ミラージュ・サブスタンス #5
3
揺籃の国土は南北を峻厳な山に挟まれ、西は大洋に臨んでいる。東は隣国〈異教国〉に面していて、宗教的な思想の軋轢により戦争状態にある。
揺籃の国は、蜃体を「神の賜り物」と公に称しているが、絶対的な一神の教を仰ぐ異教国はそのような蜃体の存在を認めず、〈異教征伐〉と称し五十年以上に渡って攻撃を加えてきている。かの国を「異教」と呼ぶのは、揺籃の国にとっても異教だからだ。ロエルが故郷と家族を失ったのも、この戦火に巻き込まれてのことである。
必然、東の戦場に物資を送るため、貿易によってもたらされた西の豊かな資源を運ぶ主要な運送路がある。また、南部の峻嶮な山々が蜃体の主要な産出地域であり、それを運搬する道が整備されている。北部は太古から栄える鉄鉱山で、精製された鉄を運ぶ道が整備されている……そして、群青の町は、これら揺籃の国の動脈にあたる道全ての中継地点なのだ。東西南北、あらゆる方面から人が訪れるのだから、自然、ひとつの巨大な街が出来上がる。
ロエルは車の窓から、整然とした群青の町並みを眺めていた。
丁寧に均された石の道を多くの車両が行きかい、あちこちで唸る蒸気機関と排出される明るい煙が空に昇る。通り過ぎる人々は糊の効いた服を着込み、皆真面目な顔つきで闊歩していた。
ここは群青の町の中枢を担う建物の集まった「行政区」と呼ばれる地域で、庁舎、銀行、裁判所、警吏署、有力商人組合や企業の社屋、などが整然と軒を連ねている。当然、平民の住まうような区画ではなく、住民は資産家や役員達ばかりである。
これが、南西へ向けて少し車を走らせれば、昼間から酒場が賑わい、一晩中あらゆる娯楽を楽しめる、揺籃の国の誇る繁華街に至る。南方は一般庶民の居住区が広がり、北部には工業地域となっていて、そこの人々が繁華街に流れてくる、という具合。大きな町ほど、多くの顔を持っているものだ。
幅の広い幹線道路から外れて、随分と奥まった場所にある建物の前で、ロエルの乗った車は停まった。シンプルでつるっとした外観の建物だが、警吏が扉の前に立っていて、何やら物々しい雰囲気が漂っている。一般町民がふらっと入れるタイプの施設ではないらしい。
ロエルが降りるや否や、車はさっさと出発してしまった。淡白な運転手だ。一言も会話しなかったが、どうも軍人であるようだった。
突っ立っていてもしょうがないので、門番の警吏に向かってロエルは名乗ってみる。
「……どうも、蜃体学校から来ました、茫洋のロエルと言いますが」
「茫洋のロエル……、ちょっと待っててくれ」
警吏は身なりを確かめるようにロエルをじろじろ見ると、扉の中へと姿を消した。手持ち無沙汰になったロエルは扉にもたれて、空を見上げる。建物に挟まれた空間、雲の曖昧な陰影が断片的に目に飛び込んできて、随分と窮屈に感じた。
長いこと、雲は、空に刻まれた凹凸のことだと思っていた。だが、自分の視界に色が無いことを知って、それが間違いであることを悟った。
ロエルは回想する――早暁、蜃体学校を離れる際、ロエルはミュロにだけ校長室での出来事を伝えた。ミュロは素直に喜んでくれた。すごいよ、ロエル……君をからかっていた奴ら全員、見返してやんなよ……。
それからミュロは気持ちが昂ぶったらしく、立ち昇ってくる朝日を見据えて、朗々と出立の歌を唄った。決して上手くはなかったので歌の委細は覚えていないが、歌い出しの一節が妙に頭に残った。
――おお!
