいの社会モデル
障がい者が直面する不利益や困難は、障がいのない人を前提に作られた社会のつくりや仕組みに原因があるという考え方。

障がいがあっても参加できる社会をつくる
それが、社会モデルという考え方
たとえば、エレベーターやスロープを増やす
たとえば、点字ブロックが安全に目的地に導く
社会が取り組んで世界を広げる

◆個人モデル…障がいの個人モデル
障がい者が直面する不利益や困難は、「足が動かせない」「耳が聞こえない」などの個人の心身機能が原因であるという考え方。

障がいは、本人の努力で乗り越える
それが、個人モデルという考え方
たとえば、階段があるところは避ける
たとえば、白杖を使って目的地にたどり着く
本人が頑張って世界を広げる

【THINK! NAGANO MODEL】

「個人モデル」と「社会モデル」を並列に並べ、「長野モデルを考えよう」という構造。

「何を言いたいのかわからない」
「これからは個人モデルでいいんだ」
「個人のせいにされ、努力や我慢を強要されつづけてきて、今、個人モデルを行政がいうことで傷ついた」
「個人モデルを並べる必要があるのか?」
などの声が上がった。

障害団体や個人から県に問い合わせやクレームが殺到し、「説明不足で誤解を招いた」と言うが、そもそも、この広告を作成した方が、ICF(国際障害分類)をもとに障害者権利条約を批准、障害者差別解消法が施行された今、その基本理念を理解しているとは思えない。
障害が支援の必要性で定義されるなら、個人モデルで容易に克服できるものならばそもそも障害とはいえない。

障害は社会の側にある。社会参加への条件(アクセス)をととのえるために、必要な手立てを講ずるのは明確に社会の課題である。

今の時代に、行政としては「個人モデル」ではなく「社会モデル」であるというのを明言しなかったのは大きな問題だ。

また、障害者と健常者に分断するのも違うと思う。

聾唖の人が手話で話しているコミュニティーに、手話の使えない健聴者が一人いるとその人が障害者になる。そういう意味でだれが障害者になるかは常に流動的、相対的なものであり、場により常に変わりうる。だから障害者だ、健常者だと分類する事自体がナンセンスである。

まさかはじめから炎上を狙ってやったことではないだろうが、物議をかもしたことで、あちこちで対話が広まっているのは良かったことだと言える。
啓発、広報の効果は何倍にもなった。
県職員や県知事もその対話に加わってくれている。

様々な障害者やマイノリティーが声をあげ、知ってもらいたい体験を語り、合理的な範囲での配慮を求めたり、社会に足りないものをともにつくっていく対話を継続することが大事なのだ。

記事によると、この広告に2000万円かかっているという。
自分なら、多くのマイノリティーにインタビューして、それを細く長く新聞に掲載したり、Youtubeや広報で載せていったり、さまざまな対話の場をつくるかなあ。

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