ミラージュ・サブスタンス #9
3
金属製の小さな函の上でデグマが丸くなっている。
ロエルはそれを黙って見つめている。
この函は今日、ホメロが持ってきた掌天の国産の装置で、電力を貯蓄するためのものらしい。もしかしたら、大量の電気を生み出すかも知れない、とのことだったが、果たしてというか、少しも充電量は増えなかった。
せめてものお詫びと函の後片付けを買って出る。その途中で会った町長のクラムを始めとする役人には白い目で見られた。未だ成果はなし。ロエルの肩身はとにかく狭い。
外に出ると、ホメロは数人の子どもに囲まれていた。その肩の高さに人形がふよふよと浮いていて、甲高い声で何かを喋っている。最初は耳を疑ったが、どうやらタネがあるらしい。
「じゃあ、早く帰るのよ」
ロエルが近づいてきたのに気が付くと、ホメロはその人形を子どもに返して、ばいばいを言った。ばいばい! と、子ども達は楽しそうに帰っていった。
「腹話術ですか」
「はい。空気圧と風圧をうまくいじって声帯の形を再現すると、人の声のようなものを再現できるんです。難しかったですけど……寂しかった頃に、こうしてお喋りごっこをしていたものです」
照れるようにホメロは言う。ロエルはその背後に横たわる、とても明るいとは思えない過去を見たような気分になった。
それから、二人でいつもの食堂へと向かう。暗澹とした気分のロエルに、ホメロは慰めるように声をかけた。
「見えないならまだしも、見えている以上、何らかの現象は起こせるはずなんです」
「だと良いんですが……」
ロエルは答えたが、沈んだ心持の理由は振るわない自らの能力というだけではなかった。
財産をトラーネに奪われてしまった影響で、この一週間、ロエルは彼女に食事を融通してもらっているのだった。接吻の代償がここまで高くつくとは、とロエルは自嘲なのかよくわからない文句を心中で言う。
何者かに財布を掏られた、と告げると、同情したホメロは快くご馳走してくれたが、この背徳感に今にもロエルの心を折りそうだった。
「蜃体の効果が発動しない原因として考えられることといえば、条件が足りないこと。例えば、電力を発生させる大蜃体ならば、電力を可視化する装置がなければその効果を確認できません。または、観測できないほど小ささで現象が起こっている場合。例えば、任意の原子一粒を他の任意の原子に変換できる、とか……」
「そうだとしたら、もはや揺籃の国は俺に適した国ではないですね。掌天の国にでも行かなくちゃ」
掌天の国の科学力ならば、あらゆる可能性を試すあらゆる設備が整っているはずだ。
「それはできませんよ。王法では蜃体師の国外への移動は認められてませんから。標付けを辿られて、あっという間に御用です」
無論、ロエルとしては冗談のつもりだったのだが、ホメロは大真面目に答えた。ロエルは肩をすくめる。
食堂に着くと、二人は個室に案内される。手を使わないホメロの食事風景は、かなり人目を引くので、それを考慮してのことであるとか。
行政区の食堂の清潔さは周縁部のそれとは雲泥の差がある。ロエルとしては却って落ち着かないが、ホメロは見事にこの空気に溶け込んでいた。
「やっぱり、先生は元々貴族なんですか」
ロエルは何気なく、常々突っ込みたかったことを訊いてみた。ホメロは紅茶のカップを宙に浮かせて、器用に中身を飲んでいる。何気なくやっているようだが、細い棒二本のみを使っているような感覚らしく、相当神経を使うんだとか。
こくり、と小さく嚥下して、ホメロは頷く。
「はい。腕の不全のせいで捨てられかけましたが、母が諸方に頭を下げて貴族の姓を冠することを許されたそうです。五歳の時にその母が亡くなり、後ろ盾のなくなった私は蜃体学校に出されました」
「それで、俺みたいに成績が振るわなくて群青の町へ?」
「そうですね。私は蜃体を見ることはできたのですが……扱うことができなかったのです」
一般に蜃体は、感覚を裏返すように見て、裏返った感覚を戻すようにして扱え、という指導を受ける。これは大蜃体を扱う時にも共通の感覚で、そうすることで蜃体が現象になる。
恐らく、裏返った感覚を戻す、というのは、五体満足な身体に依存した表現なのだろう。だからこそ、ホメロは引っかかって躓いた。
「オーマッド校長は私の母をよく知っていたので……その、贔屓して頂いたのです。校長からしたら、大きな賭けだったのでしょう、未熟な蜃体師は門外不出という王法を破ってまで私を群青の町へ連れていき、大蜃体を触らせた……そして、スサノと出会ったのです」
「スサノの力はすぐに引き出せたんですか?」
