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プランクトン

 わたしが好きなのは他の何ものでもないあなただよ。
 その言葉が言えそうで、言いかけて、やっぱり言えない。それを口にしてしまったら、わたしたちを繋いでいるか細い糸はいとも簡単に切れてしまうことを、わたしは知っている。
「じゃあ土曜の十三時に水族館の入口のところで」
 要点だけを簡潔にまとめると、成瀬くんは手元の教材を片付けはじめた。ノートの表紙に書かれた、少し右上がりの「経済学入門」の文字。お世辞にも綺麗とは言えないけれど、この独特な筆跡をわたしは忘れないだろうなと思った。
「成瀬くん、次は授業なんだっけ」
「そう。八号館だからちょっと早めに移動しないと。松崎さんは?」
「わたしは空きコマだから、このまま少し課題でもやっていこうかな」
 真面目だね、と成瀬くんは優しく笑う。その単語は過去にわたしを苦しめたものであって、正直言って今もあまり言われたい言葉ではない。それでも、彼の笑顔があまりにも眩しいから。きっと彼は本心からそう思い、そこには一ミリの悪意も存在しないのだとわかってしまうから。わたしの心臓は乱れることなく、静かに動き続けていた。
 恋とは矛盾だ、なんてまだ二十年も生きていないガキの戯言でしかないけれど。本来なら嫌で嫌でどうしようもないことが、なぜだか彼だと平気になってしまう。だから、やはりわたしは彼に恋をしている。
 荷物をカバンに詰め終わると、成瀬くんはテーブルの上に散らばった消しカスを集めて右手に収めた。
「それじゃあまた今度」
「うん。土曜日、楽しみにしてるね」
 自習室を出ていく後ろ姿が見えなくなるまでずっと、わたしは彼の背中を見つめていた。


*   *   *   *   *


 成瀬くんとわたしの繋がりは、脆い。わたしはそうある程度の心構えをしているつもりだけれど、きっとその想像を遥かに超えるくらいに、小さな力で簡単に崩れてしまう。
「海月が好きなの? 松崎さんは」
 そんなふうに彼から声をかけられたのは、大学一年生の秋だった。窓から見える銀杏並木が黄色に染まって、眩しいくらいだった。
 三十人程度しか収容できない、演習授業向けの小さな教室で。数人の先輩たちの寝息を掻い潜って、彼の囁き声が鼓膜に届いた。
 美術にはほとんど興味がないけれど、何かしらに所属しなくてはという危機感から無理やり入った美術サークルは、わたし以外も大体同じような考えを持っているようで、こうやって空き時間に集まっては仮眠をしていることが多い。家族以外の人の前で眠ることができないわたしは、この穏やかな空気が流れる教室で授業には一切関係のない小説を読むのが好きだった。
 成瀬くんは数少ないわたしの同期だったけれど、それまで話したことはほとんどなかった。サークル全体が、「みんなで仲良く」というより個々のやりたいことを重視する風潮だったのもあるだろうけれど、彼の溌剌とした声や白い歯まで覗かせる笑顔がかつてのトラウマに重なって、意図的に避けていた部分があったのだと思う。
 だから、彼からそんなふうに突然話しかけられて、一番に感じたのは恐怖と戸惑いをごちゃごちゃに混ぜた感情だった。
「なんで?」
 震える声でそう返すと、彼はスッとその細い人差し指をわたしの手元に向けた。
「そのポーチ、海月でしょ」
 わたしの手の中にあったレザーのピンク色のポーチには、一匹だけだけれど海月の刻印があった。
 暖房がついている教室内は普段以上に乾燥して、すぐに唇が乾いてしまう。ちょうど、色付きのリップを塗ろうとしたところだったのだ。
「そう。初めて海月って気づいてもらえた」
「そうなの? 俺、けっこう前から海月だなって思ってたよ」 
 もっと早く言えばよかったな。そんなふうに笑う彼を見て、全身にまとわりついていた緊張感が少しだけ緩んだのを感じた。
「俺すごい海月好きでさ、よく水族館とかでグッズも確認してるんだけど、そのポーチは見たことがない気がして。ずっと気になってたんだ」
「そうなの? 水族館とかしばらく行ってないな」
 高校の修学旅行で美ら海水族館を訪れはしたものの、あの四日間は予定がぎちぎちに詰められていて、どれもうまく記憶に残せていない。東京で感じていた暑さと沖縄での暑さでは、何かが根本的に違うと思ったことだけははっきりと覚えているけれど。
「そっか。それじゃあ、ちょうどいいかもしれない。これとか、今度一緒に行けないかな」
 深い青に染まった海を思い出していたら、成瀬くんがそんな言葉と共にスマホをわたしに差し出してきた。
「押上にある水族館なんだけど、ここの海月を見たくてさ」
 画面には、水色や紫、ピンクのライトに照らされるたくさんの海月の姿があった。しばらくその幻想的な光景に見惚れていたら、彼が次の言葉を待つようにわたしのことを見ていて、慌てて口を開いた。
「すごい、綺麗」
 不自然につっかえながらそう言うと、彼はふっと表情を緩めた。
「どうかな? もし予定が合う日があれば」
「うん。ぜひ」
 わたしが答えるのと同時に、四限の終わりを告げるチャイムが流れた。
「俺、次あるから行かなくちゃ。あとで連絡するね。日程とか決めよう」
 じゃあね、と言葉を残して、リュックを背負った成瀬くんは足早に教室を出て行った。わたしは軽く頭を下げて、そのまましばらく手に握っていたポーチに視線を落としていた。手を振ることはおろか、その後ろ姿を見届けることもできなかった。
 彼と水族館に行く約束をしたということが現実味を帯びたのは、その日の晩に彼から連絡が来てからだった。悪ふざけでもその場だけのノリでもなかったんだな、と文章でも変わらず人当たりの良い彼からのメッセージを読みながら考えていた。


