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冬と治癒

西野夏葉さん主催の「アドベントカレンダー2022」参加作品です。

かなり長くなってしまったのですが、皆さんのきらきらしたクリスマスを彩る光のひとつになれれば嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

(最後に「あとがき」的なものを載せたので、そちらだけでもご確認いただければ……)

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 消費期限が迫っているが故に三十パーセントオフになっていた食パンを、少しずつ口に入れていく。食べるのではなく、口に入れるという作業。値引きされる前ですら、スーパーのパンコーナーで最も安い数字を掲げていたパンだ。ひたすら水分だけが吸い取られる口内には微かに小麦粉の香りが広がるけれど、それもおそらく必要最低限のもの。冷えた水でなんとか流し込む。

 朝方の冷えた空気が、キリキリと爪先を刺激する。爪先を擦り合わせて、少しでも摩擦で暖を取ろうとする。先月の終わりに、温かいとSNSで話題になっていたルームソックスを買った。それまで使っていたものよりも明らかに手触りが良く、買ってから数日は履いただけで冬が自分を受け入れてくれたような気になっていたけれど、一ヶ月近くも経てばそんな魔法も冷めてしまう。

「はい、これ」
 カタンと音を立てて、背後から伸びてきた腕がマグカップをお皿の横に置く。ゆったりと流れる湯気の向こうに、色づいた銀杏の葉っぱと同じ色に染まった液体が見えた。微かに漂う、紅茶の香り。

 マグカップをを手に取り、ふぅと息を吹きかける。ふわりと舞った蒸気は鼻の頭に着陸して、小さな水滴になった。

「冷え性なんだから温かい飲み物を飲んだ方がいいよ」
「お湯を沸かすのが面倒くさくて」
「またそんなこと言って」
 ぽんぽんと優しく頭に触れられた。彼の顔を見上げる。

 彼はいたずら好きな子どもを見るような目で私を見ていた。呆れつつも、心のどこかでそんな様子を可愛らしいと思っているような表情。なんて言うのは、さすがに自惚れているかもしれないけれど。

 彼の手に握られているマグカップからは、コーヒーの香りが漂っていた。初めて二人でカフェに行った日から、彼が頼むのは必ずコーヒーで、私は紅茶。この人は自分が飲むわけでもないのに、紅茶のパックが無くなりかけていたら会社帰りにスーパーで買ってきてくれる。

 彼が正面の席に腰を下ろして、私の皿に乗っていたパンを一枚持っていった。
「今日、何時くらいに予定終わりそう?」
 言い終えると同時に、彼はパンを齧る。パン屑がぱらぱらと机の上に落ちた。

「たぶん夕方には終わると思う。まだわからないけど、とりあえず終わったら連絡するよ」
 私の返答に、彼は「ありがとう」と優しく笑い、またパンを齧った。今度はパン屑をこぼさない。

 土曜の朝のこの時間は、ちょうど朝のテンションに合う番組がやっていないから、テレビをつけない。外から何やら嬉しそうな子どもの声が聞こえてくる。
「前も言ったかもしれないんだけどさ」
 彼がマグカップを持ちながら、少し硬くなった顔で私の手元のあたりに視線を落としていた。

「今日はちょっとお洒落なお店を予約してるから、なんて言うんだろう。その」
「わかってるよ。ちゃんとお店に合うような格好をしていくから」
 言葉に詰まった彼の続きを引き取る。彼はほっとしたように表情を緩めた。それから、ハッと慌てた様子で「いつもの服装がちゃんとしてないっていうわけじゃなくて」と付け加えたので、私はわかっていると頷いた。

 紅茶を一口飲む。室内に漂う紅茶とコーヒーの混ざった香りが、すっかり身体に馴染みんでいる。朝だなと思う。

 今日は十二月二十四日、クリスマス・イブ。私たちが付き合い始めてから二年の記念日でもある。彼がいつも通りを装いながらところどころぎこちないのも、わざわざ「ちょっとお洒落なお店を予約してあるから」と伝えてくるのも、なぜなのかは大体予想がついている。

 そんな大切な日に予定を入れてしまった私に、彼は嫌味を言うことはおろか、詳細も尋ねずに「わかった」と送り出してくれた。きっと心の中では、いろいろ疑問や不満を抱いているはずなのに。

 私が自分から言おうとしないことには、敢えて踏み込もうとしない。それが彼の優しさで、私は確かにその優しさに救われていた。

*   *   *   *   *



 心に傷がついている。決して大きいわけではないけれど、深く切り込みがあって神経が傷つけられている。冬になると痛む。ズキズキと芯が痛む。

 十六年前のクリスマスの朝だった。
 目を覚ましたら、隣にいるはずの母がいなかった。捲れた布団と傾いた枕が、確かにそこに人がいたことを教えてくれたけれど、手を伸ばして触れた窪みにもう温もりは残っていなかった。