「出会って即出ましたよ……、あちこちで空気が弾けたり、物が壊れたりして、大変な騒ぎに。それから慣らすまで二年間、必死で練習することで今の地位につかせて頂きました。それから……十年経ちますか」
幼少の頃から、十年間も群青の町に多大な、やもすれば過大な貢献をしてきた……と。
ちょうどそこで、頼んでいた料理が来たので、二人は黙々と食事を進めた。ロエルは味付けしたライスを卵で包み、濃厚なソースをかけたもの。ホメロは野菜がふんだんに入ったお粥。好物らしい。
食事を終えて食堂を出ると、空はすっかり暗くなっており、街灯が煌々と点っていた。通りに人影はまばらで、通行人はロエルとホメロしかいない。
「ロエル」
肩を並べて歩いていると、ホメロがぽつりと言った。
「仮に、この先いつまでも成果が出なくとも、私は決してあなたを見限りません。必ず、蜃体師にしてみせます」
「……何故ですか。財布を掏られるような、こんなにも愚かな弟子なのに」
彼女の宣言は、いくらなんでもこの身に余ることのように思えて、謙遜でも何でもなくロエルは素直に問い返す。
少しだけ、間。脇の道路を乗合自動車が通り過ぎていった。
「あなたの気持ちを思うと辛いからです。蜃体師になるしかどうしようもないのに、うまくいかずにもどかしく思うその気持ち……恐らく、甘やかされて育った私の数千倍数万倍も強いでしょう」
ホメロはふ、と立ち止まって、ロエルを見た。蜃体の灯りに反射した瞳が、色彩のない視界の中で北極星のように輝いている。
「初めて私と会った時の、あなたの表情は強い意志に結ばれていた。そんなあなたがデグマを視認した時、確信しました。私達は世界を変えられる。私達の力で多くの人々を扶けられる。下らない戦争を終わらせ、貧しい人々を救い、揺籃の国を世界に誇る素晴らしい国にできる、と」
「それが……勘違いだったらどうするんですか。デグマがただの喋る蜃体で俺自身には何の取り柄もなく、ひたすら落ちこぼれていくだけの奴だったとしたら?」
ロエルの意地の悪い問いに、ホメロはふふ、と笑ってみせる。
「それが本当にわかるのは、あなたか私が死ぬ時です。勝負は、死ぬその時までわかりませんから」
「勝負」
「はい、勝負です。私達は……皆、闘ってるのですよ」
意味深長な言葉を残して、ホメロは再び歩み始める。ロエルは彼女のペースに合わせて、一歩後についていく。
「私は……共に闘う仲間が欲しいのです……」
師の呟きは、明るい星空に吸い込まれる。
『前にも言っただろ。ひずみだ』
ホメロと別れてから、一人で歩く帰路、デグマが言った。
『あのお嬢さんは、ひしひしと感じてるんだろうよ、その歪が、めきめきと音を立てて、大きなエネルギーを生み出す予兆をさ』
「それに俺がどう立ち向かえって? 何が起こってるのかもよくわからないのに」
ロエルが右手上方を見やると、建物の隙間から巨大な函型の影がぼんやりと垣間見える。群青の町の〈心臓〉、貯蓄体をぎっちりと詰め込んだエネルギー施設。あれが建造されたのがちょうど十年前のこと、ホメロがスサノと出会った時期と重なる――。
貧民でも貴族でも凡人でも蜃体師でもない、法律上存在しない茫洋のロエルという存在も、いつしかあの函に取り込まれてしまうのかも知れない。茫洋とした、何かになってしまうのかも知れない。
カフェ兼ナイトバーを目印に小路に入ると、寝泊まりしている部屋はすぐだ。街灯の灯りが乏しくなるその道に入った時、その気配に気がついた。
「や。一週間ぶり、ロエル」
振り返ると、そこに立っていたのは蔚藍のトラーネだった。外套のフードを指先で少し押し上げて、自慢の藍色らしい髪の毛を夜の暗がりに晒している。
「よ、君か……」
と返事をすると同時、じゃらりと貨幣の音が聞こえたかと思うと何かが飛んできて、ロエルは慌てて受け止めた。自分の財布だった。中身を見てみると、一週間前のそれと変わっていない。
「これはどうも……もうとっくに空っぽかと」
「……これは担保だよ。あのまま君との縁が切らすのは、どうもね」
トラーネはフードを深く被り、表情を隠して言った。ロエルは、あの半地下の店での顛末を思い出して、気まずさに見舞われる。
「……あの時は悪かったよ、つい、カッとなってさ……」
「まだ気にしてたの。そんなに気にされると、私まで恥ずかしくなるからやめてよね……」
それきり、微妙な空気が二人を包んだ。大通りを貨物車が通り過ぎ、陽気で上品な笑い声が聞こえてくる。
「それよりさ……蜃体師なんだ、やっぱり」
トラーネがぽつりと言った。ロエルは肯定も否定もできず、立っていることしかできない。
「だから、あの時、仲間が理不尽な目に遭ってるのを許せなかった……」
