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「犬」から始まる、長い独白。

犬が初対面の犬と打ち解けるために、お互いのお尻の匂いを嗅ぐのってなんでなんだろう。

恥ずかしくないのかなって、少しだけ軽蔑が混じった心配を寄せてしまう。余計なお世話なことはわかってるけど。

恥ずかしくないわけがないよね。犬ってけっこう人間みたいに喜怒哀楽を持っている生き物だと思うんだけど、羞恥心だけが欠落している場合ってあるのかな。

そこまで考えて、ちょっと考え方が間違っているのかもしれないと思い直した。
むしろ恥ずかしいからなのかもしれないなって。

人間でもよくあるっていうじゃん。好きな相手に裸の写真を送っちゃうことって。愛の証明なのかな? 愛してるから全てを捧げてみせますよって覚悟? どうせそういう若気の至りで突き動かされてる恋愛なんて長続きしないし、刺青よりもデジタルタトゥーの方が簡単に人生を壊せてしまう世の中なんだから、そんな馬鹿げた行為はやらないに限ると私は思うけど。

私にとって、エッセイを誰かに見せることは裸を見られることによく似てる。ううん、本当は裸を晒されるよりもはるかに勇気がいるし、恥ずかしい。
小説を読まれるのは、ときどき苦痛になるけれどそこまで苦しくはない。たぶん「これはあくまで物語の中の登場人物たちの意見であって、私個人の意見ではありません」って他人事にできるからなんだと思う。小説の中だったら、どんなに脳がとろけそうな甘い台詞を言わせたって、反吐が出るくらいクズな人間を描いたって文句は言われない。あくまでそれはフィクションだから。

私という人間がどういう人物なのかを知られることが、生まれてから20年以上が経った今も苦手。きっとずっと苦手。
YouTubeの再生履歴や、お気に入りの曲だけをまとめたプレイリストを覗かれるのを想像しただけで、背筋が凍る。
カラオケがあんまり好きじゃないのは、私がうまく歌えなくてみんなに気を遣わせてしまうのが申し訳ないからって理由が7割くらいを占めていて、残りの3割は自分が普段聴いている曲を知られることに対する恐怖だと思う。

こんなふうに言ったら、誰もが「案外まわりの人は他人のことを気にしていないよ」なんて言って慰めてくれるだろうし、私がそっち側の立場だったら間違いなくそう言うんだろうけれど、そういう問題じゃないよね。

私は私自身を知られることが苦手で、もうけっこう長いこと「私」をやっているのに、肝心な私ですらも「私」が時折わからなくなる。でもそれが「私」なりの処世術だということは、なぜだかはっきりと理解できている。

小説もそうだけれど、予めきちんと道筋を作っておいてそれをなぞっていくという書き方が私にはできない。
それは今この瞬間も同じで、もう1000字以上書いているのにこれがどう帰着するのか、どう締めたいのか、そもそも何を書きたかったのかもわかっていない。

エッセイのように自分の内面を曝け出さなきゃいけない文章の場合は、書いていくうちに客観的に自分の考えを知ることが多い。今も、私がこんなにも他人に自分という人間を理解されることに抵抗を抱いているだなんて思いもしなかった。

前半部分はお昼休憩に書いたから、自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなってしまった。最初の部分を読み返してみる。

「あなたは私にとってかけがえのない大切な存在ですよ」と伝える際には、少なからず身を切らないとその想いを浅く感じられてしまう可能性があって、だから人は「危ないかも」と思いながらも恋人に裸の写真を送るのかもしれないね。私にとっては裸を見られることよりも、小説じゃない文章を読まれることの方が恥ずかしくて、だからこれを晒すことで「あなたたちが私にとって本当に大切な存在なんだ」ってことを証明しているんですよ。
大体、こんな感じかな。

長々と1500字も指が動くままに文を綴ってしまったけれど、最後まで読んでくれた人なんていたのかな。書いておいてこんなのことを言うのもおかしいけれど、よっぽど暇だったのかなと思ってしまうな。
この文章を読んでくれたあなたが、私という人間の輪郭を掴めなくなったと言うのなら、これ以上の感想はないです。ありがとう。

犬がお尻を嗅ぎ合うのは、肛門腺から出る分泌物や尿のにおいをから相手の情報を得るためらしいね。

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