 布団から抜け出して、裸足をフローリングの上に下ろした。思わず声を上げてしまいそうなほどの冷たさが足裏を襲う。靴下を履きにタンスまで戻ろうかと思ったけれど、何か嫌な予感がしてそのまま部屋を出た。

 静かだった。それ以上に、何の匂いもしないことへの不安が私を押し潰そうとしていた。いつもなら漂っているコーヒーの匂いがしない。卵の焼ける匂いも、パンの少し焦げた匂いも。

 震える手でキッチンの扉を開けた。電気のついていないその空間は、使い終わったお皿もコップもなく、昨日の夜のすべての片付けが終わった状態のままだった。

 リビングを探した。洗面所にも行って、お風呂の中も探した。トイレのドアノブに手をかけて、すんなりとそれを回してしまえた瞬間に、初めて自分の中でバキッと何かが割れた音が聞こえた。鍵がかかっていない扉を開けた先にある、真っ暗なスペースと蓋の閉められた便器。膝に力が入らなくなって、そのまま床に座りこんだ。徐々に自分の目の高さが下がっていき、見える世界が変化していくのを、やけに他人事のように眺めている自分がいた。

 母が消えてしまったとすぐにわかったのは、いつか必ずそういう日が来るということを心のどこかで感じていたからかもしれない。

 学校で配られた手紙を渡せば必ず目を通してくれて、必要な書類にはサインと印鑑を押して持たせてくれた。授業参観にも来てくれた。でも、出される食事は生焼けだったり、逆に焼きすぎて大きな焦げができていたりした。私が八歳になった頃から、髪を結んでくれなくなった。自分で長くなった前髪を切っていたから、どうしても不恰好ない形になり、それが恥ずかしくて前髪をピンで止めるようになった。

 母の不安定さが怖かった。世間からの目がある時はきちんとした母親なのに、それが外れた瞬間、だらりと彼女が一人の「肩書きを失った人間」として宙ぶらりんになるように感じていた。いつかこの人に終わりが来るという残酷な胸騒ぎが常にしていた。


 お昼頃にガチャっと荒い音を立てて玄関の扉が開いた。隣の県に住んでいるはずの祖母が、青ざめた表情で私を見ていた。

「しほちゃん!」
 叫び声みたいな声と共に、靴も脱がないで祖母が私に駆け寄る。力強い腕で抱きしめられて、いつもにこにこと笑っている柔らかい印象のおばあちゃんにそんな力があったことに驚いていた。

「しほちゃん……」
 状況は何一つわかっていなかったけれど、もう母はここに戻ってこないんだろうなということを感じ取っていた。自分を抱きしめる祖母の腕から、そういう決意が伝わってきていた。

 母は心を壊してしまったから、もう私とは一緒に暮らすことができない。そんな残酷な事実が、十歳の私に与えられたクリスマスプレゼントだった。

 振り返ってみても、母は悪い人間ではなかった。私が生まれてすぐに父と離婚し、女手ひとつで私を育ててくれた。大切に育ててくれた。暴力を振るわれたことも、酷い言葉をぶつけられたこともなかった。ただ抱きしめてもらえなかっただけ。くだらない話すらも聞いたり、話したりすることができなかっただけ。愛されなかった。それだけだった。傷なんてついていないはずだった。

 それなのに、十六年前のあのクリスマスの朝から、私の心はどこかが欠けたようにいつも少し寂しさを感じている。

 母がいなくなったその日から、祖母が私たちの家に泊まるようになった。ごはんを作ってくれて、それ以外の家事もすべてやってくれた。週末には祖父がやってきて、3人で近くの公園に行ったりたまに遊園地に連れて行ってもらったりした。私が「かわいそうな子ども」にならないように、精一杯私を笑わせようとしてくれる二人だった。

 それでも、どんなに二人が優しくしてくれても、埋められない穴が私の心にはあった。与えられなかっただけでも何も奪われていないはずなのに、きっと世の中には「与えられない」という傷つき方があるのだろうと思った。

*   *   *   *   *


『十二月二十四日の午後一時に、新宿駅のJR西改札を出たところで待っています。』

 数日前にきたメールのスクリーンショットの画像。何度も確認した文面にもう一度目を通す。今日が十二月二十四日であることには確信があったから、スマホの左上に小さく表示されている時刻だけを確認した。十二時五十二分。

