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短期研修プログラム「表現/社会/わたしをめぐる冒険」|レポート①坂口彩夏さん

私はなぜ、今ここにいるのだろう……?
黒い壁一面に貼られたカラフルな付箋たちをみて、ついさっき出会ったばかりの人とすごく切実に真剣に言葉をかわしているときに何度も思った。
偶然の偶然にこのプログラムに出会って、「えいっ」と参加してみたものの、犀の角に来るまでは本当に不安だった。
私は何者でもない。
俳優ですと言えるほどの立派なキャリアもない。ただ、私は演じるということに救われてきた。演じることや作品を通して、考えるということを取り戻せた。私を見つめることができるようになってきた。だからこそ、そこには人それぞれが幸せになることに可能性があるのでは!と謎の自信はある!のだけれど……
きっと他の参加者はそれぞれの場所でしっかりと何かをやっている途中で、言い訳だらけの私は恥をかいて終わるだけかもしれない……
でも、このままはずっとこのままになってしまう……
の「えいっ」
で参加したのでとっても不安だった。

犀の角に来てみるとまず、オリエンテーションの椅子の配置がとても良かった。
スクリーンが前にあってそれを囲むように列ができていてメンターと受講者が向かい合うのではなく私達は背中を見ている。私自身の思考スイッチが押されるようにそして素直に話せるように、椅子の置き方から丁寧に場作りがされていたように思う。

まず、私達はモヤモヤを書き出した。
そして、まだ出会って数時間の誰だかわからない人に共有した。
モヤモヤという不安は普段口にしないので身体に溜まるとなんだかよくわからないけど心地の悪いものになっているんだなと書き出してみて思った。そして、実際にどこがどうモヤっているのか1つ目を書き出すときに時間がかかった。モヤモヤを外に出すことに慣れていないのだなと思った。
ただ聞いてくれる人がいて喋りだすとすごくモヤモヤがはっきりしだした。よくもまあよく知らない方々にペラペラと話せたなあ……と思ったのだがよく知らなかったからだったのかもしれない。
後々、ハッとしたのだが、私達は自己紹介で誰も年齢を言わなかった。相手が誰だかはよくわからないけれど、真剣に聞いてくれる、話してくれるだけで人は自分のことを話せるのかもしれない。年齢や職業、いわゆる肩書は簡単に相手を理解する手段として使われるけれど、実際は自分フィルターで相手をみてしまって、その人をその人として出会うには実は1番遠回りなのではないか……
と思ったりした。

3チームに別れてモヤモヤを出し合ったので他の2チームのモヤモヤが出されたとき、私は自分の無知さに愕然とした。わかってはいたけれど自分の見えてる世界はこんなにも狭いのか……ズーンと落ち込んだが、少し経って人と出会ってこうやって話をしなければ知らなかったことばかりだから今回出会えてよかったなと思い直した。
真ん中に書かれた言葉「個々の命が全うされるためには」
いい作品を作りたいとか、いい俳優になりたいとかなんて狭っこくて…結局はそこに行き着くんだよなあと壁一面に張り出されたモヤモヤたちをみて思った。幸せに生きたいとか、そばにいる人もできれば苦手な人もみんな幸せになることはできないのかなぁって考えている人がここに居る、難しいことだけれどそれを願ってもいいんだよなあと
壁一面に張り出された想いたちをみて思った。

1日目の終わりは頭が痛かった
とても充実した時間を過ごせたが頭が割れそうに痛かった。改めて人と会うこと、関わることは簡単なことではないなとちょっと早めに眠りについて思った。夜遅くに階段を登る楽しそうな声が聞こえてきた……みんなすげぇよ……

2日目はリベルテの見学からスタートした。
メンバーの方が自分の作ったものを次から次へと見せてくれる。まちを歩きながら思っていた。最近、みてみて〜!と評価を気にせず人に作ったものを惜しげもなく見せたことがあっただろうか、評価の軸から外れたいと思いながらもなかなか抜け出せないな……素直さが眩しくて羨ましくてなんだか泣きそうだった。
午後からは「アート・福祉・〈障害〉の現在」
3日間のなかで1番と言ってもいいほど自分の価値観がひっくり返った言葉がある。メンターの鈴木励滋さんが言っていた障害の捉え方だ。
「障害はその人が持っているものではなくて関係の間にある」
私はずっと、自分が普通であることに引っかかっていた。自分は当事者でないからわかり得ないと最初に前置きしていた。そこには当事者じゃない自分という守りに入って1個上から見ていたのではないか……そもそも私はなんにも普通じゃなかった、てか普通って何?