*   *   *   *   *


 大きな襟が目立つ白いワンピースに腕を通しながら、わたしは数時間後に想いを馳せた。毎回必ず十三時を待ち合わせに始まる彼との水族館巡りも、今日で五回目だ。
 初めて二人で押上の水族館に行ってから、そろそろ一年が経つ。その間でわたしたちの距離はそこそこ、いや、かなり縮まったと思う。それこそ、あまりお互いに干渉しないことになっているサークルの同級生から「二人って仲良いよね」と探りを入れられるくらいには。
 だから、もうとっくにそのときは来ているのだろう。成瀬くんに、ちゃんと自分の気持ちを伝えるときが。わたしが好きなのは成瀬くんで、海月もまあ人並みには好きだけど、こんなに短いスパンで水族館を巡っていたのは、ぜんぶあなたの隣にいる理由が欲しかったからだと。 
 鏡に映る女の子らしい服装に少し気恥ずかしさを覚えながら、わたしはうねった髪をアイロンで真っ直ぐに伸ばしていく。この服装だったらウェーブをかけた方がよかったのかもしれないけれど、さすがにそれは気合を入れすぎている気がした。成瀬くんと一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、どういう顔をして彼の横にいればいいかがわからなくなる。
 この関係につける名前をわたしは求めていた。できるなら、友だちではない名前を。
 櫛の横に置いてあったスマホが、ブブッと振動した。画面に映し出された成瀬くんの名前を見て、胸に幸せな痛みが走った。
「おはよう。今日は十三時に水族館の入り口だったけど、池袋駅集合に変えてもいい? 三十五番出口から行くのが一番近いみたいだから、そこ待ち合わせとかで」
 大丈夫だよ、と返信を打つ。これもわたしへの気遣いだろうかと思ってしまうなんて、わたしはかなり自惚れているのかもしれない。二ヶ月ほど前にしながわ水族館に行ったとき、駅からの道でわたしが迷子になってしまったから。
 唇の隙間から漏れ出たため息が、どういう感情から来たなのかが自分でもわからない。ただひとつ確かなのは、わたしは成瀬くんのことが好きだということ。それさえ今日伝えることができれば、もう十分だ。


