ミラージュ・サブスタンス #6
第二章 Grow
1
水の入った盥を、デグマが泳いでいる。
ロエルはそれを黙って見つめている。
太陽は既に傾き、ガラス窓越しに暖かい日差しが部屋の中へと差し込んでいる。もうすぐ行政区画の業務終了を知らせる鐘が鳴る頃合い。
訓練室のドアが開いて、ホメロが入ってきた。相変わらず外套ですっぽりと身体を覆っている。
「何か、起こりましたか?」
「……何も。水の温度は何ひとつ変わりません。蒸発してるので、量は微妙に減ってますが」
「そうですか……お疲れ様です」
ホメロが残念そうに言った時、終業の鐘が響き渡った。大蜃体取扱いの授業は、この鐘と同時に終わることになっている。ロエルは盥の中の水を窓の外に捨てると、所定の場所に片付ける。
「あの、今日はこの後、ご飯どうですか……ご馳走しますよ」
今日の授業の記録をつけながら、ホメロが訊ねてくる。内容は昨日と同じく〈成果なし〉。進捗も補足も所感も書きようがない。
「すみません、今日もちょっと……」
ロエルは言葉を濁しながら、誘いを断る。
「そうですか……それでは、また来週に……」
「はい……また来週」
歯切れの悪い会話から逃れるように、ロエルは訓練室を去った。
群青の町南西に栄える繁華街、その更に周縁部をロエルはうろついていた。
すれ違う人間は誰も彼も顔色が悪く、ひどい者だと口から糸を引いている。低い建物が密集し、得体の知れない酒屋の看板が並び、ちょくちょく表情の読めない男達が軒先に突っ立って、監視するように通行人を凝視していた。
ここ十年間、二代目の王〈先帝〉の末から、三代目にあたる当代〈現帝〉の治世に入ってから、群青の町の成長具合は夥しく、金持ちの私腹の大きさに比例して、貧民の数も激増した。この周縁部は職を求めて他の地域からやってきて、無理やり住み着いた人々のたまり場だ。
ロエルが大蜃体の取扱い訓練のため、群青の街に移住してから一ヶ月が経った。寮はオーマッド蜃体学校長の計らいで、行政区にロエルの人生史上最も贅沢な部屋(ベッドがあり、自由に使える灯り・火元・水道がある)を与えられているが、この一ヶ月の間で、その立場に甘んじているのが嫌になった。
理由は端的に、未だデグマの力を一切発揮できていないからだ。
毎日、空っぽの瓶を見つめるのと同じくらい、虚無の訓練時間を過ごしながら、贅沢な暮らしに身を甘んじられるほど、ロエルの神経は太く出来ていなかった。
周縁部の空気は、故郷を異教国との戦火で焼かれた日から、流浪してきた町の空気によく似ている。それは、お前は拠り所のない鼠なのだぞ、と執拗に囁いてくる狂った母の吐息のよう。そして、その囁きにどこか安逸を覚える自分に、ロエルは更なる嫌悪を催す。
だが、どうしようもない。ここ一週間は、訓練後のホメロの食事の誘いも断って、周縁部の高くてまずい飯屋で、日付が変わるまで過ごしている。今日もそのつもりだった。
『よう、ロエルよう、気持ちはわかるけどさ、こんな汚い場所を無理してさまようこともねぇんじゃねぇの?』
肩に腹ばいになったデグマは、いかにもうんざりという調子で言った。
『揺籃の国きっての取り締まりの鬼である警吏様共すら、匙を投げ出す無法地帯だぜ。あんたがいかに底辺に慣れてるからってさ、貧民ごっこをするのは滑稽ってもんだ』
「今の俺が貴族ごっこをするのも滑稽だ。いいから黙ってろ」
『貧民でも貴族でもねえ、かといって凡人でもねえ。俺たちゃ一体何者かね……』
その時、すぐ近くから、男の怒鳴り声が聞こえた。それから立て続けに、物が壊されるような大きな音、人が人を殴る音、呻き声、叫び声、囃し立てる声、女の悲鳴、が、響き始める。
理由はどうあれ、その程度の暴力沙汰は日常茶飯事だ。ロエルは関わり合いにならないよう、騒動から離れようとした。次々と駆けつけてくる野次馬とすれ違いながら、ロエルは深い息を吐く。
貧民でも、貴族でも、蜃体師でもない。宙ぶらりんの己の情けなさを癒やしてくれるのは、憧れの町並みでも、その周縁の喧騒ですらなかった。
異教国の聖典に似たような話があった気がする。神の手を拒絶したために、神による最後の救いの瞬間が訪れるまで、永遠の漂泊を宿命付けられた者の伝説。彼が今でも、この地上のどこかを歩き続けていると、異教国民は信じている。
しかし、神がしろというから漂泊するのと、どうしようもなくて放浪するのとでは勝手が違う。神の業を信じられているのなら、まだマシではないか――
