見出し画像

檸檬に染めて

 視界の隅で、きらりと何かが細い光を放つ。視線を向けると、彼女の黒髪を一つに束ねる小さな花の髪飾りと目が合った。金色に染まった五枚の花弁が太陽の光を反射している。

「あちいねえ」

 宇田はプシュッと爽やかな音を立て、持っていたペットボトルのキャップを開ける。

 太陽をバックにペットボトルを傾けるポニーテールの女子高生の姿は、CMで流れていてもおかしくないくらい様になっていた。彼女は毎年、夏になるとこの檸檬味の炭酸飲料を飲んでいる。ぷはぁっと飲み終える瞬間までまるで映像作品のようで、思わず笑ってしまった。

「どうして笑ってるの?」

 本当に無意識でやっていたのだろう。戸惑ったように、少しだけ目を見開いて宇田がそう尋ねてくる。

「いや、なんでも」
「なんでもって何? 絶対何かあるでしょ」

 宇田は意味がわかっていないまま僕の笑いに釣られて、半笑いで食い下がる。尚も誤魔化していると、彼女はもうっと少し唇を尖らせた。

「ごめん、怒らないで」
「別に怒ってないけど」

 わざとらしくフイッと視線を背けた彼女の後頭部に「ごめんごめん」と言葉を投げかける。

「香澄ちゃん」
 ふざけて名前を呼ぶと、「気持ち悪っ!」という鋭い声と共に彼女がくるっと振り向いた。檸檬の香りが、鼻先をくすぐる。

 じっくりと、頭上の太陽が肌を焼いていく。今日の最高気温は、確か四十度近いと今朝のニュース番組で天気予報士が言っていた。七月からこんな状態では、この先が思いやられる。地球温暖化の詳しいところはわからないけれど、毎年気温が高くなっているのを文字通り肌で感じる。宇田と初めて一緒に帰った日も夏日ではあったものの、ここまで暑くはなかった。


*   *   *   *   *


「ねえ、山下くん。一緒に帰ろうよ」
 僕らが親しくなったのは、一年生の七月上旬。宇田から昇降口でそう声をかけられたことがきっかけだった。

 僕たちは同じクラスではあったけれど、出席番号も離れていたし席が近くなったこともなかった。いきなりのお誘いに、スニーカーを持った手がぴたりと空中で動きを止めた。

「だめ?」
「いや、いいけど、宇田さんって電車通学でしょ」
 生徒のほとんどが電車通学をする中で、僕は家が高校に近いからという理由で徒歩通学を選択していた。一緒に帰るとしても、駅までの数分だけになる。

「うん。でも私、今日から茅ヶ崎駅まで歩いて帰ることにしたの」
 茅ヶ崎駅は、高校の最寄駅である北茅ヶ崎駅の一つ奥の駅だ。薄らとした記憶では彼女の家は横浜の方にあったはず。どうして一駅分だけ歩こうとしているのだろう。

「先約があるなら諦めるよ」
「そんなのはないけど」
「じゃあ一緒に帰ろう」
 何か裏があるんじゃないかと疑いながらも、断る理由もなく首を縦に振った。スニーカーに足を入れた後で、なんだか気恥ずかしくて意味もないのに靴紐を結び直した。

 太陽の光に照らされながら、彼女の横を歩く。最初こそ緊張していたものの、話してみれば宇田は明るく話しやすい人であることがすぐにわかった。

「さっき、今日から茅ヶ崎まで歩くって言ってたけどなんでまた?」
 ある程度打ち解けた後でそう尋ねると、彼女は少し黙った後で「ダイエット」とぶっきらぼうな口調で返した。

 ナイーブな問題に土足で踏み込んでしまった。慌てて謝ろうとすると、
「だから明日からも一緒に帰っていい?」
 彼女は今度は少しだけ弱々しい声でそう尋ねてきた。うん、と答えた後の宇田のほっとした顔が忘れられない。

 それからどちらかに予定がある日以外は、茅ヶ崎駅まで一緒に歩いて帰るのが僕らの当たり前になった。二年生に進級してクラスがばらばらになってしまっても、三年生になって勉強が忙しくなっても、その関係は変わらなかった。昇降口で落ち合って、寄り道をすることもなく真っ直ぐ茅ヶ崎駅へと歩く毎日。その歳月、実に二年。

 僕の片想い歴は今月で一年八ヶ月に突入する。初めは恐怖心すらあったのに、一緒に過ごす時間が長くなる中で、比例するように彼女に心を許し、彼女のことが好きになっていった。


*   *   *   *   *


 北茅ヶ崎駅に、ぞろぞろと高校生が吸い込まれていくのを横目に、僕らはその先へ歩いていく。

「山下くんは夏休みはどうやって過ごす予定?」
「まあ塾で受験勉強かな」

 脳内に、先日塾で渡された夏期講習の日程表が浮かんで、一気に胸のあたりが重くなる。朝から晩まで講義講義講義。少しでも空き時間があれば、座席を奪い合って自習。高校一年生の頃から恐れていた「受験期の夏」がもうそこまで迫ってきていた。

 思わずついてしまったため息に、憂鬱な気持ちが凝縮されているように感じる。それにしても、なんでそんなわかりきったことを聞くのだろう。宇田だって大学進学を目指している以上、僕と同じくらい受験勉強一色の夏を過ごすだろうに。