 それだけでは不安が拭えずに、手紙のアイコンをタップしてメールのアプリを開く。星をつけていたメールの一覧から、『お久しぶりです。しほです。』と一ヶ月に私が送ったところから始まったやりとりを引っ張り出した。向こうからの三回目の返信を開いて、さっきと同じ「十二月二十四日の午後一時に、新宿駅のJR西改札を出たところで待っています。」の文章を確認した。

 こうやっていちいち確認しなくてもいいようにスクリーンショットを撮ったはずなのに、わざわざここまでチェックしてしまうなんて、自分が思っている以上に私はこれからの予定に不安を抱いているのかもしれない。

 十六年ぶりに、母に会うことになっていた。いや、正確に言うと私がそういうことにした。

 祖父母が親代わりになってから、二人が母の居場所を知っていることはなんとなく勘づいていた。母の事情もすべてわかっていて、その上で私と母を近づけないようにしているようだった。だから「母に会わせてほしい」と言うことはなかった。母にどんな事情があれ、私は捨てられた人間であり、確かにその事実に傷つけられていたから。自ら自分の傷を抉るような真似はしたくなかったし、するつもりもなかった。

 母に会いたい。会わなくちゃいけない。そう感じたのは、今からニヶ月ほど前のことだった。彼が「次の記念日にさ」といつになく神妙な面持ちで切り出してきて、ああ、プロポーズをされるのだと確信めいた予感を抱いた時だった。

 電車が代々木に到着して、少し人が出て行き、出たよりも多い人が入ってくる。土曜の新宿行きの電車には、平日の朝に乗る電車と同じものとは思えないほどゆったりとした空気が流れている。窓から差し込む太陽の光が、さっきから温かく背中に触れていた。

 祖母に頼むと、意外にもすんなりと母のメールアドレスを教えてくれた。スマホを使わない祖母からLINEを教えてもらえるとは思っていなかったけれど、電話番号が来るだろうと予想していた私は少しだけ驚き、同時に安心した。出てくれるかもわからない相手に電話をかける勇気なんて私にはなかっただろう。

 散々悩んで、母の記憶力と良心に賭けた件名をつけた。私は家を出て行った母が今どんな状況にいるのかを知らない。当時の記憶がどれくらいあるのかも、私のことをきちんと「あるもの」として扱っていてくれているのかもわからない。

 それでも、一筋のか細い光を頼りに、こう書くことしか私には選択肢がなかった。

 送ってから四日後に返信が来た。「お久しぶりです」から始まる文章を読んで、母が今生きていることを知り、少しだけ心臓の凝り固まった部分が解れていくのを感じていた。それは母への愛というよりも、自分が足を踏み入れた場所に転がっているものが気分の悪い事実ではないことに対する安堵だったように思う。母が亡くなっていたり、私のことを拒絶する文を送ってきたりしていたら、私は数日前の自分を責めただろうから。

 電車から降りると、すぐに刺すような冷気が頬を刺激した。慌ててマフラーを引き上げて、鼻の下までを隠した。人混みに潰されそうになりながら、なんとか自分と同じ方向に進む人たちの波に乗って、西口改札まで行き着いた。巨大なパネル広告の横に、人がぱらぱらと立っていた。一定の距離を保ちながら、片手でスマホ、もう片方の手をポケットに突っ込み、片足重心で立っている。待ち合わせをしている人たちなのだろうと、私もその塊の一番端に向かった。

 メールでのやり取りを通じて簡単にお互いの近況を報告した後に、「会いたい」とストレートに要望を伝えると、すんなりと「わかりました」という言葉が返ってきた。何らかの仕事をしているらしい母はちょうど来月のシフト希望を出すところだったらしい。

「そちらの都合が良い日を教えていただければ、空けておきます。」
 その文を読んだ後に自分の予定を確認すると、十二月の土日はほぼ全てに予定が入っていることが発覚した。十二月二十四日を迎える前に、なんとしてでも母に会っておきたかったけれど、それが現実的に不可能であることはすぐにわかった。

 一縷の望みにかけて、「記念日なんだけど夜からでもいい?」と彼に確認をした。いいよという言葉が返ってきたから、おそらくその裏にあっただろう幾つもの感情は見えていなかったふりをして、二十四日のお昼を指定した。

 時刻が十三時を回った。ちょうど十二時五十八分着の電車があったようで、たくさんの人が改札から流れ出てきた。群れのような人混みからぱらぱらと離脱した人が、こちらに向かってくる。休日にも関わらずカチッとしたスーツに身を包んだ男性。勢いよく走り出す子どもと、その手を握りながら歩く若い女性。真っ白なコートにピンクのマフラーを巻いた、これぞデートコーデという服装の女子は、きっと隣に立っている男子の彼女か何かだろう。

