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【色街探訪】玉ノ井②〜サケに見せかけてアッチも売っていた街〜

水はけの悪い土地

戦前の玉ノ井(寺島町)についてもう少し掘り下げてゆきます。元々この寺島町という土地は水田地帯でした。そこを埋め立てて、入り口の狭い木造2階建てを建て込んで行ったので、道はくねくね、雨が降ればぬちゃぬちゃとした非常に水はけの悪い場所だったそうです。そして濹東綺譚にも書いてありましたがそのくねくね道の脇にはどぶがあったそうで、そのせいか夏は蚊が非常に多かった、と。このような話を聞くと、日本もアジアなんだなと実感させられます・・・。

↑くねくね道

寺島町を題材にした作品

その寺島町について語る時に外せないのが、濹東綺譚以外に「赤線玉ノ井 ぬけられます」(1974年)という映画と、滝田ゆうの「寺島町奇譚」(1968年)という漫画があります。どちらの作品にも出てくるのが「ぬけられます」という看板の存在。荷風をして「ラビラント(迷宮)」と言わしめた寺島町のクネクネ道に建てられていたというこの符牒めいた案内板は、玉ノ井の代名詞的な言葉としてもよく知られています。そして、滝田ゆうの漫画で特筆すべき点は、「寺島町のスタンドバー」の家の子であったということ。つまり地元の子です。その為、近所のお店のオネエサンに優しくしてもらってドキドキしたり、また同級生の、特殊飲食店(=昭和21年〜昭和33年までの間に風俗営業をしていた飲食店。銘酒屋やカフェーはここに含まれる。)を営むお家の子が家の商売を子供ながらに知っていて、裸で一緒に寝ようと筆者本人に迫ってきたというようなエピソード(この話は昭和ながれ唄に掲載)もこの土地ならではという感じがします。

空襲によって焼失

さて、それらの戦前の寺島町については、1945年の太平洋戦争の時の東京大空襲にて焼失しています。なので今行っても殆ど見ることができません。よって、今残っているのは戦後の1945年以降に建てられたと思われる遺構です。遺構が残っているエリアについてですが、移転前が東向島五丁目、六丁目辺りで移転後が墨田三丁目というデータがありますがこのような色街は警察が把握&管轄している赤線地帯以外にも、その囲われた地域の隣接地域にはみ出してモグリの売春宿(青線)があったりもするのでそのような遺構を見つけるのも楽しかったりします。そして、戦後の移転に関しては一部の店は現在の曳舟駅にある「鳩の街」と言われていた私娼街にも移っており、それらの遺構も残っているので、また別の機会にご紹介します。

カフェー建築

少し脱線しましたが、その赤線地帯では警察は娼家に対して外装で見分けられるように「タイルを施した柱(正確には偽柱)・アール(曲線)のついたバルコニー」などの特徴を備えるように指導しました。当時洋風建築の知識も少なかった時代なので、それらを左官職人たちが見よう見まねで作っていった結果、ユニークな外観の建築物が生まれることとなったようです。そしてそういった特徴を備えた建築物が後年になってカフェー建築と呼ばれるようになりました。


↑カフェー建築

現在ではそういった歴史のある住宅街の路地にひっそりと佇んでおり、一見それとわからないものもたくさんあります。こちらもタイルが貼られていたと思われる柱は壁と同じ白で塗りつぶされているので分かりにくいのですが、よく見ると、タイルが貼られていたのが分かります。タイルの貼られた柱がしっかり残った物件は鳩の街に残っていますので、また紹介致します。

そしてカフェー建築にはもう一つ窓の特徴があり、(以前に書いた当時の色街を収めた動画のキャプチャー画像との比較記事にも書いてあります。)戦前の大正時代の銘酒屋時代から終戦直後のカフェーでは、小さな小窓から男性に声をかけていました。

この左側の赤で囲まれた小窓です。地図で屋号を探し当てたわけではないので、このお宅が元々娼家だったのかは不明ですが、明らかなカフェー建築の隣にあるお宅なので、その可能性はあると思います。


このように、玉ノ井は住宅街に昔の遺構がひっそりと佇んでいる風景がなんとも魅力的な雰囲気の街でした。なお、私は関東の人間なのでほぼ関東の遺構をご紹介することになりますが、歴史の古い関西や愛知にはもっと豪華絢爛な遊郭やカフェー建築があるようです。

初めての赤線日記の締めくくりとして書いておきたいのですが、このような性質を持っていた街のこのようなお宅は、当然ながらそのような商売をしていたということを隠したい方が沢山おられます。もしご覧になる際には家主の方のお気持ちに配慮し、ひっそりとご覧いただければと思います。

-玉ノ井編おわり-

参考図書:雑談にっぽん色里誌仕掛人編 小沢昭一

建築デザインの解剖図鑑 スタジオワークス