*   *   *   *   *


 まったく意識していない人との二人きりのお出かけをデートと呼ぶ気にはならない。世間的には、たとえそこに友情以上の感情がないとしても、二人きりである限りそれは「デート」と呼ばれるものだとしても、やはり何かが違うと思ってしまう。
 わたしにとって成瀬くんとの水族館巡りが「デート」になったのは、二回目の品川の水族館だった。よくSNSで見かける、色とりどりのライトに照らされた海月を見ながら、わたしの中の感情は少しずつ形作られていった。
 それまでもずっと会話が続いていたわけではないけれど、海月のブースに足を踏み入れた途端、自然とわたしたちの口数は少なくなった。全体的に普通の水族館像とはかけ離れた印象のこの水族館の中で、海月のブースは一際雰囲気が異なっていた。
「よかった」
 囁くような声が聞こえて、わたしは視線だけを成瀬くんの方に向ける。輪郭まではなんとなく視界に映って、でも目が合うことはない。この空気感の中で彼の目をまじまじと見つめ返すのは、気恥ずかしかった。
「何がよかったの?」
 この海月を見ることができて、だろうか。泳ぐように揺れる海月を見つめながらそんなふうに彼の次の言葉を待っていたら。
「松崎さんが海月を好きで」
 自分の名前が出てきたことに、少しだけ肩が動いた。反射的に顔を成瀬くんに向ける。スッとした鼻筋は今日も変わらず美しい。
 わたしが海月を好きでよかった? その言葉の真意がわからず、尋ねようと再び口を開くと
「そうじゃなかったら、こんなふうに松崎さんと出かけることができなかったから」
 成瀬くんはわたしを見て、そうはっきりと口にした。
 その瞳があまりにも優しくて。薄暗い室内でもはっきりと感じ取れるほど、温かくて。この瞳にずっと見つめてもらえたらいいのに。そう思ってしまうのは仕方のないことだった。
 目があったのは、二秒にも満たない時間だった。彼はすっと自然の視線を水槽に戻した。つられるように、わたしも水海月の尾鰭を視線で追った。
 目の前にはこんなにも鮮やかで美しい光景が広がっているのに、それらが何一つ頭の中に入ってこない。脳内で再生されるのは、今日のこの瞬間までにわたしが見てきたいくつもの成瀬くんだった。
 三ヶ月ほど前、初めて二人で押上に行ったとき、わたしは乗り換えを間違えて少しだけ集合時間に遅れてしまった。成瀬くんはぜんぜん待ってないよとお決まりの言葉の後で、「すぐ近くで売ってたから」とペットボトルのお茶をくれた。一つひとつの水槽をまじまじと見てしまうわたしに彼がペースを合わせてくれていることに気づいて謝ったら、「松崎さんの時間の感じ方っていいよね。ずっとそう思ってたんだ」と言われた。よく意味はわからなかったけれど、不思議とわたしという存在を肯定された気持ちになった。
「もし迷惑じゃなかったら、また今度、別の水族館にも誘っていいかな」
 そんなふうに尋ねられたのは水族館を出て駅に向かって帰っているときで、一緒に行かないかではなく、誘っていいかの許可を取るところが面白いなと思った。
「うん、いいよ。いつでも誘って。他の水族館の海月も見てみたいし」
 わたしが意図的に水族館に行く目的を示してしまったのは、うまく形容できないムズムズとした感覚からだった。
 今日は、券売機で当たり前のように二人分のチケットを買ってくれた。申し訳ないからとお金を返そうとしたら、「じゃあ次は松崎さんの奢りね」と悪戯っ子みたいな笑顔で返された。それが、とても嬉しかった。彼の中に次があるんだとわかったから。壁に書かれた文章にもしっかり目を通すところとか、小さい子にぶつからないように常に足元を注意しながら歩いているところとか。成瀬くんの動作を思い出すごとに、心臓の奥の方で何かが姿を露わにしていく。
 デートなんだ。
 悠々と水槽の中を泳ぐミズクラゲを見ながら、わたしは自分の中の感情をはっきりと認識した。
 大学一年の一月のことだった。