「さっきの話も聞いてたのか」
「……必ず、蜃体師にしてみせます、ってとこはね。それで、確定ってわけ」
フードの奥から、二つの瞳孔がロエルを見据えている。しかし、その裏を走る思索が、ほとんど読み取れない。
「何しに来たんだ。財布を返すためだけに、わざわざ来たわけじゃないんだろ」
訊ねると、トラーネは下唇をちょっと突き出した。お得意のバツの悪い顔。
「財布を返すためだけに、わざわざ来たんだよ」
「ええ……でも、はいじゃあまたね、ってわけでもないんだろ?」
「ま、折角だし、あの貸しを返してもらってもいいんだよ?」
ロエルはそこでやっとトラーネの目的を悟って、大きく溜息を吐いた。
「飯はちょうど済ませたところなんだが……」
「それならさ、君の家に泊めてってよ。今夜は家のアテがなくって」
「大したふてぶてしさだな……ま、別に良いぞ、部屋余ってるし、何なら住んでも良い」
「ええーっ! 本当に良いの! っていうか、そんなに広いの!」
トラーネは両手で口を抑えて歓声を上げた。
「町長にバレなきゃ平気だろう」
半ば冗談めかして言いながら、ロエルは家の方へと歩きだす。ここでの生活のほとんどを支援してくれているのは、群青の町町長のクラムだ。典型的な堅物役人らしいので、彼にバレるとなかなかに厄介そうだが、建物の管理人はずいぶんと甘いので、見つかっても沙汰になることはあるまい。
三階の角部屋、解錠して中へと入る。おじゃまします……、とトラーネが小声で言う。客を上げたのは初めてだから、不思議な感じがする。
居間と台所の他、二つの部屋と浴室のある、中流階級の一般的な部屋。普通に借りたら、一ヶ月の家賃だけで周縁部の貧民三ヶ月分の食費に相当するはずだ。
「使うんなら、こっちの部屋かな、窓が無い方が良いだろう」
「……本当に良いの? 私、本当に住むよ?」
ほとんど入ることのない、奥の部屋にトラーネを案内すると、彼女はしおらしい様子で訊ねてくる。
「良いよ。これだけ広い家に一人だと、却って落ち着かない」
それにトラーネには、若い蜃体師を虐げた男を殴りかけたのを、宥めてくれた恩もある。
「私が家財とか勝手に売ったり、知らない人を勝手に上げたりするかもよ?」
「そしたら警吏に通報するから平気だ」
「だよねぇ……――っていうか!」
トラーネは思い出したようにロエルの正面に回り込み、大声で突っ込んできた。
「何、この贅沢な家は! 灯りがついてベッドがあって部屋がたくさんあってお風呂もある! 君、一体何者なの! ただの蜃体師じゃないの! どうしてこんな場所に住んでる人が周縁部をうろつく必要があるの!」
「それは……話すと長くなるし、王法で機密に指定されてるところもあるんだが……」
ロエルは視線を泳がせながら、思考を巡らせる。これまでの鼠のような生活から、蜃体学校で空瓶を見続ける日々へ、そこから群青の町へと状況が一変して尚、デグマを呆然と見続ける日々。
――私は……共に闘う仲間が欲しいのです……、ホメロの台詞が脳裏に反響する。
そうだ。
俺も欲しいのだ。この空疎な日々を共に闘う仲間が。
少しくらい王法の外側を泳いでも、良かろうではないか。
「そうだな、夜は長い……じっくり話そう」
「やった」
居間へと移って、ロエルは身の上話を始めた。視覚異常であること、大蜃体のこと、師匠ホメロのこと――当然、これらは機密事項であって、いわんや不法滞在外国人であるトラーネに教えてはいけないことなのだが、そんなことはどうでも良かった。
束の間の安息でも、後に裏切られたとしても、今ここで、溜まりきった何かを吐き出せるなら、それで良かったのだ……。
――その日の夜はあっという間だった。
「もしかしたらその大蜃体っていうのは、聖典に於ける神の先駆けなのかも……誰かがたまたま見つけて、その人物が祈祷師となることで信仰の対象となって……」
と、トラーネがぼやいた瞬間から、各国の聖典の異同についての議論になった。硬直化した異教国の聖典と比べて、入植者が持ち込んだ聖典は地元の神話とうまい具合に融合し、新たな一神論を生み出し、その精神が活発な学究活動を促し、媒介となった揺籃の国は蜃体というテクノロジーをぶち込むことで蜃体による発展を宣言し、この挑発的な教義の書き換えが異教国の怒りを買う結果となって、神様もまあ、都合よく使われて可哀想だな云々、文献もなしに、延々と喋り続けたのだった。
明け方近く、二人は仲良く寝落ち、ロエルは初めて訓練に遅刻した。
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