白い雲は往く、青い空を奔る一条の彼方まで……
我ら、根無しの旅人を栄光へと誘い給え……
白い雲。青い空。
ロエルは口の中で呟いてみる。雲は凹シロく、空は凸アオい。発音が去ってから、どうやらそうらしい、という感触だけが、口の中に残った。
突然、後ろからどつかれて、ロエルは前につんのめった。慌てて振り返ると、さっきの警吏が扉を開けたらしかった。
「お、悪いな。茫洋のロエル、許可が出てたから、入ってくれ……この先、突き当りの階段を下りたところだ。寄り道するなよ」
別に、この警吏が案内してくれるというわけではないらしい。「どうも」とだけ告げて、ロエルは建物の中に入った。薄っぺらな絨毯の敷かれた廊下を進み、言われた通りの階段を下りていく。
「下りたところって、言ったよな……」
地下には一つ、鉄製の扉だけがあった。錠前が大げさに開いているから、鍵が下りているというわけではないだろう。誰かが中にいるのか。ロエルは備え付けのノッカーで、門扉を叩いた。
「……どうぞ」
女性の声がした。冷たい取っ手を引っ張ると、意外と軽く扉は開いた。
そこは、小ぶりな雑務部屋のようだった。書類の並んだ事務机に粗末な戸棚、壁には古い日付の連絡事項が鋲で留めてある。奥には入口と同じい鉄製の扉があり、立派な錠がついていた。
そして、椅子に腰掛け、机の上に開かれた書物を眺める一人の少女が、ロエルを見る。全身を外套ですっぽり覆った細い体躯、裁断前の生糸のように長い髪と、優しげに潤む瞳。歳はロエルと同じか少し上くらいだろう。それは久しぶりに見た、上品な異性だった。
「失礼します、茫洋のロエルと申します。オーマッド校長の紹介で……参りました」
なので、言葉を選びながら挨拶をする。彼女はつと立ち上がって小さく頭を下げた。
「遠路はるばる、ご苦労様でした。私は、雋永のホメロと言います。群青の町のエネルギー統合責任者を勤める蜃体師です」
「エネルギー統合……?」
聞き慣れない用語だった。故郷を戦火で失ってからいくつかの町を巡ってきたが、そんな肩書を持った蜃体師の話を聞いたことはない。
ロエルの反応に、〈雋永の〉ホメロは小さく首肯する。
「詳しくは追って説明します。今はまず……あなたの蜃体探しからですね、ロエルくん」
ピン、と、音が鳴った。どこからともなく鉄製の鍵が弾かれたように飛び、綺麗な軌道を描いて部屋の奥の扉を閉ざす錠の鍵穴に吸い込まれていった。解錠の音がして、錠前が床に落ちて鈍い音を立てる。
ロエルはその一連の現象を、呆気に取られて見ていた。
「大した警備システムですね……」
「システムじゃないですよ。さあ、こちらへ」
門扉がふわりと開いて、ホメロが入っていく。まるで、見えない大きな腕があるかのような物の挙動。明らかに蜃体の作用だが、どの種類をどう組んで動かしているのか見当もつかなかった。
奥の部屋は倉庫のようだった。手入れを怠っているらしく、埃の臭いがツンと鼻奥に沁みる。ホメロが室内灯を点けると、識別番号のタグの引っ掛けられた木箱が、所狭しと並んでいる室内の様子が浮かび上がった。
「これが全部蜃体なんですか?」
「察しの良いことですね。その通りです」
ロエルの質問に、ホメロは愉快そうに頬を緩めた。
「さっき『蜃体探し』って言ってましたから……でも生憎、俺の目は節穴なんで蜃体は見えないんですよ」
「話は聞いています。目の疾患で……色の見分けがつかない、と」
「知識としては知ってるんですがね。空は青い、とか」
おどけた口調で言ったが、彼女は笑わなかった。思ったより深刻に受け取られたかとロエルが邪推した矢先、ホメロの纏っていた外套の留め具がぷちりと外れて、床に落ちた。驚いたように舞い上がる埃を気にも留めず、ホメロは露わとなった腕を不器用な仕草で掲げてみせた。
「私もあなたと同じです、ロエルくん」
ロエルは愕然として、その手を見た。一本一本の指が植物の弦のように、各々でたらめな方向を向いている。筋が使い物にならないことは、一目瞭然だった。
「肘から先の感覚がありません。先天性の障碍だそうです……お陰様で、私も蜃体の取扱いには苦労しました。学校で扱う普通の蜃体は、全ての器官が正常に働いている人が見ることのできるものなので、そうでない人はお呼びではないのですよ。私達は締め出された者達です」
ホメロは皮肉っぽく笑む。ロエルは笑えない。彼女の不自然な指先から、目を離すことができなかった。
「私もあなたも、世界の感じ方が普通の人とは違います。同じ地面を踏み、同じ空気の中を歩き、同じ言葉を喋っているように見えても、器官が少し異なるだけで全く違う世界に生きていると言っても過言ではない。だからこそ、私達にしか視ることのできない蜃体がある、ということです」