*   *   *   *   *


 休日の水族館はかなり混雑していた。
 館内図上ではまだ半分にも到達していないのに、爪先に鈍い痛みを感じる。ようやくたどり着いた海月のブースでベンチが空いていたのは、かなりの幸運だった。
「もう都内の主要な水族館は制覇しちゃった気がするよね」
 ベンチに腰を下ろし、目の前に広がる海月の水槽を写真に収めた後で、成瀬くんはそう呟いた。
 うん、とわたしは頷く。押上、品川、葛西臨海公園、品川、そして今日の池袋。ネット上で「都内の水族館」と検索して出てくるところはすべて訪れたと言っていいだろう。
 曲線を描く大きな水槽の中では、ミズクラゲが思い思いに泳いでいる。人が多いせいでこの位置から水槽の全体を見渡すことはできなかったが、それでも海月の独特な雰囲気がわたしたちを包んでいた。薄暗い室内と穏やかなBGM。少しでも気を緩めれば、緩やかに眠りの世界に吸い寄せられてしまいそうな、現実とはかけ離れている空間。この中でなら、わたしはそれを言える気がした。喉元まで競り上がり、その度に言葉に出来ずに諦めていた自分の本心を、今なら。
「じゃあさ、次は東京以外の水族館に行ってみない? 例えば、江ノ島とか」
 声が震えていたのは、きっと気のせいではない。
 東京から江ノ島まで、電車では二時間弱。今までのように押上や品川とはやはりわけが違うし、いくら水族館目当てであってもただの友だちで行くにはハードルが高すぎる。それをすべて理解した上で、敢えてわたしはその言葉を口にした。
 わたしが好きなのは海月ではなくて、ほかの何ものでもない成瀬くんだから。
 答えなんて求めていないし、そんな勇気もない。こうやって、それらしく好意を滲ませることしかわたしにはできない。それでもよかった。ただ、成瀬くんの頭の中にわたしという存在が、少しは友だちとは違う形で刻まれてくれるなら。
「江ノ島ね」
 成瀬くんは、ぽつりとそこだけを繰り返した。それからまた、しばらく黙った。やはりあの場所は、友だちとそれ以上の関係の間にある、鮮明な境界線なのだろう。
 永遠にも思えるほど、なんて言葉が似合うまでの沈黙ではなかった。緩やかに動く海月の効果を除いても、きっと四十秒もなかったはずだ。それくらいの時間を置いて、成瀬くんが再び何かを言おうと小さく息を吸う音が聞こえた。
「江ノ島ってさ、友だちと行く感じじゃなくない?」
 その言葉の意味が咄嗟にはわからなくて。成瀬くんが口にした言葉を、わたしは三回、脳内で繰り返した。少しずつその言葉が何を伝えようとしているかが、細胞に染みてきた。
 江ノ島は友だちと行く場所じゃない。わたしは成瀬くんにとってただの友だちでしかないから、だからこの人はわたしと江ノ島に行ってくれない。
 鈍い痛みが、胸を襲った。捻り上げられたようなジリジリとした痛みが、心臓を中心に少しずつ全身へと広がっていく。
「そうだよね」
 スカスカな脳みそを捻り、必死に絞りだした言葉はそれだった。
 少しでも緊張を緩めれば涙が溢れそうで、わたしは指先にまで力を入れて、じっと身体を固くした。それでも笑わなくてはいけないと、すでに半分動きを止めてしまった脳が叫んでいた。でも、笑えない。わからない。察さないで。何も、何にも気づかないで。胸に走る痛みを悟られないようにと完璧に笑おうとすればするほど、自分が普段どこの筋肉を動かして笑顔を作っているのかがわからなくなる。
 とにかく何かを言わなくては行けないと思った。
「そこまで遠出になっちゃうとね。流石にただの友だちと行くのは変だよね」
 そこに敢えて「ただの」なんていらない修飾をつけてしまったのは、見栄でしかなかった。成瀬くんがわたしを何とも思っていないように、わたしだってあなたのことは一人の友だちだとしか思ってない。二人きりで何度も水族館に行ったことに、深い意味なんてない。だって、ただ海月が見たかっただけなんだから。
 聞かれてもいないのに、わたしの頭の中にはそんな言い訳めいた言葉が渦巻いていた。さっきまでの、想いが実らなくてもいいから彼に自分の気持ちだけでも知ってもらおうというあの考えはどこに行ってしまったのか。自分でも何もわからなかった。
「そうだね」
 成瀬くんは軽く頷いて、そろそろ行こうかと立ち上がった。彼が座っていた部分のシートは、僅かにだけれど凹んでいた。わたしは身体をシートから離すことができず、頭を動かして成瀬くんの後ろ姿を見上げた。薄暗い室内では、彼の羽織るベージュのパーカーと空気との境目が曖昧だった。このままこの空間に彼が溶けてしまって、もう二度と会えなくなるのではないかと思った。
 彼がこちらを振り返り「どうしたの?」と尋ねてくるまでの数秒間、じっと彼の背中だけを見つめていた。
「ううん。なんでもない」
 わたしは腕に力を入れてなんとか立ち上がり、二人並んで隣のブースに移動した。



