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自己紹介①(両親のこと・幼稚園〜小学校) 

自分の人生を振り返ることってあまりなかったな、と思い、少しずつ詳細に振り返ることにしました。自分の人生の汚点と言われる醜い部分とも極力目を背けず、記載して行く予定です。自分以外の誰得でお見苦しい描写もあるかと思いますが、お付き合いいただけると嬉しいです。

私は、北海道函館市で生まれました。
出産当時、父が海外で働いていたので、母は実家に帰っての出産でした。
その後、東京→横浜へと引越し、高校卒業して大学に進学するまでは、横浜で過ごしました。

函館出身の母と小樽出身の父が東京で紹介で出会ったらしいです。
(子どもの頃、父と母が仲良かった頃は紹介してくれた人たちが家に遊びに来ていたことはうっすらと覚えています。)

まずは自分の話をする前に、自分のルーツとなる父と母のことから書くことにします。



仲良かった頃・・・
そう、私の父と母は私が大学生の時に離婚しています。
母は函館で暮らしていますが、父は音信不通。

父は生まれてからも海外にいることが多く、日本にいる時はだいたい飲み歩いて、3日帰ってこないなど当たり前だったので、正直あまり幼い頃の記憶がない。
私が中学生くらいだった時に割と長期間日本にいたので、急にあれこれと口出しするようになったおじさん。そのくらいにしか思っていなかった。
反抗期で思春期の頃に急に近くにおじさんが一緒に暮らすようになったような感覚だったので、正直、距離を置いていた。
覚えていることは、夜中起きていると酔っ払って帰ってきて、いきなり説教してきて、反抗すると殴られる。そんなことばかりだ。

離婚してからは、タイ・フィリピンにいるかも、と風の噂で聞いた。
ちょっと訳ありで、web上では詳細を書けない状況になっている。
「相続放棄」という言葉を詳しく調べたのは、この話が出始めた時だ。

今の私の父の印象としては、親としてはちょっとしんどいけど、もし小さい居酒屋で隣の席に座って話をしたらめちゃくちゃ面白いおっさん。

「飲む・打つ・買う」三拍子揃っている、ザ・昭和の親父。
そんな感じだ。

いいところも悪いところも、私は父に似ていると思う。
だからこそ、人生の大きな失敗には気をつけないといけない。

母は、すごく神経質で教育熱心な性格。
子供の生活を徹底的に管理して暴言・暴力を日常的に振るう人だった。
一方で手の込んだ料理をよく作ってくれてたりもする、マメさも持ち合わせている。

弟には暴力を振るうことがなかったので、おそらく私と性格が合わなかったのか、長男だったからどう接していいかわからなかったのか、それとも単純に私の出来が悪かったのか。それはいまだにわからない。

今となっては、自分も親となり、実質ワンオペで育児をしないといけない大変さもあったのかな、と消化できているが、当時は早く家を出たいとずっと思っていた。

今でもそんな母の暴力がピタッと止まった事件がある。
あれは私が中2の時。
いつもと同じように怒鳴られて殴られていた。
きっかけは家に居場所がない私が深夜まで帰ってこないことが続いた、とかそんな感じだったと思う。
母は感情的になると話が聞けなくなるタイプだったため、なるべく言い返したりせずにやり過ごしていたが、その時は言い合いになった。

何回か殴られた時に咄嗟に殴り返していた。自分でもなぜ殴り返したのか、いまだによく覚えていない。
反撃があると思っていなかったのだろう。そのまま母は怯んで狼狽えた。
この時に、もう自分の方が腕力で上回ったのだな、と悟ったことを鮮明に覚えている。

私は堰を切ったように、これまでに抱えていた不満・思いを伝えた。
小学校の時から辛いときにカッターでつけ続けていた自傷行為の跡を見せた。その時の母の表情は今でも覚えている。

その後のやり取りはあまり覚えていないが、それ以来、母は感情的になって暴力を振るうことをしなくなった。

今は孫である息子の成長を楽しみにする、驚くほど穏やかな性格になったので、人って変わるんだな、と思っている。


自分の幼少期に話を移そう。

幼稚園
幼稚園の記憶はあまりない。
カナちゃんという女の子が好きだったこと、女の子にモテてバレンタインのチョコをたくさんもらっていたことくらいしか覚えていない。
かけっこが遅かったのに、なぜそんなにチョコをもらえたのか、謎だ。
(人間、少なくても人生で3回モテ期が来るらしいが、まさかこんな記憶が朧げな幼少期でこのうちの1回を使ってしまうとは、、とても残念だ)

左利きだったが、字を右手で書くように矯正されたのはこの頃だ。

小学校
小学校の頃、私は身体が弱く、背の順は1番前で物心ついた時からデブ。運動神経が悪いため、体育は苦手だった。
苦手なんてものではない。小児喘息が悪化して1年近く学校に行けない時期もあった。いまだに長距離走は苦手である。
今、筋トレを多少なりとも継続できるのは、この頃抱えていた運動コンプレックスが原点にあるからだと思う。
筋トレは運動神経に関係なく、自分のペースで継続できるスポーツだから。

教育熱心で信じ込むと周りが見えなくなる性格の母に育てられた私の幼少期は、あまり明るいものではない。
テレビはNHK以外禁止、ファミコン禁止、マンガ禁止と厳しいものだった。
子どもの頃に流行ったドラゴンボールや北斗の拳は大人になってから読んだ。