「それだけ?」
 少しの沈黙の後で、宇田は再び疑問符を投げてきた。

「まあ、あとは文化祭の準備でちょっと学校に行ったりかな」
「他には?」
「他に……。少しは息抜きで遊んだりもするだろうけど」
 どちらも彼女の求める答えではなかったようだ。眉の形が徐々に歪んでいく。

 一体、宇田は何を聞こうとしているのだろう。彼女の心理がわからない。
 急に背中に張り付くシャツが気持ち悪く感じた。第三ボタンの下あたりを掴んで、パタパタと風を起こしてみる。

「私ね、体重四十五キロなの」
「え?」
「体重」
 別に聞こえなかったわけじゃない。あまりにも急な路線変更と、悪い意味で身に覚えがある話題に戸惑っただけだ。

 ジリジリと肌が焼いていくのをこれ以上ないくらいに感じる。

「山下くんは知らないと思うけど、女子で身長が百六十センチあって体重がそれって、わりと細い方なのね。少なくともダイエットが必要なほどじゃない」

 たしか、自分が百六十センチくらいだった時は余裕で五十キロを上回っていた。性別の差があるとはいえど、宇田が細いのは言うまでも。

 ん? 

 そこで一瞬、思考が止まった。

「え、でも宇田、ダイエットしないといけないからって」
「それに」
 僕の言葉を遮って、宇田はさらに言葉を重ねる。

「日焼けだってしたくない。少ないお小遣いを削って、ちょっと高い日焼け止め買ってるの。こうやって歩いてるとどうしても日に焼けちゃうから」

 その口調がいつもより早口で、どことなく横顔からも恥ずかしさが滲んでいる気がするのは僕の勘違いだろうか。

 宇田はクルクルと再びキャップを回して、ペットボトルに口をつける。嗅ぎ慣れた檸檬の香りが鼻腔を掠める。

「ここまで言えば、さすがの山下くんでもわかるでしょ。どうして私が今こうやって君の隣を歩いてるか。あの日、君に一緒に帰ろうって声をかけたのか」

 ダイエットを必要としていない彼女が、日焼けをするのが嫌にも関わらずこうして今僕と一緒に歩いている理由。そんなもの、一つしか思い浮かばない。それはきっと、冴えない男子高校生の愚かな妄想なんかじゃないはずだ。

「う、うん」
 絶対にこれだという答えが頭の中で爛々と輝いているにも関わらず、僕の口から溢れた言葉はそんな情けない返事だった。

 頭の中で自分の膝を殴る。彼女がここまで丁寧に導いてくれたのに。喉元までその言葉は迫り上がっているのに。

 隣で、はあっと小さく息を吐く音が聞こえた。情けなさで、ぎゅっと心臓が押しつぶされる。恐る恐る横に視線を向けると、彼女はまた唇を尖らせていた。

「じゃあもう一回聞くけど、山下くんは今年の夏休みをどうやって過ごす予定?」
 さらさらと彼女の黒髪が風に揺れる。

「受験勉強を頑張る」
「うん」
「でも」
 僕は一度息を吐いてから、深く夏の熱気を吸った。いけ! と心の中で自分を鼓舞する。導き出した答えが間違いなのだとしても、いっそ全部夏の暑さのせいにしてしまえばいい。

「夏祭りとか花火に宇田と一緒に行きたい」

 今度こそ自分の中にあった答えをしっかりと届ける。言葉が口からいなくなったのと同時に、さっきまで気にならなかったのが嘘のように、割れんばかりの蝉の鳴き声が鼓膜を叩く。じっくりと汗が首筋を流れていくのを感じる。

 僕の返答を聞いた宇田の唇が、少しずつなだらかになっていく。両端がゆっくりと上がっていく。
「うん。行こう。両方行こう」
 今さっき自分が伝えた言葉が正解なのかは一切自信がないけれど、宇田がこんなふうに笑うんだから、少なくとも間違いではないだろう。ふう、と軽く息を吐く。

「塵も積もれば、だね」
 宇田がいつもより穏やかな口調で呟いた。
「一日十分だったんだよ。北茅ヶ崎から茅ヶ崎まで徒歩で十分。最初はそんなちょっとじゃ変わらないだろうなって思ってたけど、でもちょっとは効果があったってことでいいんだよね」
 宇田と視線が交わる。今までのようにそのまま会話を続けるわけにはいかなくて、僕はパッと目を逸らす。

 ついさっき、僕は彼女に決定打とまではいかないものの、十分に意味のある言葉を伝えたはずだ。だから夏祭りや花火で、次こそしっかりと自分の気持ちを伝えよう。そんなふうに考えていたのに、どうしてこの子はこんなにもすぐ確信に迫ろうとするんだろうか。思わず笑いが溢れそうになった。

 でも、思い返せば初めからそうだった。宇田が半ば強引にでも僕と一緒に帰ろうとしてくれなかったら、ダイエットなんて嘘をついてあの十分を作ってくれなかったら。僕はきっと宇田香澄という人物を深く知ることもないまま、彼女に恋をすることもないまま高校生活を終えていたのだろう。

 そんな彼女だから好きになったのだ。

「香澄」
 冗談以外で初めて彼女の名前を呼んだ。
「えっ」
 彼女は予想外のことが起こると、目を見開く癖がある。今もその瞳は普段と比べて大きくなっている。すぐ感情が顔に出てしまうところも、好きだ。全部ぜんぶ好きだ。

 この夏と、できればその先の夏でも、隣に檸檬の香りがあリますように。
 そう願いながら、僕は毎日の十分で少しずつ形作られていった四文字の言葉を彼女に伝えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?