 私はゆっくりと息を吐きながら瞼を下ろした。来ないかもしれない。そんな不安が私を押し潰そうとしていた。

「あの」
 控えめな声にハッと目を開ける。顔を上げる動作の途中で、もう確信を抱いていた。今声をかけてきた女性は間違いなく母だと。

「しほ、ちゃんだよね」
 目の前に立っていたのは、一人の女性。どこにでもいそうな、街中ですれ違っても消して記憶に残ることなどないであろう女性。動物みたいにピーンと何かを感じ取ることも、すっかり靄がかかってしまった記憶の中の母の姿が鮮明になることもなかった。ただじんわりと、綿飴が夏の湿気に溶けていくように、私の中にあった黒い感情がなくなっていくのを感じていた。

*   *   *   *   *


 彼との待ち合わせは渋谷の予定だった。待ち合わせの二十分前に駅に着いて、化粧直しをするためにお手洗いに向かった。同じようにクリスマス・イブの夜から予定がある人が多いのだろうか。お手洗いには長蛇の列ができており、最後の五人は通路にはみ出してしまっていた。その一番後ろの並んで、スマホを確認する。

『ごめん! 電車に乗り遅れちゃって、二分くらい遅刻しそうです……』
 ごめんね、という犬の可愛らしいスタンプが添えられたメッセージ。『了解。気をつけてね』とだけ返信をして、スマホをしまった。

 瞼を下ろして、マフラーに顔の下半分を埋める。フーッと息を吐くと、口周りが一気に温かくなった。蒸気がまつ毛にあたるを感じる。これくらいで体耐久カールが売りのマスカラが負けるとは思わないけれど、一応後でホットビューラーでまつ毛も上げ直そうと決めた。

 胸の辺りがザワザワする。小さい頃にポイ捨てをする大人を見たり、誰かが人の悪口を言っているのを聞いたりした時に味わった感覚だった。自分が何かしたわけではないけれど、他人の「汚さ」みたいなものに触れた時の、独特な心臓の揺れ。幼い頃はよく感じていたのに、大人になって自分の中身も社会に染まっていくにつれ、手放した感覚だと思っていた。これを味わうのは久しぶりだった。

 原因はわかってる。二時間以上前に解散した母だ。

 わりと手頃な価格のイタリアン料理屋に入り、席に着くとすぐに彼女は言った。今、自分には私の父親とは全く別の「夫」がいるということ。私より十歳ほど年の離れた娘がいて、彼女が大学受験の最中だということ。そして

「会ったことはないけれど、全くの他人てわけじゃないでしょう? 半分だけど血が繋がっているんだもの。だからね」

 学費を少し出してもらえない? 

 衝撃で指の隙間からメニューが落ちた。パタンッと乾いた音が私たちの間に弾けて消えた。ただ呆然と母の顔を見ていた。穏やかそうな顔で、風に揺れるたんぽぽを見つめるかのような優しい笑みを浮かべている。確かにこの人が私を捨てたのだという確固たる事実が、ビリビリと全身を切り裂くように体内に流れこんでくる。この人はきっとこの表情のままで人を殺すことだってできるのだろう。

「なんて、ね。いきなりお金の話なんてしちゃってごめんなさい。いろいろ積もる話もあるのに」
 そんなふうに笑われたって、私の中で芽生えた恐怖は消えやしない。

 積もる話なんて、どうしてこの人は自分と捨てた娘との間に明るい話題があると思っているのだろう。私を傷付けたのは間違いなくこの人なのに、どうして私への申し訳なさようなものが少しも感じられないんだろう。堂々と会いに来たのだろう。指先の震えを抑えるために、ぎゅっと固く拳を握りしめた。

 そこでようやく、自分がこの人に何を期待していたのかがわかった。謝ってほしかった。愛していると言ってほしかった。私の陰に引っ張られて、幸せになんてならないでいてほしかった。それなのに、今目の前にいるのはどこまでも普通の一人の女性でしかなかった。

 それからはお金の話には一切触れず、最近のテレビの話なんかをしていた。偶然同じドラマを観ていて、その感想や考察なんかを話していた。表面上笑顔を作れはしても、母と話している間、一秒だって楽しいと思うことはできなかった。ずっとズキズキと心臓が痛んでいた。また傷つけられたと思った。この人に、実の母親に。

