人生肯定所

「お疲れ様でした。コーヒーを淹れましたので、よろしければどうぞ。」

 皺一つない白衣に細縁の眼鏡といういかにもな風貌から、これまたいかにもと言える柔和な口調で発せられる。目の前の人間を落ち着かせようとする気遣いが身体に染み付ききっていることがわかる。
 二時間くらいだろうか。しばらく頭部を固定していたヘッドギアを外したばかりの、解放された首を思い思いに伸ばす。

「ありがとうございます。」

 反射的に口から溢れた返答が想定の数段低い声色で、ほんの一瞬、自らの声か疑ったが、それが経過した時間を表していることにすぐに気がつく。



 人生、やりたいこと、意義、意味、無駄、ない、生き方、有限、興味、わからない、後悔、明日、たとえば、おすすめ。
 実体のないそれらしい言葉を取っ替え引っ替えに並べては、検索にかけてヒットしたウェブサイトを上から順番に漁っていた。何度も繰り返すうちに、表示されるハイパーリンクの色が青色から紫色のものばかりになっていった。ろくに中身も見ず、ほとんど結果のわかりきっている中で青色の文字が現れることに期待しながら言葉の組み替えを試した。そんな中で偶然見つかったのが「人生肯定所」だ。

 事を急いていたわけではないが、白紙のカレンダーに予定を組み込むことは容易かった。施設を訪ねてみると、そこはよくあるクリニックのような内装で、どこか居心地が悪いような、しかしそれが本来の居場所でもあるような、得も言われぬ不協和が私を迎い入れた。
 受付を済ませると奥の部屋に案内された。説明を聞くところによると、問診によるカウンセリングの前に、特殊なヘッドギアを使って脳の計測を行うらしい。脳波からこれまでの人生経験や人生観を計測し、結果を使ったカウンセリングを行う、というのだ。
 百聞は一見にしかず、ヘッドギアを被って計測台に身体を寝かせると、手際よく計測準備が進められた。多くの感覚を遮断された状態は存外にも安らぎをもたらし、遠くで鳴る機械音がそれに拍車をかけた。



「では、計測結果も出ていますので、それを見ながらお話をしましょう。」

 話し始めると、横に位置されたディスプレイが白く点く。手元の操作に従って画面の中の資料が次々と捲られていく。これまでの出来事、経歴、好きな言葉、嫌いな食べ物、思い出の景色、まるで凄腕の占い師が言い当てるみたいに、裏向きに置いたカードを表向きにひっくり返すみたいに、パーソナル情報が一つの間違いもなく可視化される。資料の中に落とし込まれた私の人生は、なんだか何かの教科書みたいで、それらが正しかったものに昇華されたような不思議な感覚を覚えた。

「それからこちら、計測結果を簡単にグラフに起こしたものでして、お見せしますね。」

 画面が切り替わる。よく見られるような数直線や十字のメモリのようなものはなく、何の飾り気も無い大きな丸と、その中心点に小さな丸が真っ白の画面にぽつんと現れる。すると、中心の小さな丸から赤い線が伸びはじめ、自由奔放な角度へ幾度も屈折を繰り返しながら進んでいく。やがて進行は止まり、子どもの落書きのような画が完成した。

「えっと、あの、このグラフは。」

「はい、こちらのグラフは、あなたの人生を一本の線に起こしたものになります。少々わかりづらいものなのですが、説明しますね。」

 私の困惑した表情に、愛想の良い笑顔を返してくる。何度も同じようなリアクションを受けるのだろう、手慣れた段取りで説明を続ける。

「時間を横軸にしたものはよくありますよね。ここで何の出来事があったとか、ここがターニングポイントだとか、あとは、ここが結婚適齢期だとか。ですが、人の人生というのはもっともっと計り知れない程に複雑なものなのです。ほんの些細な出来事の全てが分岐点で、はいかいいえの二択ではない、たくさんの選択肢が存在しています。時間軸こそ一定で一方通行であれど、その方向は左右にも上下にも定まらないのです。」

 変わらず平静を保って喋ってはいるが、伝えようとする意志の表れか、姿勢が少し前のめりになっている。
 熱が乾かした喉に一度コーヒーを流す。

「そして、それを一本の線に当てはめたものが、お見せしたグラフになります。中心点から始まり、たくさんの分岐点で選択を繰り返して線が進んでいます。この赤い線の辿った軌跡こそがあなたの人生で、この線の先端が、今、ここにいるあなたです。」

 この赤い線の始点から終点までに、私の選択の全てが描かれている。たくさんの単語の中から「人生、意義、わからない」の三つを選んで検索した瞬間も、各駅停車から急行の電車に乗り換えた瞬間も、鯛焼きをしっぽから食べた瞬間も、フジファブリックの赤黄色の金木犀を再生した瞬間も、じゃんけんでパーを出して給食の余りのデザートを勝ち取った瞬間も。初めて会って一目惚れした瞬間に動いた心の距離は、この赤い線ではどのくらいの長さなんだろう。それを失くして心にぽっかり穴が空いた瞬間は、この線はどんな方向に折れ曲がっているんだろう。


