信じたくなくても信じざるを得ないテレパシー体験

昨日のコラムの続きです。

新宿の道で2度遭遇した、空中に向かって話している謎のテレパシーおじさん。

そんな怪しげなおっさんと2度にわたって、通じ合ってしまった自分。

全然重要な出来事ではないので、当然深く考えずに当時好きだった子のこととか色々考えながら、また新宿区役所の前でカラオケの客引きに励んでいました。

すると道路を挟んだ信号の向こうから、また空中おじさんがこっちに歩いてくるのです。3度めです。彼は当時何かこの近辺で用事でもあったのかもしれません。そしてそのまま近くの喫茶店に入っていきました。

しばらくして、外からガラス越しにそうっと中を覗いてみると、そのおじさんは座ってコーヒーを飲んでいて、また空中にむかって身振り手振り会話していました。店内の席は四方の壁を正面に座る配置だったので、まるで壁に向かって喋っているように見えます。

今までの道のすれ違いとは違って、今回の僕と空中おじさんの距離は、店内と外という建物の遮断がある状態です。音も聞こえませんしガラス越しなので光の反射で少し見えにくいし、距離も結構離れています。おまけに新宿なので店内も外も人がたくさんいます。

さすがに今回はないだろうなーと思いつつも、さっそくテレパシーで外からおじさんに呼びかけてみました。

おーい!おっさん!

すると、信じられないことに、空中との会話を中断して、またクルっとこっちを振り向くのです。呼びかけたタイミングの直後です。

そして確実に僕をじーっと見ている。

う・・う・・・ウソやろ・・・・

さすがに、もう偶然の域をはるかに超えています。本来なら前の2回の遭遇の時点で十分偶然を超えているのですが、人間そうそう非科学的なものは受け入れられません。それっぽいことが仮にあったとしても、「気のせい」だとか「偶然」だとか言い聞かせて深く考えず、またいつもの日常に戻っていきます。まるでそういうことを敏感に察知しないように脳が設定されているような感じです。

でもこの時ばかりは、脳が処理できない事態に陥りました。どう理性的に考えても、もうテレパシーという他ないのです。「気のせい」「偶然」のワードで日常に戻ろうとしても、強制的に書き換えられてしまった感じです。

そしてテレパシーだと確信してしまった瞬間に、ある感情がどっと湧き上がってきました。

恐怖です。


ものすごく怖かったです。なぜ怖いのかというと、おじさんに対してというより、テレパシーのシステムを瞬時に体感してしまったからです。

どういうことかと言いますと、例えば普通の口で話す「会話」は言葉を選べるじゃないですか?色々考えながら表情や声のトーンを変えたり操作が利きます。嫌いな人でもそれを隠して会話できますし、簡単に言えば「ウソ」がつけるんです。演技ができるんですね。

それと話したくないことは「沈黙」もできるので「隠し事」も可能です。偽善も偽悪も可能ですし、中には9割型ウソみたいな人だっているでしょう。むしろ現代社会では本音のまま生きている人なんてゼロかもしれませんね。

ところがテレパシーが開かれた状態ではそうはいきません。言葉うんぬんどころか、ちょっとした感情の機敏もつつぬけ。自分の恥部やコンプレックス、悪意やごまかしなども全部つつぬけなのです。そしてそれが瞬時にわかってしまったのです。

同時に人に過ぎたる能力であることもわかりました。特に現代人には。

つまりウソが利かない心がつつぬけ同士になるので、互いに本当にきれいに心が磨かれた状態でなければ、非常に危険で恐ろしいのです。それこそお釈迦様みたく心が磨かれて安定していないと、細かい恐怖や警戒心も全部つつぬけです。ごまかしが利かないというのは本当に恐ろしいです。

例えば本当は全然思ってないけど、あえて「おっさんぶっ殺してやるぜ」みたいなことを考えてみたとしますよね?そういうのも全部つつぬけです。

言葉はいくらでも制御できるけど、心や思考の制御は比べ物にならないほど難しいです。

そういった仕組みが、その一瞬で分かってしまったのです。

そして自分が超弩級初心者であることもわかり、その瞬間僕はひたすらその空中おじさんに

「すみません、すみません」

と謝りまくっていました。思考的に迷惑をかけたし、何よりそういった心のリアルな動きも全部つつぬけで恥ずかしいしとにかく怖い。早く離れたい。

「初心者なんです、すみません本当にすみません」

と、それ以外のことは全力で考えないようにしながら、その場から僕は立ち去りました。

それ以来この空中おじさんとは2度と遭遇しませんでした。

その後色々考えをまとめたのですが、多分テレパシーは人間誰でも使える能力であり、普段でも仲の良い夫婦や息の合う友達などでは近いことが行われている。しかし完全にテレパシー能力が開花し公になってしまうと、混乱を招いたり不都合なことがあまりにも多すぎるので、現代社会の人間は相当「鈍く」設定している。敏感よりも鈍感のほうが現代は生きやすく利点もたくさんある。

心が磨かれているのが一番理想だが、別に磨かれてなくても思考のテクニックで、普通の会話のように一部を遮断したり隠したりも可能(ウソは難しい)

テレパシーをちゃんと確信できている者同士でないと、つながった状態にはならない(片方が少しでも確信が弱かったり疑いがあるとダメ)だからTVやメディア、もしくは実験室などでは実証が難しい。

「確信」の領域に入ってしまうとまず間違いなくパニクるし、多くの人はその能力を求めていない。だから優しさですっとぼける人もいる(これは後の別の体験でわかりました)

などなど、たくさんのことがわかりました。

自分も漫画や映画などの影響で、こういう世界に憧れみたいのはありましたし今でもかめはめ波はうちたいと思っていますが、実際は人に過ぎたる能力で自分はいらないなーと思ったのが正直です。

この時期はその後過敏になり、2年ほど現実生活も生きにくくなってしまったのですが、今は鈍感まっしぐらで幸せに暮らしてます。敏感なのはアソコだけにしておくのが男女ともに無難です。

とにかく長くなりましたが、この空中おじさん体験により、生まれて始めて非日常的な世界が現実にあるのだということを知りました。そしてこの日を境に宗教や哲学、精神系の本なども興味がわくようになりました。

書けることはまだ山のようにあるのですが、長くなったのでまた今度。







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