『ロエル、危ねえ!』
デグマの声が、鋭く耳奥を突いた。
思考に沈んでいたロエルの目が、狭い路地から飛び出してくる小柄な影を、わずかに捉える。
と、同時にぶつかった。
「きゃっ……」
突然の衝撃にロエルは蹌踉し、相手は尻もちをついた。粗末な外套のフードを深く被っていて、顔ははっきり見えないが、声から察するに少女らしい。
「危ないな、気をつけろよ」
「ハーイ、ごめんなさい!」
少女はさっと立ち上がって、野次馬の群れに消えていく。喧嘩はヒートアップしているようで、この調子だと死人が出るまで続くだろう。
ロエルは改めて踵を返して、立ち去ろうとした、が。
『お前さ……本当にそれで底辺を歩いてきたつもりかよ? 俺が危ねえって言ったのはお前でも、あのガキでもねえよ』
デグマが心底呆れきったような口ぶりで、言った。何を伝えようとしているのか、ロエルは一瞬、察しかねる。
「何のことだよ……って、おい!」
そして、それに気づいた瞬間、背筋を一直線に、嫌な冷たさが走った。
『お前の財布が危ねえって言ったんだよ』
掏られた。
急いで振り返ってみても、野次馬の背中が群がっているばかりで、少女の姿はどこにもなかった。ロエルは自分の間抜けさを呪い、恥ずかしさで死にたくなった。まさか、あんな古典的な掏摸すりに引っかかるとは。
「マズイな……あれには一週間分の食い扶持が入ってる」
『クク、一週間、ホメロ先生におごってもらうハメになるな』
「そんなことになったら、恥辱のあまり死ぬかも知れないな。ただでさえ、蜃体師として結果が出せていないのに……」
『ま、心配するな。俺の鼻はよく効く。あのお嬢ちゃんの行方くらい、さっくり追ってやるさ』
そう言って、デグマはロエルの肩からぴょんと飛び降りると、さっきあの少女が飛び出してきた路地にちょろちょろと入っていった。直接追うのではなく、彼女がここまで来たルートを辿って塒ねぐらに向かおうというらしい。ロエルは慌ててその後を追った。
夕暮れ時だが、路地裏は既に真っ暗だった。デグマにとっては得意な地形だろうが、先行するデグマを見失えば自分の居場所をも見失うロエルにとって、その道のりは苦行だった。
しかし、よく考えればここで財布を失ったところで、すなわち死というわけではない。一週間後には町から手当が入るし、それまではホメロの好意に甘えていれば良いのだ。
だが、相手はどうだろう。その日の食事にも困るような連中は山のようにいる。今ここで財布を取り返してしまったら、さしあたっての満腹の夢は泡沫と化し、のっぴきならない空腹に直面することとなるだろう。
あの財布は、自分よりも確実に不幸で貧しいあの少女にあげてしまった方が良いのではないか。そう思った時には、既に口走っている。
「デグマ」
『お前の考えてることはわかるぜ』
デグマは進む足を止めることも、振り返りこともなく答えた。
『だが、そんなお前がどうして、これまで生き延びてこられたのかはわからんな』
「甘っちょろいって言うのか」
『この場合、本当に甘っちょろいのは天の神様だな』
いるとすればだけどな、と付け加えることも忘れない。神の贈り物と謳われる蜃体の中でも、とびきり最大級の奴が言うのだから、皮肉としては申し分ない。
ロエルは仕方なく、黙ってデグマについていった。進めば進むほど道は狭く、悪くなっていく。得体の知れない物体を蹴っ飛ばしたり、ぐにゃりとした何かを踏み潰したりしているうちに、半地下になっている一軒の店を見つけた。
『ま、この辺で張ってりゃ、そのうちやってくるだろう。服装を変えても臭いはそう簡単に変わらねえから、安心してぼーっとしてていいぞ』
言い方は癪に障ったが、ロエルは敢えてデグマに従い、近くの建物の壁にもたれかかった。これ以上考えるのは無駄な気がしたからだ。
どれだけ身の上が変わろうと、自分が破れかぶれで生きている事実は変わりがない。いくら金持ちに成り上がったところで、この感覚はいつまでも付きまとうのではないか。つまり、屋根もあり灯りも点いて食料もしこたまある家を一軒確保できた……それでは、もう一軒、という具合に。
だからこそ、上の方々はこんなにもロエルに世話を焼くのではないか。
第二のホメロが欲しいから。
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