「俺達にしか視えない……」
「ここにあるのもまた、普通の人達に見られることのなかった、締め出された蜃体です……蜃体黎明期に、父帝が採集したものがほぼそのまま保管されています」
蜃体黎明期というから、六十年近く前からここで埃を被っていることになる。お互い大変だな、とロエルは心の中で呟いた。
「何故、蜃体学校に置いてないんです? そうしておけば、俺が群青くんだりまで来る必要はなかったのでは……」
「……一つはここの蜃体がなくとも、揺籃の国は回っていくからです。恐らく、ここにある蜃体――〈大蜃体〉と呼ばれていますが、それを実用化したのは私が初めてです。それでも、私の生まれる以前からこの国は発展を続けていました。そして、第二に……大蜃体の存在は国の機密に指定されているからです」
「機密? 何でまた」
「蜃体学校のシステムが組まれたのと同じ理由でしょう。それだけ、大蜃体のもたらす現象は危うく、魅力的ということです……ですから、くれぐれも口外はしないで下さい」
その濫りな使役を恐れている、ということか。強力な力を引き出す蜃体師たちが一度道を過てば、揺籃の国の転覆は免れまい――という危惧。その対処が蜃体技術の秘伝化、というのは、少し短絡的な気がするが。
「わかりました。で、俺はこの中から……俺専用の蜃体を見つければ良いってわけですね」
ロエルは、膨大な量の木箱を見渡しながら言った。穴を掘っては埋めての繰り返しに似たこれまでの日常に比べれば、膨大な量の米粒の中から金粒を見つける方が気持数百倍も楽だが、どっちにしろ骨が折れることには変わりない。
全ての木箱を確認することになったら、日が暮れるのは確実だ。それを考えると、億劫さがないでもない……でも、ホメロとこの密室、二人きりで作業できるとあれば、悪い気はしなかった。何せ、久しぶりに見た上品な異性なのだから。
「……え、何?」
ホメロが驚いたように声をあげたので、ロエルはぎょっとした。思考が口に出ていたか、態度に出ていたか。自らの俗っぽさを急激に恥じる。
「うん……うん……そう、あの箱……」
彼女はロエルの存在を忘れたように、上の空で倉庫の奥へと歩いていった。まるで、誰かに声だけで案内されているような足取り。
そして、一個の木箱の前に立ち止まる。ホメロの影がその木箱の表面を覆った瞬間、蓋が軽い摩擦音を立てて外れた。
ホメロは蓋の開いた木箱を見やって、ロエルに示してみせる。
「あそこに入っている大蜃体が、あなたの適正だとこの子が言っています」
穴の開いた箱は、覗き込む者を静かに待っていた。だが、無防備にその中を覗き込むことは、ロエルにはできなかった。大蜃体の性質について今のところ疑問はないし、透明の腕が働きかけるような現象も、まぁ別にそういうものなのだろうと受け入れることはできる。
だが、今のは流石にロエルの度肝を抜いた。
「……雋永のホメロさん、あなたの扱う大蜃体って喋るんですか」
「はい、喋ります。話します。名前もありますよ、〈スサノ〉と言います」
返ってきたのは、大きな悪戯を成功させた時のような無邪気な笑みだった。
喋る蜃体、名前を持つ蜃体――それは、ロエルの知る蜃体の定義から大きく外れた特徴だった。
本来、蜃体は一見不可視というだけで、石や鉱物や材木と同じいただの物質であって、素材であって、材料であるに過ぎない。ただし、石や鉱物や材木と大きく異なる点があり、それは蜃体に同一性はない、ということである。
このわかりにくい性質を説明するのに、雫を落とした時に水面を走る波紋の比喩がよく使われる。水面に、二回、同じ質量の雫を同じ場所へ落とした時、生じる波の形や動きは同じだが、その二回の波が同一の波であるとは言えない。一回目の波を「サリル」と名付けて、二回目の波も同じモノだからといって「サリル」と呼ぶのは、ナンセンスだろう。
蜃体も同じことだ。蜃体は波のような物質であるらしい。感覚から裏返すように、と謎めいた言い方をするのも、蜃体が砕いたり切ったり曲げたりするのではない、特殊なタイプの素材であることに由来する。
以上のことを踏まえれば、違和感しか覚えないだろう。波が喋るというのか。それは一体どんな世界なのだ。
蓋の開いた箱を前に、ロエルはたじろいだ。ここから先は、これまで得てきたほとんどの常識が通用しない領域であることを、リアルに体感してしまった。ここは深淵なのかも知れない。征けば最後、戻れないかも知れない。今までの自分ではいられないかも知れない。