おまけのおもちゃと漫画がついてくる進研ゼミの存在をクラスの友達に聞いて意気揚々と始めたが、おまけのおもちゃとマンガが母の気に障ったらしく、すぐに無機質な骨太の教材に変えられていた。

私が小学生だった当時は娯楽の選択肢は少なく、流行り物も画一的。

テレビで流行っているものが小学校での会話の大半になる。流行っているファミコンのゲームの話が中心になる。みんなが知っている・やっていることを知らない・できないと、仲間に入れてもらえない。
共通の言語が話せない、ということは、こんなに辛いことなんだ、ということを幼心に感じていた。

共通の言語を話せない僕にはクラスのマジョリティが所属するクラスタには居場所がなかった。

当時の私の小学校の男子グループは大きく分けて、
①イケメンクラスタ・②面白いクラスタ・③スポーツできるクラスタ・④勉強できるクラスタがあった。それぞれのクラスタに入ることができる鍵を持っている人はそれらのうちのどれかもしくは複数に所属することが可能。どのクラスタにも所属できない人は陰キャとして扱われ、いじめられっこという役が回ってくる。そんな感じだった。

お気づきの通り、②のクラスタに入る鍵は誰でも手に入れることができる。流行りのテレビ番組を見て、流行りのゲームを持っていることができるのであれば。
運動も苦手、物心ついた時からデブ、テレビもゲームも×。そういった状況にいた私は①②③のクラスタに入る魔法の鍵をどんなに探しても手に入れることができない。④の勉強に振り切るしかなかった。
勉強していれば母に怒られることを回避しやすくなるし、勉強クラスタしか居場所がなかったのだから、必然的に勉強ばかりをするようになる。
他に娯楽がないと意外とそれが普通になるのだ。

気づいたら、クラスダントツ1番で勉強ができるようになっていた。
当たり前だ、遊びことが仕事のようなものである小学校時代に勉強に全振りしたのだから。周りが勉強しない中で勉強ばかりしていれば、相対評価では結果を出しやすい。

そしてこのある種の成功体験が、

「誰でも勉強に単純に時間をかければ、いい成績をとれて当たり前」

という歪んだ認知を産み出して、小学校生活終盤を非常に辛いものにしてしまったのだが、それについては後ほど。

勉強できるクラスタという居場所を手にした後、その居場所をもっと居心地良くするために(もっとストレートに言えば、いじめられないようにするために)、ケンカで負けないようにした。

運動できないガリ勉の私がどうやってケンカに負けないようにしていたか。
すごく単純だ。

・ケンカになったら先に反撃できないような攻撃をする
・やられたらやり返す

これを徹底的に繰り返していたら、ケンカに巻き込まれることは少なくなった。いじめっ子には、手を出したら痛い目に遭わされるヤツだからいじめの対象にしないでおこう、と思わせるブランディングだ。
そして、いじめっ子からしたら④の勉強クラスタのヤツにケンカで負けることはダサいことである。そういった雰囲気も幸いして、小学校の時はいじめに遭うことはなかった。

息子から「皆がやっているからやりたい」と言われたらやらせてあげるようにしようと考えている原体験はこのあたりのことだ。
私は学校のクラスで共通の言語が使えないことの辛さを誰よりもよく知っているから。
(ちなみに息子はかなり独特の趣味を持っていて、周りと違うことをそんなに気にしない・・・・難しい)

小学校3年生から5年生では週3回個人塾に通っていたが、なんとなくその塾が楽しかったのは覚えている。先生が面倒見よく声をかけてくれていたからかもしれない。そういえばその塾は家から割と離れた場所にあったのだが、なぜそこに通っていたのかは、わからない。
今度母にあった時に聞いてみよう。

小学校6年生からは1年間、大手中学受験塾に通った。
毎月クラス換えがあって、毎週テストの結果で席替えがある。
とにかく競争を煽られた。
私は1番上のクラスと2番目のクラスの入れ替わる狭間にいたため、上のクラスだと後ろの方の席、2番目のクラスだと前の方の席になるため、落ち着かないな、と思っていた。

同じ小学校に通っていた同級生には同窓会で、
「いつも塾の鞄(その塾のロゴが入ったスクールバッグ)を持って親が小学校まで迎えにきていたのを鮮明に覚えている」と言われた。
通ったのは1年間だけだが、それだけインパクトが強かったのだろう。

同じ学校でクラスで1番勉強できると言われている他の2人は1番上のクラスに定着していたことが私のコンプレックスを刺激した。
私は6年1組でダントツ1番で勉強ができたが、2組と3組で1番勉強できる2人よりも明確に学力が下だと可視化された。
同じ小学校という身近な場所でレベチに勉強できる人がいたことを知って、衝撃を受けた。

自分の居場所というか心の拠り所が勉強だったから、結果を出そうと思って、これまで以上に勉強したが、結局1番上のクラスに定着することはできなかった。

「時間をかけて勉強すれば、必ず結果はついてくる」という過去の成功体験による歪んだ認知が、自分の首を絞めてくる。

中学受験を迎える少し前の年末には、割と勉強に対して心が折れていた。
早く受験が終わらないかな、とばかり思っていた。

結果、第一希望の学校には不合格となり、第二希望の中高一貫の男子校に通うこととなる。

中学校以降については、改めて。








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