参加者の一人が「自分がアートのちからを信じられてなかった」と言った
その言葉が頭の中でこだまする

ここまでの時間を過ごし、世の中の速さを実感した。
早く便利に、早く便利にな世の中で作品に取り組むということは相性が悪すぎるのではないか……?
それでも早く!早く!と急かされることに抗えない。急かされていることに気がついた、そしてみんなと言葉を交わしているときも少しゆったりした時間が訪れたりした(ような気がした)
でもやっぱり誰かか私の「じゃあどうする?」で急かされる。それが何度か繰り返される中で体が軽くなっていた。そもそも3日間でどうにかなることではない!!諦めではない。長期戦でいこうという決意だ。モヤモヤは何一つ解釈していないが人と話すという武器を手に入れてほわほわくらいに変化した。だから2日目の夜は楽しくタコライスを作った。みんなに食べられちゃってベーコンライスになったけど心は晴れやかだった。

朝、一緒のテーブルになった人とお喋りする。
長野で育った人にはどうやらソウルマウンテンというものがあるらしい。
ケラケラ笑った。滞在型のワークショップだったのでそんなおしゃべりの時間がたくさんあった。昨日であったばかりの人と
蚊にさされながらお喋りしたり、温泉行ったり、コンビニにアイスを買いに行く時間も喋り倒したり
少し前だと考えられないようなことだなあと思った。とても嬉しかった。

最終日はのきした首脳会議
初日とおなじ椅子の配置だった
上田で起こっていることを聞いた。
そんな奇跡みたいなことが!と驚くようなことばかりだった。勝手に世の中に絶望したりしていたけれど、どこかにちゃんと希望のある場所もあるのかと勝手に泣きそうになっていた。白塗りの芋は本当に最高……
会議中使われていた
出会い直すという言葉が印象的だった。
あなたに出会うことはすごく難しい。なにかの肩書だったり属性だったり、その人を覆ってる膜みたいなものをみて会っていると勘違いしてしまう。もちろん出会いはじめが肝心かもしれないけれど、きっと出会い直すことできる。そうしていきたい。

最終日はひとり10分のなんでもアウトプットの時間が用意されていた。昨日までアウトプットという言葉をみて肩に力が入っていた。何か具体的に形にせねば!と
でも長期戦の決意を固めたので、間違ってようがなんだろうが自分のための時間にしようと思った。演じるということは誰かの言葉を発することが多い。そこが面白いところなのだが、私はどこかで自分の言葉で話さない甘えがあり、引け目を感じていたところがある。
演じるやアートと呼ばれるものは生活にもっと身近なところにあり、選ばれたひとでなくても楽しめるものだと思う。
思う。
そう思いながら、私は照明が当たるところ以外で、舞台の上以外で、お客さんの前以外でそれをし、楽しんだことがあるだろうか。私はまずそこからはじめてみようと思う。この3日間で自然と詩が書きたくなった。誰かの詩を読むこともできたが、私の言葉で書いて読んでみたくなった。
うまいものを書くのではなく、素直に書くこと。
そんなふうに思いながら空いてる時間に言葉を紡いでみた。
題名の隣に坂口彩夏と書く。これはわたしの名前なのだろうかと不思議に思った。
とても恥ずかしかった。でも誇らしかった。

みんなの発表は本当に楽しかった。
人それぞれという言葉がぴったり。
本当に人ってひとりひとりこんなにも違うんだな。違うっておかしくておかしくて最高だなと思った。

最後に白玉さんが言っていた言葉を胸に留める。
「自分をいじめる人からは離れてください、そしたらいつの間にか動いてます」
一言一句同じではないけどそのようなことを言っていた。静かに泣いた。泣いてばかりだ。
私は一人では何もできないかもしれない。
でも、人と関わることができる。対話することができる。聞くのは下手くそだから頑張らなきゃだけど聞くことができる。その面白さを、この3日間、身体で感じた。

上田から帰ってきて日常が戻ってきた。相変わらず電車はギュウギュウだ。急げ、何かを成し遂げろ!となんだかよくわからないものが急かしてくるけれど、私はもうきっと大丈夫。似たようなことを真剣に思っているひとが全国に居る。私の思考は私のもので誰かに奪われることもない。不安になったらまた話せばいい。遊べばいい。なんでここにいるのか分からないけど心地がいい場所を探し求め続けよう。
そして少しずつ足を踏み出してみよう。
絶対に幸せになるのだ。私もあなたも。

文責:坂口彩夏

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