しかし――ここで踵を返すことの、なんと恐ろしく滑稽なことか。今更、どこへ行くというのか。今更、どこへ帰るというのか。今更、何の勇気を惜しむべきか。
「いきます……」
ロエルは、箱の中身を取り出した。
瓶。蜃体学校に於いて、何万回も何億回も目を凝らして見続けた、あのデザインの瓶。
中に、蜃体がいた。
感覚を裏返して、照り返しを掴んで、陰影に白虹を重ねるように――それは、紛うことなく、呆れるほどあっさりと、どうしようもなく、そこにいた。
膝が笑いだした。息が震えだした。不思議な眩暈に襲われた。
ロエルは知らぬ間に呟いていた。
「…………見えました」
「はい……おめでとうございます、これで初等部修了ですね」
ホメロの声は穏やかだった。それは自分が泣いているからだと知ったのは、少し経ってからだった。初等部修了程度で泣いてる場合ではないが、それにしたってここまでの道のりは長すぎた。
「その蜃体は〈デグマ〉という名前を持つと、スサノは言っています」
「デグマ……」
ロエルは瓶を掲げて、デグマと呼ばれた蜃体を見る。
それは、よくわからない動物のような姿をしていた。短い前足に太い後ろ脚、平らな顔面に塗り潰したような眼球、尻まで届く細く長い耳――鼠に近いが汚らわしい感じはしない。何に似ているか、ホメロに意見を求めようとしたが、彼女にはデグマが見えていないことに思い当たる。
デグマは死んだように瓶の中で硬直していたが、ロエルが観察しているとふいにその眼に生気が宿った。混乱したように狭い瓶の中をぐるぐる暴れ回ると、瓶の栓を器用な体勢で蹴りつける。開けろと言うらしい。促されるままに栓を外してやる。
『おー、狭っ苦しいところだった! ああ、もういくら不人気だからって言ってもよ、もっと優しく扱ってくれても良いよなあ』
瓶から這い出てきたデグマは、ロエルの手首にふてぶてしく身を落ち着かせた。
とても信じがたい光景だった。喋るだけでなく、意志を持って動き回り、それなりの感情表現をするとは――。
ロエルは先まで抱いていた感慨をすっかり失い、白けた心持ちでホメロに言った。
「……確かに喋りますね」
「ね、喋るでしょう」
ホメロの同情するような気色。ロエルにはスサノの姿は見えないが、大概似たようなものらしい。
『ん、オレは喋るのか?』
デグマが意外そうに頭をもたげた。
「喋ってるよ。自分でわからないのか」
『そうかいそうかい、悪ぃ悪ぃ……オレを見える奴がいないと、オレが喋れるのかどうかもわからないしな。って、あ!』
ホメロの方を見たデグマが、嬉しそうに声を上げる。
『スサノもいるじゃねえか! 保護者が見つかるなんて、悪運の強い奴だな!』
まるで旧友と久しぶりに出会ったかのような調子。大蜃体同士は、無条件で認識し合えるらしい。
デグマの呼びかけに、ホメロが驚いたように身を竦めた。
「……スサノがものすごい勢いでデグマを罵倒しています」
『口の悪い奴だな。お嬢さんも感化されないように気をつけな……。あ、で、あんたの名前は何ていうんだ』
小さな眼がロエルを見上げる。黒い眼光――色はわからないはずだが、不思議とその瞳の色だけはすぐに判別がついた。まるで、長い間そればかり見続けていたかのように。
「茫洋のロエル。そっちは、雋永のホメロさんだ」
『オレはデグマ。よろしくよ。ま、オレが見えるってことは、目が悪いんだろ。可哀想に、オレも一緒だ』
デグマはくつくつと笑う。動物――これは動物もどきだが、笑うところはなかなかに不気味だった。
「それで……お前はどんな性質を持つんだ」
ロエルが問うと、デグマは口を目一杯天井の方へ向けてしばらく黙っていたが、やがてさらりと答えた。
『わからん』
「え」
『何せ、たった今見られたばっかりだしな。これから探していくんだよ』
「量産されている蜃体は、父帝の時代で既に手法が確立されていますが、大蜃体は先帝王代末期に実用に供するようになったばかりです。蜃体技術に於ける、辺境中の辺境というわけですね」
肩透かしを食らったようなロエルの反応から察したか、ホメロが注釈してくれた。
ロエルは何故、この少女がこの場所で自分のことを迎えたのか、ようやく合点がいった。
「で、その辺境を一緒に漂おう、ってことですか」
「不思議な言い回しですが……大筋は間違ってないですよ」
ホメロは、ふふ、と面白そうに笑う。
「明日から私が特別教師として、あなたのコーチをしますので、宜しくお願いしますね」
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