 帰り際、母は「また今度」と言ったけれど、私は曖昧に笑っただけだった。もう会うことはないだろうから。

*   *   *   *   *


 崩れてしまった化粧を軽く直して、お手洗いを出た。時間を確認したら待ち合わせ時間を五分は過ぎていて、慌てて待ち合わせ場所まで走った。階段を登り、外に出る。すっかり空は暗くなっていて、看板のネオンの光が目に痛いくらい輝いていた。

 人混みをかき分けて、巨大看板の前に行く。一人で佇む彼を見つけて、反射で足裏が力強く地面を蹴っていた。

「お待たせ」
 勢い余って、軽く彼にぶつかった。
「おっと」
 クスッと笑いながら、彼はよろけた私の身体を片手で支える。この人の笑顔が好きだなと思う。さっきまで不規則に揺れていた心臓が、少しだけ凪いだ気がした。

「ごめん、遅れて」
「ぜんぜん。俺も遅れてたからちょうどいいくらい」
 鼻を真っ赤にしている時点でその言葉に効力はない気がしたけれど、余計なことは言わずに、ごめんねとだけもう一度繰り返した。

「はい、これあげる」
 差し出されたのは、コンビニに売っているホットの飲み物の容器だった。受け取ると、じんわりとした温もりが指先に広がった。微かに漂う、ミルクティーの香り。

「買ってきてくれたの? どうして」
「疲れたかなって思ったから」
 私は今日の昼に何をする予定なのかを一切彼に話していない。でも、もう二年も一緒にいるのだから、なんとなく予想はついていたのかもしれない。私が、この後彼が何を私に伝えようとしているかを察しているのと同じで。

「お疲れ様。よく頑張ったね」
 彼はぽんぽんと優しく私の頭を撫でた。冷気で冷え切った髪が頭皮に当たって、思わず目を細めた。

 霞んだ視界の中で、彼が笑っている。その言葉だけで十分だった。さっきまで胸をかき乱していたものは跡形もなく姿を消す。今目の前にある彼と同じような温かな表情が、きっとわたしにも伝染していた。

 傷つけられた不完全な自分のままで、彼と将来を誓うことが怖かった。欠損のある私のことなんて、いつか彼が捨ててしまうと思っていた。だから、どうしてもその言葉を受け取る前に、この傷を埋めたかった。母に会って、ごめんなさいと頭を下げられて、あなたを捨ててしまってたけれど確かに愛していたのだと言ってもらって、そうやって傷ひとつない姿で彼の横に立とうと思っていた。

 そんな必要ないじゃないか。ここにいる。傷を抱えたありのままの私を受け入れ、それでも共に生きていこうとしてくれる人が。隣にいるだけで、胸の痛みなんかどこかに消え去ってしまうくらい大切で愛おしい人が。

「ありがとう」
 空いている方の腕を彼の背に回して、ぎゅっと抱きしめた。軽く彼が動揺している。普段は私からこんなふうにスキンシップをとることはほとんどないのだから当然だ。でも、今はなんだかとても彼に触れたかった。溢れるほどの愛を伝えたかった。

「珍しいね。しほが甘えてくるなんて」
「いいでしょ。今日はクリスマス・イヴなんだから」
 はいはいと呆れたような笑いと共に、彼が私を抱きしめ返す。愛されているという実感が、幾つもの光の粒になって全身を包み込む。古い傷が、少しずつだけれど確かに癒えていく。

 こうやって、これからの日々を私は生きていきたい。生きていく。

 身体に触れる静かな温もりを感じながら、私はこの後に思いを馳せた。数時間後に告げられる言葉と、その先に広がる温かな未来に。

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お読みくださり、ありがとうございます。

他の方の作品に比べて圧倒的に輝きが足りませんし、読んでいて気分の良いお話ではなかったと思います。ですが、私の中に生まれたこの子をどうしても描き切りたくて、今回このお話を公開することにしました。

難しいテーマに挑んだ自覚も、実力が見合っていない自覚もありますが、まずはなんとか書き上げられてよかったです。
小説を書くことが好きなので、もっと上手になれたらいいなと思います。ゆっくりではありますが、これからも頑張ります。

アドベントカレンダーの作品を少しずつ覗かせてもらっています。どの作品も可愛らしく、クリスマス特有の煌めきを秘めていて、読むと幸せになれます。

西野さん、改めて素敵な企画をありがとうございます。私はあなたのことがとても好きです。

明日の担当は千羽稲穂さんです。

中学時代、友人に“リア充撲滅委員会委員長”がいた私も、どんなお話が読めるのかとても楽しみです!笑

メリークリスマス🎄
ありがとうございました。

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