 真っ暗な部屋で枕に顔を押し付けながら泣き続けるより、さも痛みなんて感じていないと平気な顔をしてやり過ごした失恋の方が、それは傷として身体に残るのかもしれない。
 人並みかそれ以下の恋愛しか経験していないくせに、そんなやけに手慣れた言葉を脳内に垂れ流しながらわたしは水槽の前を歩く。
 麻美はパシャパシャとシャッターを切りながら、薄暗い室内の中をどんどん進んでいく。気怠げに水中を漂うウィーディーシードラゴンも、不規則に揺れるイソギンチャクも彼女の目にはろくに映っていないに違いない。一つひとつの水槽を写真に収めることが彼女なりの水族館の楽しみ方なのだと納得しようとしても、やはり少しだけ引っかかりを覚える。成瀬くんは、麻美とは対照的だった。すべてを網膜に焼き付けるかの如く、展示を隅から隅まで隈なく見つめていた。彼がスマホを取り出すのはいつも決まって海月の前だけで、だからわたしは彼の中に刻まれた確固とした愛を肌で感じることができたのだ。
「ねえ、見てよ。菜緒」
 四肢に絡まりはじめた記憶の糸が、麻美の声で動きを止める。
 暗い中でもわかるほどぷっくりと艶のある爪が指すのは、壁に貼られたクラゲの解説だった。
 水中で漂って生活をする生き物の中で遊泳力の乏しいものは、大きさに関わらずプランクトンと呼びます。大きさが一メートルを超える大型のクラゲですら、プランクトンなのです。
「なんか意外じゃない?」
 麻美はそう言って、いつもの独特な笑みを浮かべる。彼女の性格を知っていなかったら、見下されているとでも勘違いしかねない笑い方だ。
 スマホを掲げてそれを写真に収めた麻美は、わたしの返事を待たずに前に向き直った。

 一通り室内の展示を見てお土産屋さんを通過すると、外に出た。外には、この水族館で一番の目玉と言ってもいいペンギンがいるはずだ。
 その前に一旦休憩をしたいと麻美が言ったので、わたしたちは併設されているカフェに足を踏み入れた。彼女はなかなかヒールが高い靴を履いていた。
「にしても結構楽しいね、水族館って。小さい頃に行った記憶ではつまらない場所って感じだったから、不安ではあったけど。大人になったってことかな」
 アイスティーにガムシロップを溶かしながら、麻美はふっと息を漏らす。わたしが彼女に出会ったのはインターン先だった。そのとき私たちはお互いに二十歳を迎えていたからか、幼い頃の麻美をまったく想像できない。彼女の、海外ドラマに出てきそうな笑い方はいつから始まったものなのだろう。
 今では珍しくなってしまったプラスチックのストローの中を、液体が迫り上がっていくのが見える。
「菜緒は? 水族館は久しぶりだったりする?」
 ストローから唇を離した麻美は、そこについてしまった口紅を人差し指の腹で拭った。わたしは表面に張った膜を溶かすように、スプーンでココアを混ぜる。
「就活中はほとんど遊びに行ってないから、そう考えると久しぶりだけど」
 そこで少しだけ言葉に詰まった。液体を含んでドロドロになった膜が、スプーンの柄にまとわりつく。
「二年生のときなんかは、割と行ってたんだよね」
 言葉にして、改めて思い知る。もう二年近くも前のことなのだと。少ししたらあの日々のことをまとめて「大学生のころ」と呼び、いつかは「若いころ」なんて言葉でひっくるめてしまうのだろう。数日前の卒業式では実感できなかった時の流れというものが、一気に押し寄せてきた感覚だった。
 へえ、と麻美は器用に片方の眉だけを動かす。
「男の人と?」
 隠すことでもなかったから、素直の首を縦に振った。
「なんだ、ちゃんと大学生してたんじゃん。モノクロの大学生活なんて言うから、どんなに退屈な毎日を送ってたんだろうって心配してたのに」
 それは確か、麻美と初めて会った日に交わした会話だっただろうか。嘘はついていない。実際にわたしの大学生活は大きな起伏もなく淡々と過ぎていったし、唯一と言ってもいい彩りだった成瀬くんとの関係は、わたしが自分の手でモノクロにしてしまった。
「それで、どういう感じだったの。その人とは」
 頬杖をついた麻美が、上目遣いでわたしを見つめる。風が吹いて、緩やかなカーブを描いた黒髪がなびくと同時に、石鹸のような爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
「同じサークルの人で、もともとはぜんぜん喋ったことがなかったんだけど」
 促されるままに唇を開くと、自分でも驚くぐらい滑らかに言葉が出てきた。どの瞬間だったかも忘れたいつかの成瀬くんが、それでも確かにわたしの隣にいて笑いかけてくれた成瀬くんが脳内にフラッシュバックする。色褪せていた記憶が過去というフィルターをかけることで鮮やかさを取り戻していく。好きだった。彼のことが、とても。とても。
 きっとわたしは、ずっとこのときを待っていたのだ。成瀬くんのことを過去のこととして話す日のことを。