「でも、なんていうか、無駄な寄り道ばっかりですね、私の人生。右往左往して全然進んでなくて、優柔不断というか。」

 不格好なグラフの小っ恥ずかしさを紛らわせようと苦笑混じりに話すと、まるで正反対の諭すような表情が返ってくる。

「無駄だなんて、全然そんなことはありませんよ。たとえばですけど、こちらを見てください。」

 カチッ、というクリック音と同時に、中心点から青い線が伸び始める。屈折を繰り返しながら線は進み、赤い線とは異型の、それでいて同じくらい歪なグラフが出来上がる。

「こちらの青い線は、私の人生をプロットしたものです。私もなかなかのものでしょう。」

 再び柔らかく表情を崩しながら、どこか得意気にそう話す。

「青い線に限らず、誰の人生をもってしても、こんなものですよ。八方美人のみてくれのいい人だって、上に立って威張ってる人だって。きっと神様だって、綺麗な線にはならないでしょう。」

 言葉を空に放りながら手元の操作を続ける。束の間、中心点から今度は緑色の線が、間髪を入れずに紫色、橙色、黄色に鼠色、たくさんの色の線が、たくさんの人生が、四方八方に矢継ぎ早に伸びていく。数多の人生を収めるには24インチのディスプレイはあまりに狭く、歪な線同士は干渉し合い、重なり、初めからあった赤い線も、黒い大きな丸も、白い背景も、あっという間に覆われて見えなくなった。どんなに綺麗で鮮やかな色でも、いくつも混ぜていくと黒く黒く濁っていくこと改めて思い知る。


 マウスのホイールをカリカリと手前に回す。空に打ち上がったみたいに真っ黒な画面から遠のいていき、やがて余白が見えてくる。一面の黒は、大きな黒い丸へ、そして小さな黒い丸へと姿を変える。

「結局みんな、同じなのです。あなたも、私も、誰も彼も。誰かだけが正しく、うまく生きられているわけじゃないし、私たちだけが何かを間違えているわけじゃない。綺麗な軌跡を残すことだけが、この黒い丸から抜け出して他の人生とかけ離れた生き方をすることだけが、決して偉いわけじゃない。私たち一人一人が、この黒を構成する一部を果たしていることを、少なくとも私は、誇りに思ってるかな。」

 今度は、手前に回した数と同じ数だけ逆方向にホイールを回す。一面真っ黒の海面に叩きつけられる勢いで落下すると、海面を突き抜け、深く深く潜っていく。ホイールを回す指先が壊れた機械みたいに動き続けている。少しずつ、黒を構成する彩色の片鱗が露になる。真っ黒の海の底は、こんなにもカラフルで、艶やかで、美しい。
 忙しく働いた指先が、やっと止まる。拡大を続けた画面も、終着駅にたどり着いた電車のように、一息つきながらその場に留まっている。画面の中には、赤い線の先端が映る。たくさんの線に囲まれながら、そのパーソナルスペースを守るかのようにどれとも重ならない場所を選んでいる。

「辿った軌跡がどれだけ特異でも、特別でも、凡庸でも、普通でも、遠目で見れば見分けなんてつかないでしょう。でも、全員が全員、確かに違う線を形作っているのです。全部が違う形だからこそ、不出来なパズルみたいに、子どものおもちゃ箱みたいに、そこに好き放題に放り込まれているからこそ、こうやって一面を隙間なく黒く塗りつぶしているのです。マジョリティもマイノリティもありません。あなたの人生は、誰とも似通ったありふれたうちの一つであるし、決して誰とも同じではない、あなただけの、唯一つのものなのです。」

 手元のコーヒーを飲み干す。黒く淀んだ液体がなくなり、空のカップの底が見える。

「この赤い線は、どこまでも進みます。寝ても、覚めても、頑張っても、頑張らなくても。知らない道を開拓する時間も、少し立ち止まってゆっくり眺める時間も、自分や誰かの足跡でぐちゃぐちゃになった足元をグルグル歩き回る時間も、どれもあってもいいと思います。誰もその道を導いてはくれませんが、誰もその道を咎めはしないのですから。」



 来た道を引き返し、部屋を出て受付へと向かう。

「いろいろなお話を、ありがとうございました。」

 鞄の口を開け、ガサゴソと財布を取り出そうとすると、その素振りに制止をかけるような朗々とした声が飛んでくる。

「いえいえ、お代は結構でございます。来ていただけだだけで、我々としても幸いでございますので。それに何より、あなたの大変貴重なお時間を、頂戴させていただいたわけですから。」

 今日だけでも何度か見た、顔に張り付いたようなにこやかな笑顔だ。あまりの腰の低さに気圧されて、鞄から手を出す。
 心なしか、ここへ来た時よりも周囲の機械音が騒がしくなったような気がする。それは、まるで餌を与えられた猛獣の群れのような、どこか獰猛さすら垣間見えるような騒々しさだった。


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