「それ絶対に菜緒のことが好きだったよ」
 アイスティーの最後の一口を吸うと、麻美は仕方ないなとでも言いたげな表情で息を吐いた。
「そんなこと」
 わたしのココアはまだ半分ほど残っている。口に含むと、すっかり冷めてしまった液体のだらしない甘さが口の中に広がった。
「じゃなかったら、二人きりでそんな何回も水族館なんて行かないって。菜緒だって、ちょっとは好意を寄せられてる自信があったから、遠出しようって言ったんじゃないの」
 彼女は思っていることをそのまま口にする。そこに配慮は存在しない。時間をかけてぼやかしていた感情に入るメスが、どこか心地よかった。だからわたしも、何も隠さずに自分の感情に素直になれた。
「あの人にとって自分は特別なのかなって思ってたけど、でも友だちって言われちゃったし」
「そんなのは男の変な見栄だって。菜緒に誘われたのが嬉しくて、でも自分だけ舞い上がってたらどうしようって不安になったから探りを入れようとでもしたんでしょ」
 男も男だけど菜緒も菜緒だよ。吐き捨てるように言われた言葉はチクチクと胸を刺すけれど、嫌ではない。
「もうその人とは連絡をとってないの?」
「うん。三年生になってからは就活でサークルにも行かなくなっちゃったし」
 二年前のここでのデートが、文字通りわたしたちの最後だった。
「でも連絡先くらいは持ってるでしょ。向こうのことは知らないからあれだけど、今からだってもしかしたら」
「ううん。もういいの」
 成瀬くんと過ごした優しくて温かな日々は、過去のものだ。今さっき、自らの手で区切りをつけた。時折り記憶の棚から取り出して眺めることはあっても、取りに行くことは決してない。
「いいの」
 何か言いたげな麻美の目を見て、もう一度強くそう告げた。わたしの中にある確固たる決意を感じ取ったのか、麻美は物惜しそうな顔をしながらも口を閉じる。
 さっき目にした、クラゲの説明文がふと脳内に蘇る。遊泳力が乏しいものは、大きさに関わらずプランクトン。だったらわたしだってクラゲと同じでプランクトンだった。ただ流されるままに目の前の光に手を伸ばし、それが消えかかれば直ぐに諦めてしまう。自力で掴みに行こうと努力することもなく、挙句の果てに「元からわたしは興味なんてなかった」と強がってしまう。
 わたしが好きなのは他のなにものでもなく成瀬くんだよ。その言葉は、言えなかったのではない。言わなかった。タイミングならいくらでもあったのに、傷つきたくなくて、わざと口にしなかった。弱くて意気地なしで、見栄を張っていたのはわたしの方だろう。
 スプーンでココアをかき混ぜると、白っぽくなった表面にチョコレート色が混ざり、ココアが本来の色に戻っていく。カップを持ち上げて口元に寄せる。漂う香りは変わらずに甘い。
 好きだったよ。
 心の中で言っても何も変わらないとわかっているけれど、これが最後だと決めてそう呟いた。
 甘さに染まった口内で、溶けきれなかったドロリとした塊が舌の上に残った。

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